静かだった。いや、静か過ぎた。
その不穏な気配に気付きつつも、橘は一人、見知らぬ相手を待っていた。葵には翔と会うと言ったが、正直彼に会うつもりはさらさら無かった。葵に必死に頼まれた手前、承諾したものの、翔のあの目を思い出すと、彼に会うのは怖かった。
あの目は、苦手だ。彼を思い出す。
思い出した顔に橘は目を伏せ、胸に当てた手をそっと握る。その時、背後に気配がし、ほっと息を吐いた。ここでの役目が終わったら、自分は目的を遂げる。
しかし、振り向いたそこにいた人物に橘は身を固める。黒髪に眼鏡、そしてその眼鏡の下にある目は鋭く自分を貫いていた。
「貴方」
早良のところにいた時、何度か見た顔だった。そして、その名も記憶している。
「佐木、遠也……」
彼女の呟きを遠也も拾い、軽く肩を竦めながら橘の前に立つ。一度自分の命を助けてくれた相手だったが、橘は警戒を解かなかった。それに彼の名前は佐木だ。それだけでも、警戒する理由にはなる。
遠也の黒い瞳は戸惑う彼女を一瞥した。
「お元気そうで何よりです」
にこりと笑う事もせずあいさつをする彼に、橘は一歩後退し、彼を警戒する。しかし、怯えていることを彼に気付かれるのも癪で気丈に顎を上げて見せた。
「……何しにきたの?まさか、佐木の御子息が薬遊び?」
「生憎そんな事をするような教育は受けてませんよ」
さらりと橘の嫌味を交わし、遠也は無表情で腰にさしていた銃を取り出し、彼女へと向けた。その存在に橘は眉間を寄せ、肩を竦める。
「意味が解からないわ。貴方、この間私を助けたんじゃなかった?」
それを今は殺す?
首を横に振り、理解出来ないと訴えたが、遠也の表情は変わらなかった。
「俺にも友人付き合いというものがあるんですよ」
「……翔くんのこと?」
ピクリと遠也の眉が動き、それに橘は交渉の糸口を見出した。翔は自分のためにいつも行動してくれていた。遠也が翔のことを友人と見ているのなら、彼の名前を出せば何とかなるかも知れない。
「大切なお友達なのね、翔くんは。でも、あの時は彼の為に私を助けて……今は彼の為に私を殺す?傷つくのは彼じゃない?」
「貴方が日向を気遣うなんて、意外ですね」
しかし、思いの外相手の態度は冷淡だった。
遠也のどこか刺々しい言葉に、橘は口を閉じる。一瞬、彼の逆鱗に触れたのかとも思ったが、その冷たくどこか言い捨てるような言い方に、彼のこの行動が、彼の友人のためでは無いことを察す。
「大体、貴方の言葉はいちいち嘘くさいんですよ。クローンが人間に恋なんて」
「何、それ。どういう意味?クローンが人間に恋しちゃいけないっていうの?」
「出来るわけがない、と言っているんですよ。それは恋じゃない。プログラムです」
プログラム、という言葉に橘は目を見開き、どこか悔しげに眉間を寄せた。それを気にすることなく、遠也は説明を続けた。
「クローン等は、人間には絶対に服従するように造られてる。貴方がたは人間を憎んではいるが、でもその根底には人間への強い憧れがある。違いますか?」
「……違う」
「戦闘用になるとまた話は違ってきますが……貴方が恋と思っているものは、単なるプログラムです」
「違う!私は本当に!」
「クローンは人間に恋なんてしない」
一方的にきっぱりと言い切った遠也に、橘は今まで自分が築き上げてきたもの全て否定されたような気がした。自分を否定されるのはいつもの事だが、今日に限って腹部に熱いものが溜まり始めていることに橘は気付いた。
目の前の少年は、あの“佐木”であることが更に自分の怒りを煽っているのだ。
「貴方は、有馬梨紅という少女のクローン。だが、彼女は死んでまだ日が浅い。貴方は法律に違反している存在で、更に貴方は人間を傷つけた。欠陥品は始末する。それは、佐木である俺の役目です」
ガチャリと弾が装着される音が小さく響いた銃の存在が、橘に決意をさせた。
「……そう」
橘は遠也の言葉にただ頷き、ゆっくりと息を吐いた。そして、その目を軽く細める。
「そうね」
