「……橘姐が始めたのは、アイツが姐さんと会ってからだ。去年の、秋頃」
 ぽつりぽつりと葵が語り始め、それをいずるも克己も黙って聞いていた。
「最初は、俺達から情報を買いに来たのかと思っていた。だから、姐さんはアイツに抱かれてはいなかったと思う。アイツは姐さんの人間への憎しみを見抜いていて、そこを利用した」
「憎しみ?」
 確かにクローンは人間に対して憎しみを抱きやすいが、それだけではないと言いたげな葵の言葉にいずるが問うと、彼は眉間を寄せる。
「姐さん、妊娠したんだ。一応クローンは生殖機能を抑えられてるけど、それでもする時はする。でも、客に殴られて流産した。その後の処置をした男が、姐さんに薬を渡した」
 酷いな。
 淡々と葵が語る内容にいずるは思わず顔を顰めていた。クローンの人権云々を説くつもりは無いが、パッと見ても彼女達は普通の人間だ。ただクローンというだけでそんな扱い方をされては、彼女達が哀れ過ぎる。
 心と体の痛みに泣きくずれる美少女を見てその男がどれほどの思いを感じたのかは解からない。だが、男はそこで少しだけ自分の素性を明かし、悪い人間に復讐をしてみる気はないかと持ちかけた。
 言葉巧みに乗せられ、彼女は何人もの客にそれを渡した。戦争に行ったとぼやいた客は彼女の甘い声に簡単に乗り、それを飲んだ。中には噂を聞いて自ら求めてきた生徒もいる。そうして、中毒となった客は橘の元に通い、彼女は一躍人気者となった。
「ヤバイ薬だと知っても薬を渡す事を止めなかったのは、苦しむ人間達を見て俺達は優越感を感じていたから」
 優越感という言葉にいずるは息を呑み、克己は目を細めた。そんな彼らの態度は暗にその言葉を発した葵を責めていたが、葵はその空気に瞬時に眉間を寄せた。
「ざまぁみろ」
 葵は顔を上げ、克己といずるを睨みつけ、一気にまくし立てる。
「お前ら人間なんて、俺達は大嫌いだ。傲慢で、卑劣で、どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ。俺達を散々良いように弄んでいるのに、俺達から怨みをかわないと思っていたのか?お前らに解かるのか、生まれた時から人間に服従を強いられて、自由を奪われ、人間の気まぐれでどうにでもなる俺達の状況を!」
 だから、そんな人間の人生を反対に操れたことに、自分達は心の底から優越を感じたのだ。強い怒りを拳に込め、葵は手の平に爪が食い込むのにも構わず、それを2人の人間に突きつけた。
「お前達が、一度でも俺達のことを憂慮したことがあったか?無かった!ただの傍観者だった!だから俺達も、俺も、お前らの事を、ただ傍観しただけだ。それの、何が悪い?」
 鼻で笑いながら葵は自分の髪をかき上げる。あの薬で次々と死んでいく人間の姿は遠目から見ていてもいっそ痛快だった。しかし、そんな感情にブレーキをかけた存在が登場してくる。
「でも、あの人達……カケルも違ったから」
 声のトーンを下げ、葵は翔の名を吐き出した。
「カケルは、姐さんのことを本当に心配していた。姐さんを、助けてくれた」
 だから、話した。
 ぽつりと呟くように葵は言葉を落とし、沈黙する。
「お前らも結局はその人間に利用されていたんだぞ」
 克己の一言に、彼は一瞬だけ強く相手を睨みつけたが、すぐに肩を落とした。
「わかってる。だから、姐さんを止めて欲しい……カケルを助けてほしい」
 か細い声での懇願にいずるは眼を瞬かせる。ついさっきまで人間を罵倒していた彼の憎々しげな態度から一転したこの様子に、克己の方もゆっくりと息を吸い、吐いている。この言葉の重みを受け入れるように。
「そのつもりだ」
 そして、答えははっきりとした力強い声。その克己の答えにいずるは大した驚きは感じなかったが、揚羽が少し睫毛を震わせたのを見た。
「かける……」
 ぽつりと彼女の口から零れた音に、克己といずるは彼女を振り返る。その視線に揚羽はハッと目を見開き、すぐに取り繕うように笑んだ。
 その時、揚羽の横の灯篭の光がゆるりと揺らめき、障子が開いた。
「揚羽さま、大変!」
 駆け込んできた少女は克己といずるの姿に一歩引いたが、その様子に揚羽は立ち上がり、彼女と共に障子の向こうへ姿を消す。取り残された克己といずる、そして葵はお互いを見回し、微妙な空気を生む。途端、葵が剣呑な目で克己を睨み付けた。その視線を克己は鼻で笑い、ゆっくりと腕を組む。
