「ったく、今日日科学者ってのはロクなもん作らないな……!」
 ハッと川辺は強気に笑ってみせたが、現状は笑えるようなものではなかった。狭い部屋の中、現れた化け物は暴れ回り、川辺が避けるたびに保健委員が保存していた部屋を滅茶苦茶にしてくれた。
 彼らの爪は川辺も狙っており、どうにか避けつつも、小さくすばしっこい彼らの攻撃を全て避けるのは至難の業だった。びり、という布が裂ける音と共に激痛が肩に走る。
 ガル、と喉を鳴らして威嚇をする彼らの大きな口から唾液が落ち、それに川辺が舌打ちをした、その時だ。
「フランチェスカ、ダフネ、止めろ」
 彼ら……いや、名前からして彼女なのだろうか。怪物たちは自分の名を聞いて動きを止めた。そして、すごすごと川辺の前から引く。そんな彼らが引くと、早良が姿を現した。普段の白衣姿ではなく、ネクタイに背広といった服装だった。無精髭も剃っており、平然と歩いていれば一端の軍人に見える。
 そうか、科学科の彼ならこの化け物の名を知っている。
 はぁ、と川辺が安堵の息を吐いた時、すでに化け物は消えていた。
「まったく、学者様が猛者の集まりに飛び込んでくるなんて一体どういう神経してるんだ」
 川辺の呆れた声に早良は静かに笑い、彼に向かって足を踏み出した。
「まだ俺をただの学者だと思っているのか。今だって俺が来なかったら死んでいたぞ、貴方は。それに、貴方がなかなか連絡を寄越さないからここまで来る事になったんだ」
 ネクタイを直しながら言う早良に川辺は軽く舌打ちをして、ムスッとした表情で黙り込む。もう数ヶ月前の話だが、科学科に忍び込み早良の喉元にナイフを突き立てようとした自分を彼はあっさりと地に伏した。
「ドクターが体術に長けてるなんて聞いたことがねぇぞ」
 腕にはそれなりに自身があるというのに、学者というインドアな職業である彼に投げ飛ばされた事実は、彼にとって密かな汚点だった。それを意外性の所為にし、小さく吐き捨てたが、早良はその言葉を大して気に止めない。
「それより、そろそろ不味い事になってきたぞ、川辺教官。アンタが偽物だと生徒会は気付き始めてる。まったく、仕事が速いというか、勘が鋭いというか。アンタまさかヘマしたんじゃないだろうな?」
 早良に冷たく睨まれ、川辺は肩を竦めて見せる。
「俺がどんだけ頑張って演技してきたと思ってんだ。好色だった川辺の身辺を誤魔化すのにどれだけ苦労したと思ってる。もっと良い素材はなかったのか?」
 逆にクレームをつけられた早良は眉間を寄せた。
「科学科のデータベースには流石に個人の趣向までは書かれていない。これ以上の素材はなかったんだ」
 本物の川辺洋一は、昨年大陸にて戦死していた。その遺体は損傷が激しく死亡確認まで時間がかかり、まだ科学科から軍にその死を伝えていない。それは早良が止めたからなのだが。
 そして、川辺の死を伝えられていない士官科は、川辺と同じ顔をした彼を川辺本人と疑うことなく受け入れるというわけだ。川辺は以前航空科で教鞭をとっていたが、今期陸に異動させた。そうすれば、以前の川辺を知る人間と接触する機会が殆ど無い。計画は完璧だった。
「貴方の変装術も素晴らしい。特殊部隊の五十公野まほろに勝るとも劣らない。なのに、何でバレるんだ。アンタより、生徒会の方が優秀だって事か?」
 早良の深い嘆きのため息に表情を緩めることなく、川辺は立ち上がる。これでもう自分の仕事は終わりだ。生徒会に気付かれたのならさっさと店じまいをしないことには、自分の命が危うい。
「ともかく、早良博士。貴方には礼を言う」
「もう俺を殺さない?」
 おどけた態度で問われた事に、川辺は苦い気分になる。
「“H”を作った人間のリストで生き残っているのはお前だけだったからな……」
 彼は“H”の事を探りに来た人間だった。目的は“H”を作った人間の抹殺だったが、早良には投げ飛ばされ、敵わない相手だと痛感した時、早良がある提案をしてきたのだ。
 最近、陸軍士官科の方できな臭い噂があるから、それを探って欲しいと。その内容はお前にも得になるもののはずだと。そして、それが大当たりだった。
「魚住は、どうなる」
 気がかりなことを口にした川辺に早良は眼を伏せる。
「生徒会が執行部を動かしたようだ」
 一般生徒の粛清は風紀もしくはそれぞれ管轄の委員会が動くが、今回は生徒会役員の一人の抹殺だ。執行部が動き、暗に彼を消す。
 魚住が仕方の無い犠牲なのかどうかは、今は深く考えたくは無かった。
「正紀の事、頼むぞ。アンタだけなんだ、アイツを救えるのは」
「了解しました」