その小さな呟きに、遠也はハッとして引き金に指をかけたが、それより早く橘の体が懐に入り込んできた。
しまった。
そう思うより早く、遠也の腕を叩き、その手から落ちた銃を橘は奪い、銃口を彼に向ける。一瞬の出来事に呆気に取られてしまった。それは橘も同じだったようで、手の中の重みを何度もチラチラと見て、ようやく自分が優位に立てたと実感したらしい。恐らく、人間相手に勝利感を得たのは初めてだったのだ。
「お坊ちゃんには過ぎたオモチャだったようね」
くすりと笑う橘の銃を扱う手付きは遠也よりも手馴れたもので、彼女が昨日今日それを手に取ったばかりの素人ではないことを教えてくれた。叩かれた腕はまだ痺れるような痛みを持っている。
握った銃で顔を上げた遠也の頬を殴りつけ、その場に背中から倒れた遠也の無様な姿に、再び彼女は銃口を向けた。この異質な力関係に橘は久々に優越感を覚えた。普段は、彼らが彼女の命を脅かしてきたのだ。今まで自分を嘲笑ってきた相手に、初めて嘲笑を向ける。しかも、相手は“佐木”だ。
「……佐木遠琉は、貴方が死んだら泣くの?」
その橘の口から出たのは、遠也の実父の名だった。顔の痛みと口の中に広がる血の味に表情を歪めたところで久々にその顔を思い出し、遠也は視線を落とす。どんな返答でも、彼女が引き金を引くことは明白だった。死ぬかもしれない最後の瞬間に脳裡に浮かぶのがあの父親の顔というのは癪だが、遠也は彼女から視線を外し、息を吐いた。その拍子に口から落ちた血を拭うことはなく、抵抗は諦めたような姿だった。
「……泣きませんよ」
その声は、抵抗どころか全てを諦めているもので、橘に一瞬の迷いを与える。その姿は、橘の知る生に執着し泣き喚く人間の姿ではなく、どちらかといえば生きる事を諦め、従順に人間に従う仲間達の姿と重なった。
「貴方……」
「そぉか、だったら俺が泣いてやるよ!」
その時、突然の声と背後から羽交い絞めにされ、驚いたのは橘だけではなかった。遠也の方がむしろ驚いていたかもしれない。
橘の細い腕を掴んだのは、先ほど言い争った篠田正紀だったのだから。
「放して!」
突然の介入者に橘は暴れるが、やはり体格差には勝てなかった。正紀の力は強く、どんなに暴れようとしても上手くいかない。
「ばっか、佐木、何やってる!逃げろっての!」
銃を持つ橘の腕を掴み上げ、正紀は放心している遠也を叱咤する。そんな彼の必死な様子に、遠也はただただ痛みも忘れて唖然とするしかない。
「篠田……?どうして」
「この状況で説明求めるなよ!ってぇぇ!」
正紀の顔より低い位置にあった頭が顎を直撃し、あまりの痛みに橘から手を離してしまった。その隙を狙い、橘は振り返り、あまりの痛みに隙が出来た正紀に銃口を向け引き金を引きかけるが、それに気付いた遠也が素早く立ち上がり、二人の間に割り込み、そして正紀の体を突き飛ばした。その遠也の行動に、橘は引き金を引く指から力を抜く。
「どうして」
“佐木”が誰かを庇うなんて。
信じられない光景だったが、退くつもりのない遠也の強い眼に、彼から異質なものを感じ取った。彼は自分の知る“佐木”とは何かが違う。
「佐木、どけ!」
しかし、そんな橘の一瞬の直感を遮るように正紀が遠也を名字で呼ぶ。遠也は自分の背後で正紀も銃を握っているのを気配で察したが、そこから身を避けるつもりは無かった。前方と後方から二つの銃口に挟まれながらも、遠也の表情は冷静だ。
「何で庇う!日向の姉のクローンだからか!?」
動かない遠也に焦れた正紀の声に、橘が遠也を見る。遠也も、彼女をじっと黒い瞳で見つめた。
「……ここで彼女を殺せば、貴方の欲しい情報が消えることになる」
正紀の銃口から漂う殺気を感じ、遠也は静かに窘めた。それに驚いたのは橘だ。遠也こそ自分を殺そうとしていたのに、今はそれを止めようとしている。自分に真直ぐな殺気を向けてくる正紀より、思考が読めないこの少年の方が橘にとっては恐ろしかった。
「どういうつもり?」