「お前、揚羽に言ってないのか。橘も薬の乱用者だということを」
 その指摘に葵はギクリと身を竦め、それにいずるは克己を振り返った。
「何だって?橘もまさかあの……」
「あの薬ではないが、橘も薬物に依存しているらしいな。その薬も、その男から貰っているのか?」
「……そうなんじゃないか。詳しくは知らないよ、俺も」
 ふいっと顔を背けた葵に、克己は呆れたように息を吐く。葵はまだ今回の一連のことをそれ程大きなことだと感じていないらしい。そんな克己のため息に、葵は彼は強く睨み上げた。
「何で……こんなところにいるんだ、コウガカツミ!お前っ、俺から話しを聞きたいんなら直接聞けよ、何で揚羽様に……!」
「俺がお前を捕まえたところでお前は俺に話さないだろう」
「ったりめーだっつーの!誰がてめぇなんかに!」
 だんっと床を強く踏み鳴らした葵に克己は不快気に目を細め、それに答えるように葵も眉間を寄せた。初対面とは思えないその険悪ぶりに、いずるは思わず「知り合いか」と克己に問う。その声は葵の耳にも届いていたようで、彼はチッと舌打ちした。
「知り合いなんかじゃねーよ」
「顔見知り程度だ」
 そう2人がほぼ同時に答えた時、揚羽が消えた障子が開き、緊迫した声が響いた。
「ヨシワラに、生徒会が来たわ」
 揚羽の隣りにはその情報を急いで持ってきた少女が息を切らしていた。彼女は桜という名の葵の同僚だ。葵がいち早くその言葉に反応し、目を見開く。
「何だって?橘姐さんは?」
 葵は慌てて聞いたが、桜は首を傾げて
「橘姐さんはそれより少し前に出て行ったよ。何か、地図……みたいなの持ってたけど」
「D-35789ね」
 揚羽がすかさず口にした番号に克己と葵が彼女を振り返った。まさか、というその黒い眼に、揚羽は頷きながら薄紅色の唇を動かす。
「生徒会からそのディスクの盗難の話を聞いています。逃走者が現れるから警戒をしておけと」
「そんな、まさか姐さんが脱走なんて!」
 ヨシワラからの脱走は重罪だった。この学校から許可無く外へ出ることも、重い罪になる。それはクローンも生徒も変わらないが、問題なのは、逃げ出したらそれを止められなかった周りにも連帯責任で重い罪に問われることだった。生徒でさえ最悪の場合は銃殺刑になるのに、彼らは極刑にされることが容易に想像出来る。だからこそ、仲間意識の強いヨシワラの住民は今まで脱走などしてこなかったのだ。仲間に迷惑がかかること、それが彼らの最大の恐怖だ。橘が自分達を犠牲にしてまで逃げ出すわけがない。
 ハハ、と引き攣った笑いを浮かべながら葵は声を上げたが、そんな彼を他の3人は平静な眼で見る。その視線に、葵は全身から冷たい汗が落ちるのが解かった。
「嘘だろ」
「……早く橘を見つけないと」
 揚羽は小さく呟き、その言葉に葵が覚悟を決めて身を乗り出した。
「揚羽様、俺が。俺に、やらせて下さい。タワーなら俺が最適でしょう。それに……」
 彼はちらりと克己を見て、不承不承ながら口を開く。
「……今日、昼にカケルと姐さんを会わせる約束をしてた。もしかしたら、翔も」
 ヨシワラに生徒会が来たことに葵は翔との約束を口にし、不安を口にする。それに克己が不快気に声を上げた。
「余計なことを」
 舌打ちをしながら葵より早く克己が腰を上げる。意味が解からないいずるはそれを見上げることしか出来ないが、こそりと揚羽が説明をしてくれた。
「D-35789はキリングタワーから逃走出来るルートのデータが入っています。だけど、そのデータは大嘘です。そのルートに沿っていくと、トラップが待っています」
 その地図を橘が持ち、その橘を翔が追ったようなことになれば、彼の身も危うい。彼らはあの番号を聞いて瞬時にそこまで理解したのだ。
「こんなつもりじゃ、無かったんだ。俺はただ……」
 項垂れる葵は拳を握り、畳を殴りつける。そんな彼に、克己は冷ややかな目を向けた。
「クローン程度が何を夢見たかは知らないが、お前ももう二度とあいつに近付くな」
 克己に冷たく言い放たれ、葵は怒りに顔を上げる。
「お前に何が解かる!」
「葵」
