「ありがとう」

 月の光の下、彼はそう言って安心したかのように笑った。
 久々に見た、幼馴染の笑顔だった。


「えー。なんだよ、日曜も空いてねぇの?保健委員になったのは良いけど、付き合いわりぃぜ、かっちゃん」
 むぅ、と不機嫌を隠しもしない優史のふくれっ面に魚住は思わず笑ってしまった。お互い成長したが、その幼い表情はまったく変わりが無い。
「ごめんな、優史。生徒会の仕事が入ってるんだ」
「ま、でも俺も優秀な幼馴染を持てて鼻が高いよ?北出身で委員会に入れたなんて快挙らしいじゃん?」
「入れたと言っても、まだ俺は下っ端だけど」
「それでもすげぇ事には変わりねぇって!自信持てよ、かっちゃん。でーも、悪いけどかっちゃんが職務にいそしんでる間、弓は抜かせてもらうぜ?目指せ、久川諌矢!だし」
「バーカ。そう簡単に抜かせるような差じゃないだろ。それにお前じゃ久川を抜かす事なんて出来ない」
「な……っ!言ったな!見てろよ、かっちゃん!次会う時は負かしてやるからな!」
 自信満々に笑うその顔に、笑い返すのが普通だった。軽い言い合いをしても締めくくりは優史の笑顔。それは小さい頃からの、慣習になっていた。
 魚住と伊原優史は幼馴染だった。一つ下の彼とは弓道でも良いライバルで、親友でもあった。
 そんな彼は先の戦争に出向く事となり、無事帰ってきたけれどその日からまるで人が変わったように笑わなくなり、魚住を避けるようになった。
 戦に出た人間ならよくあることだと周りの人間に言われ、しばらく魚住は彼を放っておく事にした。噂を聞くと、彼はヨシワラの橘に入れ込んでいるらしい、と。彼も男だ、それも仕方ないと思い彼には何も言わなかった。
 優史なら、乗り越えられると信じていた。
 魚住は保健委員だった。北寮である自分がその地位に立てるのは名誉な事で、勿論地位を維持するにはそれなりの努力も必要で、忙しかった、というのもあるのかもしれない。
 自分の仕事は薬を不法入手している人間の情報を科学科と士官科を内密に調査している仲介屋から手に入れ、調べ上げそれを上に報告し、もう手の施しようのないと判断された人間を抹殺する事だった。すでにその頃は人を殺すのも慣れ、偽装するのにも慣れて来た頃、いつもの指令書を開いて魚住は眼を見開いた。
 そこに書かれていたのは、自分の幼馴染の名前だったから。
 どういう事だ、と上司に問いただすとあっさりとした答えが返ってきた。
「彼は帰って来てからヨシワラのある人物から薬を買い、それに依存し何人か手にかけている」
 確かに、最近何者かに生徒が殺されるという事件があった。魚住自身も、薬にやられた人間の仕業だと思い、そろそろ指令が来るかと構えていた。が、それが自分が良く知る幼馴染だとまでは思わなかった。思うわけがなかった。
 久々に幼馴染の元に訪れると、彼は笑顔で自分を迎えてくれた。
「久々だね、かっちゃん」
「忙しかったんだ」
「いいよ、久々に会えて俺は嬉しい」
 その笑顔は久々に見るもので。
 戦争に行ってから彼が一度も見せてくれなかった笑顔で。
 薬のおかげか、彼は終始笑顔だった。本当に彼が人を殺し、薬を飲んでいるなんて考えられなかった。
「久々に弓でもやらないか?」
 そう誘った時、初めて優史の表情が歪んだ。
「駄目なんだ、かっちゃん」
 手が震えて、弓が持てない。
 ガクガクと震えている両手を見せて、彼は再び笑った。
 泣きたくなるのを、叫びだしたくなるのをどうにか堪えて魚住は彼の元を去った。
 この時、自分に勇気があれば、彼を助けることが出来たんだろうか。