「クローンは人間を殺せない。そうプログラムされています」
再びプログラムという言葉を持ち出してきた彼に、橘は自分の怒りを煽られていると感じた。
「試してみる?」
遠也を睨むが、確かに今彼が身を引けば篠田正紀は自分を撃ち、自分は篠田正紀を撃たなければいけなくなる。それは、橘が望んでいた展開ではなかった。
「不利なのは、貴方の方ですよ、橘」
遠也の黒い目に、橘は激しい焦りを覚えた。確かに、佐木遠也と一対一であれば勝因はあったが、篠田正紀が出てきた今、自分には彼を追い払うことは出来ない。
どうする?と素早く頭を回転させ、そしてある事を思い出した。まだ自分には勝因はあった。
「貴方、篠田正紀でしょ。私に構ってる暇あるの?」
唐突に橘は正紀に声をかけた。何故自分の名を知られているのだろうと顔を上げると、彼女は目を細めた。その態度に正紀は眉を潜める。
「どういう意味だ?」
「何、知らないの?矢吹いずるって貴方のお友達でしょ?あの子が命狙われてるってこと」
その言葉に正紀は目を見開き、遠也も驚いたように顔を上げた。彼らの知らない情報を口に出来たことに橘は密かにほっと胸を撫で下ろす。
「ほら、私に構っている暇なんて無いんじゃない?」
どことなく勝ち誇った笑みを浮かべた彼女に、正紀は不快な気分になった。
「それが本当の話だという証拠は?」
この場しのぎの嘘だと解釈すると怒りで腹部が熱くなる。彼女が自分の弱点であるいずるのことを持ち出してきたことが気に喰わない。しかし、嘘だと決め付けた正紀の態度に橘は怪訝な顔になる。
「矢吹いずるは前にも殺されかけてるじゃない。何貴方、幼馴染の癖に知らないの?」
「何だって?」
正紀は全く知らない話に眉間を寄せるしかなく、自然と更なる情報を求める体勢になるが、それに橘は釘を刺す。
「これ以上聞きたいんだったら、当然私の命を保障してくれるのよね?」
正紀が構える銃口をちらりと見た橘に、遠也はその選択をする当人に視線を向けた。彼に助言をするにしても、遠也も情報不足だ。
「篠田……」
こそりと彼に呼びかけた声は普段の遠也から考えられない程弱々しく、その声色に正紀は舌打ちする。
「解かったよ」
そう答えた彼の手を遠也が下させた。橘はまだ銃を持っているというのに、少々対応が甘すぎるのではないかと思ったが、遠也の黒い眼は橘をじっと見つめていた。
「話してください。貴方の知っていること全て」
「……彼らの目的は複数あるわ。私が知っているのは、矢吹いずるの暗殺と、貴方が嫌うあの薬の実験散布という項目だけ」
「何故、矢吹は狙われているんですか?お家騒動がらみで?」
矢吹家が今水面下で跡継ぎ騒動が起きていることは遠也も耳に挟んだことがあるが、彼が狙われている理由までは知らない。しかし、その問いに橘はゆるりと首を横に振った。
「私も詳しくは知らない。でも、イースターがどうの、って話は聞いたわ。意味は解からないけど」
瞬間、遠也はぞわりと背筋に悪寒が走るのが解かった。自然と、手が震え始める。
正紀の方は意味の解からない返答しかしない橘に、苛立ちを覚える。矢張り、彼女が嘘を吐いているようにしか聞こえなかった。
「そんな適当なことばかりで誤魔化せると」
「待って下さい、篠田」
彼女に向かって足を踏み出そうとした正紀を遠也は手で制した。それに何故だ、と目で問うと遠也は思いがけないことを口にする。
「彼女の言っていることは、多分本当です」
「は!?」
「貴方が接触した相手はどんな人物でしたか?」
納得していない正紀をおいて遠也は橘に質問を続けた。その態度に橘は信用されたと安堵したらしい。すぐに答えを口にする。
「……2人よ。2人共男。年齢は貴方達よりずっと上。生徒じゃないわね。一人は科学科の人間よ、薬に詳しかったし、私も彼に薬を渡された。もう一人は貴方達の学校に紛れ込んでいるわ。多分、教師として。その男は金髪よ、解かりやすいわ」
「……金髪の教師なんてどこにもいねぇぞ」