 克己に食って掛かろうとしたところを、揚羽が冷静な声で止める。それに葵は口を閉じるしかない。今回のことはもう葵が何か意見できる立場ではなかった。
「俺は行く。お前はここに残れ」
 さっさと部屋から出て行こうとする克己に立ち上がりかけたいずるは、彼の付け足しに目を見開く。
「何でだ。俺だって、橘には色々と聞きたいことが」
「それより、お前は命を狙われている事を忘れるな」
 いずるも正紀ほどではないが、例の薬には散々な目に合わされてきた。それに、彼女が動いているなら、それに気付いた正紀も動いているに違いない。彼の手助けをしたかったが、今のいずるにはそれさえも危険な行為だった。悔しげに眉間を寄せたいずるに、克己はため息を吐く。
「それに俺は橘のところに行く気は無い。翔が今どこにいるか確認しに行くだけだ」
「……甲賀」
 随分と友人を大切にしているな、と言いそうになり、いずるは言葉を止めた。しかし、その呼びかけを耳にした克己は怪訝な視線を投げてくる。そんな彼の態度に、一つ思いついた。
「日向」
 普段、元気で明るい友人の顔を思い出し、そういえば自分は彼の笑顔しか知らないな、と思う。いずるが思い出せる翔の顔は笑顔だけで、それが崩れるところを想像出来ないくらいだ。だが、今の克己の頭の中にはいずるの知らない翔の顔があるのだろう。
「日向付きだったら、さっきの話、呑んでやっても良い」
 いずるの言葉に克己が眉間を寄せる。意味が解からないと言いたげな彼に、いずるはニコリと笑ってみせた。
「俺、お前のことずっと警戒していた。今でも信用して無い。何か、お前、人って感じしなかったんだよ」
 友達をあっさり撃ち殺せる相手を、信用出来るわけがない。そう続けたいずるの頭の中には、4月の始めの例の事件が残っていた。ルームメイトをあっさりと射殺した克己の横顔に怖気が走ったものだ。正紀はどう感じたのかは解からないが、隣室ということで何だかんだと彼と会話をしていた。そんな幼馴染が彼に殺されやしないかとハラハラしていた時期もある。正紀があの薬の効力に負けた場合を考えると、その時の克己の態度はいずるにとっては恐怖以外の何ものでもなかった。けれど、その胸騒ぎがある時期からプツリと途絶えた。日向翔が、彼の隣りを歩くようになってからだ。
「でも、日向が隣りにいる時のお前は、人らしくみえた。だから、日向がお前の隣りにいる間なら、お前と手を組んでも良い。ただし、日向がお前の近くから消えたら契約終了だ。だから」
 だから、何が何でも日向を助けろ、と続けるつもりだった。しかしそれを克己が手で制した。
「それ以上言うな」
 不快気な声に、克己の機嫌を損ねたのだろうかと思った、が。
「それ以上言われたらお前の為にあいつのところに行くようで、気分が悪い」
 克己のその一言に、思わず笑いそうだったところで、葵が立ちあがった。
「俺も行きます。揚羽様、失礼します」
 揚羽に一礼し、葵が克己の後に付いていこうとしたが、それに彼は心底嫌そうに顔を顰める。
「ついてくるな」
「付いて行ってなんかない!しょうがないだろ、出口は一箇所しかないんだから!甲賀死ね!この不能野郎!馬鹿!」
 葵はずっと溜まっていた鬱憤を吐き出すようにそう言い捨てて、さっさと克己より先に出て行ってしまった。怖いもの知らずとはこのことだ、といずるはひっそりと思う。葵に先を越された克己のオーラが、一瞬にして怒りに染まったのを見てしまったのだから。
 克己が走っていくその足音を送りつつ、いずるはため息を吐く。そんないずるを、揚羽は穏やかな目で見つめていた。なんの温度も感じさせないその視線にむしろ安堵感を覚え、いずるは自然と今までずっと抑えていたものを吐き出していた。
「兄を失いました」
 久川諌矢。久々に兄の名を思い出し、いずるは思わず自嘲した。正紀のように真っ直ぐに彼を思うことはもう自分には出来なかった。そんな資格もないのだとどこかで思いながら。
「兄は、病気だったんです。しかも、世界に数人しか発症例がないという病で……成長が止まる……というより、若返る病気で、20歳まで生きられないだろうと、言われていました」
 歳がそれなりに離れていたというのに、気がつけばいずるの身長は兄のそれを追い越し、それを兄がどういう思いで見ていたのか、いずるには計り知れない。けれど、あの時はその事に気付く事さえ出来なかった。