 自分に勇気があれば、この時彼の手を取り共にこの場所から逃げる事も可能だったに違いない。けれど、魚住にはそこまでの勇気は無かった。一生軍に追われる身となり、彼は一生薬の後遺症に苦しむ。そして自分は、ようやく手に入れた地位を手放す事となる。だが、彼が死んでも今回の事は“名誉の死”扱いになり、軍から彼の家族に慰問金も出る。彼自身も、多くの英霊が眠る陸軍霊園に眠る事が出来る。
 俺は、卑怯だ。
 いずるの迷いのない眼を思い出し、自分の愚かさを呪うしかなかった。
 けれど、自分は迷いながらも幼馴染を手にかけてしまった。月が妙に大きかった夜、明るい月光に照らされた幼馴染の血に染まった姿に、魚住は現実を突きつけられた気がした。
 茫然とその場に膝をついていた彼は、もう動かない人間を見つめている。そんな彼に近寄ると、彼は心底ほっとした顔で自分を見た。
「お前が来ると、思ったよ」
「優史」
「早く、俺を助けて」
 いつもは偽装の為にナイフを使い、あの薬で自我を失った人間のように心臓二回、腹を三回突き刺すことになっていた。けれど、親しい相手の血と肉をこの手に感じるナイフを使うことは出来ず、魚住は震える指で銃の引き金を引いた。なるべく彼が苦しまないよう、心臓を狙って。
 どさりと彼が倒れる音を聴いてから、記憶が無い。頭に残っているのは、彼を薬漬けにした相手への憎しみだけだ。
 軍は、薬を使うのは弱い人間だと言って侮蔑的な態度をとる。けれど、自分の知る限り優史は弱い人間などではなかった。では、誰が悪い、誰が弱い。
 弱かったのは、間違いなく自分だ。
 いずると、その幼馴染の正紀を見ているとそれをひしひしと感じて嫌だった。彼らはお互いを信頼しきっていた。お互いの為に強くなることが出来る関係で、自分と優史もそうだと思っていた。
 悔しかった。惨めだった。
 そして、憎かった。
 それが今の自分の原動力だった。憎しみと怒り。そんな自分を、優史は一体どう見るのだろうか。こんなに弱い自分を。
 弱かったのは間違いなく自分だ。そして、悪いのは
「貴方……」
 少し遠い入り口からそんな声が飛んできて、魚住はゆっくりと振り返った。逆光で顔は確認出来なかったが、間違いなく彼女だ。自然と口元が歪む。
「やぁ、橘」
 名前を言い当てられた彼女は眉を顰め、床に散っている白い粉を見て眼を見開いた。
「あぁ?これか?」
 膝を折り、魚住はその山に手を突っ込んだ。握った拳からさらさらと粉が漏れたが、手の中に残ったそれを彼女に向け、笑う。
 そしてその粉を自分の口の中に流し込んだ。
 強烈な苦味と喉の奥に貼り付く感触は不快だったが、どうにか唾液でそれを飲み込んだ。じわじわと体の先が温まってくる感じは通常通りだったが、その熱さはいつもとは違った。
 熱い。まるで火に炙られているかのような熱さだった。薬が付着している喉など、そこに炎があるような熱を感じる。
 たまらなく絶叫する魚住を橘は驚愕の目で見つめていた。彼が口にした薬の量は通常の量のおよそ10倍。そんな分量を飲むなんて自殺行為だ。そして、どんな効力が現れるのか、魚住自身完全に把握は出来ていなかった。
 だが、この獣のような咆哮は一度だけ、聞いたことがある。
 薬に溺れた人間が、人を殺す時に上げる悲鳴だ。
 悲鳴が止み、緩慢な動作で彼の眼が自分へと向けられる。その瞳は濁り、光を灯していなかった。自我を失っている獣は、ただ獲物の姿を捉えて嬉しげに笑む。
「ようやくお前と会えて嬉しいよ、橘」
 しゃがれた声を発すると同時に、魚住は彼女に向かって足を踏み出した。手には、銀色に光るナイフを持って。




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