不信感たっぷりに正紀は呟くが、遠也がそれを眼で叱咤する。恐らくは、髪を染めているのだ。
「その2人の名前は?」
「私の前で名前を呼び合うほど馬鹿じゃないわ。ただ、金髪の男はミスターと呼ばれていたけど」
ただの敬称を使っていた彼らの会話を思い返しながら、橘はなるべく正直に話した。自分の話をどう解釈するかは、彼ら次第だが。
彼女の話を聞いた遠也は、次の質問を口にする。
「貴方は、これからどうするつもりですか?」
「あの男を殺して、ここから逃げるわ」
さらりと自分の目的を告げると、正紀の眉間に更に皺が刻まれるのを橘は見た。そんな元不良が声を上げる前に橘は遠也に視線を移す。少年のその顔がどことなく顔色が悪いように見えたが、恐らく気のせいだ。
「貴方、さっき私にクローンは恋をしないと言ったわね」
「それが、何か」
「……私は恋をしたい。だから、あの男を殺すことにする」
彼女の声は真剣で、自分達を欺こうとしているとは到底思えなかった。硬直した遠也に、彼女はその場から離れようとする。しかし、その背を正紀が止めた。
「待てよ。あんた、どこに行く気だ。それと、その銃返せ!それは佐木のだ」
遠也の銃をそのまま持って行こうとしていたのを止めるが、彼女は小さく口角を上げ、それを握る手に力を入れた。
「……これはちょっと貸してもらうわ、細腕の女性に銃1つじゃ心許無いでしょ?」
「駄目だ、返せ!何をするつもりだ!まさか、お前がいずるを殺しに行くつもりか!?」
それなら絶対に行かせない、と正紀も腰に差していた銃を素早く取り出し、再度彼女に照準を合わせた。しかし、彼女はその銃口を平静な目で見つめるだけだ。
「私はあの人を殺した男を殺しに行くだけ」
「……あの人?あの人って!」
「篠田、落ち着いてください」
彼女が殺しに行くのはいずるではない。遠也はそう確信していたが、突然の情報に混乱している正紀はなかなか飲み込めない話のようだった。未だに橘に警戒し続ける彼の気持ちも解からなくも無いが、遠也は彼を制止した。そんな遠也の行動に、橘は彼を振り返る。
「ねぇ、佐木遠也」
ずっと、頭が良いと言われる人間に聞いてみたかったことがある。彼は佐木の一員なのだから、答えてくれるかもしれないと小さな期待を込めて、橘はまだ少年である佐木の黒い瞳を見つめた。
「クローンが人間に恋をしないのなら、どうして私はあの人を殺した男がこんなに憎いの?」
しかし、遠也は一瞬何かを言おうとしかけたが、結局その問いに答えることは出来なかった。彼女もそれほど期待はしていなかったらしい。遠也が彼女から目を逸らすと同時、橘は踵を返して走り出した。それに慌てたのは正紀だ。
「ちょ、待ておい!」
すぐに追おうとした正紀を遠也が腕を掴んで止める。
「篠田、良いですから!」
しかし、遠也の言う“良い”の意味が解からない。彼女は銃を手に入れた。誰かを殺そうとしているのを、みすみす見逃すことは出来なかった。
「何が良いんだ、あの銃は」
「良いんです!あれ、中はペイント弾なんです!」
「……は?」
遠也のその一言で、正紀の体から一気に緊張が抜けた。くるりと遠也を振り返ると、彼の必要以上に真剣な顔がそこにある。しかし、その表情に反して彼の言葉は呆気に取られるものだった。あの銃の中身が本当に彼の言うとおりペイント弾だとして、
「……お前、ペイント弾で脅してたわけ?」
すごい度胸だと密かに思うが、遠也の表情はさも当然と言いたげだった。
「そうですよ。というか、見てたんですか」
「俺はてっきりマジだったのかと……」
ふぅ、と肩から力を抜き、がりがりと頭を掻いた正紀に、遠也はポケットから鈍い銀色に光る弾を取り出した。それは普段見慣れているペイント弾とは違い、実弾であることは一目で解かった。
「念のために、その銃に入れておいて下さい」
そう言う正紀の銃の中身もペイント弾であることは遠也も見抜いていた。それを正紀も受け取ったが、ポケットにしまいこむだけだった。
「俺は橘を……」
「矢吹のところに行きましょう」