 ある日、「もうここには来ないでくれ」と泣きながら懇願された。「成長していくお前を見るのが辛い。成長出来るお前が憎い。けど、大切な弟にそんな感情を抱く自分が一番疎ましい」と、彼は悲痛な声で訴えた。
 いずるにとって、兄も父に続く尊敬の対象だったが、兄のそんな弱い姿を見せられ、あの時も軽い失望を感じたことを覚えている。
「色々な事に耐えられなくなったんでしょう。病院を抜け出して、あの薬をそこで出会った男から受け取ったそうです。兄はその薬に溺れ、自我を失いました」
 そして、いずるが思い出したのはいまだに自分や正紀を苦しめる最悪の結末だ。脳裡を過ぎるその記憶に、拳を強く握る。
「結局俺は、誰も何も護ることが出来なかった」
 そして、誰かを恨み、許す事も出来ない。どこまでも子どもだ。例え身体が成長していても、中身が成長出来ていないのだからどうしようもない。そんな自分を、兄は一体どういう眼で見ているのだろうか。
「矢吹に行けば、全部守れると思ったのに」
 正紀の事もだ。自分が矢吹になれば、彼の事も守れるのではないかと強く思ったのが、例の事件後の事だ。例の薬に体を侵された幼馴染を助けるには、それしかないとまで思った。しかし、現実はまた違った。
「今の俺は自分の命さえ自分で守れないなんて、何て様だ」
「いずるさま」
 シャリ、と彼女がつけている装飾具が揺れ、細い指が自分の頬に触れるのをいずるはぼんやりと眺めていた。そんなどこか幼い青年の表情に、彼女は柔らかく微笑む。彼女のその優美な動きに、いずるは微かに自分の母を見た。矢吹家の息女として生まれ、いずるの父と身分違いの恋をし、そして平民に身を落として息子を2人育てた彼女は、結局は平民にはなりきれなかった。揚羽の品のある雰囲気が、そんな母を思い出させる。
「いずるさまのお噂は、様々なところから聞き及んでおります。矢吹家の次期当主であるとか。貴方様を克己さまがここにお連れになったのは、何かの意図があってのことと揚羽は考えております」
「甲賀が……」
 あの友人がそこまで自分を考えていてくれているかどうかは謎だな、とあの仏頂面を思い出しこっそり思う。そんないずるに、彼女は声を潜めた。
「矢吹家の現当主は、今現在病に臥せっておられます」
「翁殿が?本当に?」
 初めて聞くことにいずるは眼を丸くする。自分を見送ってくれた祖父はいつも通り厳格な態度だった。病などの片鱗さえも見せていなかったのだ。勿論、実家からそんな連絡も来ていない。彼女はにこりと笑い、いずるから離れた。
「私の元にはあちらの世界の情報も入ってきます。貴方様にこうした情報を伝えられるのは僭越ながら私だけで御座います。何かあれば、貴方様にお伝えしましょう」
「揚羽さん」
「揚羽――とお呼び下さいませ、矢吹の若様。もう少しで、貴方様は揺るぎない権力と財力をその手におさめることとなりましょう。貴方の大切な方を守る術を得る事も出来るでしょう。私も出来る限りの力をお貸しします。貴方はまだ16。未熟でも、誰も責めません」
「貴方は、一体」
「一度の失敗は誰かしら通る道。肝心なのは、二度同じ過ちをくり返さない事。同じ過ちをくり返さなかった時、一度目の失敗は意味のあるものとなります」
 貴方は強くなれます。
 そうきっぱりと言い切った彼女からいずるは眼を離す事ができなかった。そこまではっきりと言い切られたのは初めてで、少々気恥ずかしい。
「それは、どこから得た情報ですか?」
 照れを隠して小さく笑ういずるに、揚羽も口元を緩めた。
「貴方自身です、いずる様」
 確信を持って言われた強い一言に、いずるは小さな希望を見出す。
 本当に、強くなれるのだろうか。
 まだ、自分はきっと幼馴染を巻き込んだ彼らを許すほどの強さは持っていない。魚住もだ。怒りに流されるまま、彼は恐らく己を責め続けている。そんな彼を止められるのは、今はもういない彼の幼馴染だけ。
 眉間を寄せたいずるに、揚羽は袖で自身の口元を隠した。
「いずる様。私の知る真実は、貴方が思っているものと少々違うようです」




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