 破れた軍服を脱ぎ捨てた川辺は、今脱いだばかりのそれを感慨深げに見た。その様子に、早良は目を細める。
「それにしても、まさか貴方とこうして組むことになるとは……あの頃は思いも寄らなかったな。穂高が聞いたら何て言うか」
「それは言わない約束じゃないのか」
 川辺のため息に早良は小さく笑う。その記憶より大人になっている笑い方に、お互い老けたと改めて思わされた。
 以前、軍を抜け出した身であった川辺と、早良や日向穂高達は追われる者と追う者の関係だった。当時、すでに剣の達人と囁かれていた日向穂高には散々辛酸を舐めさせられたが、彼が戦場に出るようになってからは会わなくなり、後で軍から抜けたと噂を耳にした。
「あいつは、両目を失くしたんだったな」
 川辺は義眼を入れている自分の右目に触れる。自分は彼よりは運が良かった。片目は残されたのだから。
「目の見えない穂高なら倒せる?」
 早良の思いがけない問いに川辺は肩を竦めた。そういう意味で言ったのでは無い。
「今はもう戦うべき相手が違う。お互いな。それに……」
 翔との一戦で、穂高の今の力量を知り、彼の強さが今でも健在だと悟った。川辺が個人的に愉快だと思った出会いは、日向翔との出会いだ。案外、自分達には奇妙な縁でもあったのかも知れないな、と記憶の中の強い瞳を持った日向穂高に喉の奥で笑う。
「久川さん」
 その時突然違う名で呼ばれ、久川はすぐに驚いたように振り返った。
「何だ」
「一言だけ、謝らせて下さい」
 その場に跪き、ゆっくりと頭を下げる早良に彼は眉を上げる。
「厭な役目を任せてしまいました」
 早良の静かな言葉に、あぁ、と心の中で納得した。
 薬の出所を探っていると、否が応でもそれを使用した生徒達と接触する事になる。そして、どうにか薬をやめさせようとしても多くは手遅れで……結局は生徒会の粛清を止める事が出来なかった。
 そういう場合は見て見ぬ振りをしろと、早良に忠告されていた。もし生徒会の視界に入るようなことがあれば、こちらの身が危ないから。
「気にするな。汚れ仕事は慣れている」
 仕事柄、血は毎日のように見るし、目的のためには感情を殺す事も慣れている。それに、正紀には盗みの仕事と言ったが、殺し屋の真似事もした事もある。しかし、今回、こんなにも後味が悪いのは、自分よりずっと若い子ども達が死んでいくのを見てしまったからだろう。
「……それと」
 早良は静かに口を開き、床に膝をついた。
「申し訳ありませんでした。貴方が、俺が作った薬の所為で受けた損害はあまりにも大きい。御友人を亡くし、その御友人の御子息までも巻き込み、しまいには貴方の御長男の命も奪った。俺は、貴方に殺されても文句が言えない」
「……早良博士」
 それは、出会って初めて早良が口にした謝罪だった。
「許してくれとは言えませんが……」
 ぐっと奥歯を噛み締め、早良はただ白い床を強く睨みつけることしか出来なかった。ただ上の命令というだけで、その後それがどう使用されるかも考えず安易な気持ちでそれを作ってしまった当時の自分の幼さにただ後悔するしか今は術が無い。上の命令だったという理由にはもう出来ない。それを突っぱねる事が唯一出来たはずの自分は思慮が足らず、最大の過ちを犯してしまった。
「当然だ、許すつもりは毛頭ない」
 久川の冷ややかな声に早良は眼を閉じる。
「お前の薬は俺から親友と息子を奪い、今もあの子たちを苦しめている。だが、悔しい事にそれを救えるのもお前一人だ。正紀を頼む。必ず、助けろ」
「それは勿論です」
 顔を上げた早良の眼に嘘はなかった。それを認めて、川辺は息を吐く。
「本気で悪いと思ってるんなら、正紀を助けてから頭下げてこい。第一、学識ある博士様が裏世界でしか生きていけない俺なんざに頭を下げるなんて笑い話にもなりゃしねぇな」
「久川さん……」
「それに、多少なりとも俺はお前に感謝もしている。久々に、もう二度と会えないと思っていた相手に会えた」
 ふっと口元を緩めた久川の眼は優しく、その相手に対する愛情を感じた。きっとこんな表情は、常に制止のやり取りをしている彼には珍しいものなのだろう。
「父親の顔……ってヤツですか。何だか羨ましいですね」
「アンタにも自分の子どもみたいなヤツはいるだろう」
 遠也、と言ったか。早良の身辺で一番彼の近くにいる少年の姿を思い出し、久川は冷静な彼の眼を思い浮かべる。けれど、早良は苦笑するだけだった。
「さぁ、そろそろ時間ですよ、久川さん」



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