橘を追おうとした正紀を、遠也は強い声で止めた。
「あの橘の話は本当です。矢吹は確かに、何者かに狙われています」
「……だからって、別に今すぐ殺されるってわけじゃねぇだろ」
「貴方らしくない返事ですね」
いつもの正紀なら、即座にいずるの為に動いたはずだ。その指摘に正紀は眉間を寄せたが、遠也は小さく息を吐く。
「先ほど、生徒会が全校放送を。全生徒はクラスで待機。ガルーが校内に侵入したそうです」
「……ガルー?」
「科学科の戦闘用生物ですよ。俺なら、この騒動を利用してターゲットを殺します。その生き物に殺されたことに出来ますからね」
暗殺者達にとって一番の問題は、いずるが矢吹家の人間であるという事だ。彼を殺せば自分達の身も危ぶまれるが、他の者の仕業にすれば、ただの事故で済ませられる。矢吹家の現当主は気性の激しい人物だ。それくらいしないと、彼は自分の孫が死んだことに納得しない。
「今彼らが狙ってくるかは解かりませんが、矢吹の身は今一番危険です。行きましょう、篠田。例の件は、いつだって調べられる。でも、矢吹の命は」
珍しく必死な遠也の言いたい事を充分に理解し、正紀は息を吐く。彼にそこまで言わせてしまったことは少々癪だったが、自分の態度も確かに頑なだった。
はぁ、とため息を吐いて見せると、遠也の眉が情けなく下がる。そんな遠也の表情を見るのは初めてで、自然と自分の口元が緩むのがわかった。
「オヤジの遺言なんだよ」
そう呟くように言うと、遠也の表情が更に不安気になる。今日は随分と普段は無表情な友人の色々な顔を見られる日だと、ぼんやり思ったが、この言い方は少し意地が悪いと、すぐに自分の意思を口にした。
「友達は、大切にしなさいってさ」
「篠田」
遠也の安心したような声に、正紀は頷く。
「いずるを探そう」
クローンは人間に恋をしない。
クローンは人間を殺せない。
その2つの事項は、一見全く違うように見えて、実は元は同じだ、と遠也はひっそりと思った。元は、クローンが人間を傷つけるようなことがないように、と遺伝子にプログラムされただけだと聞いている。つまり、クローンが人間に対して激しい怒りや憎しみを感じないように、と。そして、人間の言葉に忠実にと造られている。だが、それが問題だった。人間の言葉に忠実すぎて、主人に殺人をこなせと言われれば、あっさりとこなしてしまうのだ。怒りや憎しみを感じずとも、人は殺せる。
そうした事例を見てきた遠也は、それをずっと教育の所為だと思っていた。プログラムされているわけではなく、教育の問題だと。生まれた瞬間から、人間に忠実に生きろと育てられれば、そう育つ。誰かを憎めと育てられれば、その誰かを憎む。誰かがクローン達に“怒り”を教えなければ、彼らはその感情を知らずに生きたはずだ。だが、橘たちは確かに“怒り”を知っていた。それを教える事は、クローン教育ではタブーだというのに、だ。
橘は、憎しみを知り、そしてそれと同時に恋も知った。どちらかがなければ、どちらも知り得なかった感情だ。だから、人間に対する憎しみを知らないクローンは、人間に恋をしない。
だが、さっき橘は遠也を殺せたはずなのに、彼女は殺さなかった。自然と、自分達を殺さない選択を選んだ。その事に、彼女は気付いているのだろうか。いや、気付けるわけがない。彼女も矢張り、人を殺せないクローンだ。
不意に遠也の脳裡に翔の顔が浮かぶ。
彼女がどんなに威勢を良く人間に牙を剥いても、その復讐を遂げられる日は来ない。人を殺せない彼女が誰かを殺そうとした場面にもし彼が居合わせたら。
焦燥感を抱きながら、ポケットの中に手を突っ込むと、指にいくつか冷たい感触が触れた。銃からペイント弾を抜き、実弾を詰め込んだ名残だ。正紀にはペイント弾と言ったが、あの銃の中身は、本当は。
冷たい鉛玉を握りこみ、どうか無理はしてくれるな、と心の底から願った。
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