怖い。
 漠然とした恐怖に頭がぐらぐらする。
 飲んだ薬の苦さがまだ口の中に滞在していて、それが不快だ。
 早く眠ってしまいたい。眠ってしまいたいのに、恐怖がなかなか睡魔を導いてくれない。
「眠れないのか?」
 彼の声にこくこくと頷いてみせると、彼の腕に強く抱き締められる。
 男同士で、禁忌的な行為なのだということは解かっているけれど、甘い誘惑には勝てそうも無かった。
 抱いてくれ、と震える声で訴えるとそれに答えるように、いや、慰めるように彼の温かい唇が顔を撫でる。
 怖い、でももう大丈夫、怖くない。
 俺は、貴方が好きなんでしょうか。
 何故彼とこんな行為をしているのか、薬で熱くなった頭では理解できず、彼に聞くしかなかった。
 少し前までは、別な人が好きだったのに。
 何故?
 その問いに彼は薄く笑い、また唇を寄せてくる。

 しかし、その唇が放った言葉は。






「おおー、遠也が科学棟に来るなんて!」
 感激の声を遠也は無視して早良の部屋に入り、まず思い切り眉間に皺を寄せる。
 相変わらず、整理という言葉を無視したような空間だ。早良はこの国屈指の科学者だが、どうやら片付けの才能は無いらしい。
「キチンと片付けないと何がどこにあるのかわからなくなると毎回言っているでしょう。まったく、効率が悪いやり方は賛成できませんね」
 呆れたように足元に落ちている、早良が言うには置いてある書類を拾い上げ、彼に押し付けてやった。
 論文や資料の束がどさどさ床にまで置いてあるが、実験器具を置くところだけは綺麗だ。
「遠也が助手になってくれれば効率はぐーんと上がるんだけどなぁ」
 無精髭を生やした口元が上がるのが気に入らない。
「ヒゲも剃らない男の助手なんてやりたくない」
「えー?このヒゲこの間薬品部の女の子に褒められたんだけどなぁ」
 不思議そうに壁にかけてある鏡を覗き込みながら彼は自分の顎を撫でる。本当に自分で似合っていると思っているのだろうか。それならば、哀れなものだ。
「適当に生やしたヒゲなんて褒めるのは下心があるからでしょう。良かったですね、嫁が見つかって」
「おいおい、カンベンしてくれよ〜〜俺にだって一応好みってものがあるんだって」
「好み?この状況で好み云々語れるんですか、貴方は」
「語れるさぁ。俺の好みは片付け上手で少し冷たい雰囲気の子〜〜」
「相手の好みには当てはまらないでしょうね」
 ばっさり切り捨てられては次の台詞を見失ってしまう。
「もしかして全然伝わってない?」
 言葉でダメなら態度で示すことにしたのか、早良は進む障害になっている書類を拾い集めている遠也の背に抱きついた。
「ウザ……」
 作業中にでかい体が自分の体を拘束してきたので、迷惑この上ない。
 束になっていた書類で肩辺りにあるだろう彼の顔面を叩くとすぐに拘束から解放される。
「この服で来るのには勇気が要りましたよ。どうして科学科と士官科は仲が悪いんです」
 この服、というのは陸上士官科の制服。白衣を身にまとう科学科の生徒たちの視線が痛かった。
 痛む鼻を撫でながら早良は自分にはどうにも出来ない苦情にため息をつく。
「そりゃあお前、伝統みたいなもんだからなぁ。あ、さっきコーラ作ってみたんだけど、飲む?」
 早良の手には黒い液体の入ったビーカーが。コップに移さずそのまま飲む気だろう、絶対。
「結構です」
 くだらないもん作っているな、と心の中で毒づいた。
「んで、何の用かな?」
 矢張りビーカーに口を付け始めた早良を無視して遠也はぐるりと部屋の中を見回した。
「ヨシワラの人間のデータが欲しいのですが」
 まさかそう来るとは思わなかった早良は大袈裟に驚いていた。
「よしわらぁ?また何で」
「貴方には関係ないことですよ」
「うわッ冷たッ」
 そう言いつつも早良はパソコンの電源を入れる。
 多分、科学科のネットワークなら何とかなる。遠也はそう踏んでいた。
 どうせココで作ったんだろうし。
「タイプは?」
 わかるか、と聞かれ遠也は「憶測ですが」と答える。
「クローンです」
「そのクローンの製造番号は?」
「それは解りませんが……名前は橘です」
「橘ね〜〜たーちーばーなっと」
 切れのいいキーボードの音を聴きながら、遠也はさっき拾った書類を眺めていた。
 すぐに彼から「居た」という声が聞こえてくると思ったのに、なかなか返事が来ない。
「早良?何手間取っているんです?」
「……なぁ、遠也…何で彼女を調べる気になったんだ?」
 彼は画面を何故か神妙な顔で凝視している。
 たかがクローンに何をそんな。
「友人が自分の血縁者なんじゃないかと言っていまして」
「友人!?」
 理由を言えば更に驚かれる。
「それが、どうかしましたか?」
 遠也の訝しげな目に彼ははっと自分の口を押さえて、慌てて目を逸らす。
「いや……ちょっと、な。そのうち話すよ」
「はぁ……」
 そのうち、ということは今は話せないという事だ。早良にしては珍しい。
「はい。そのお友達によろしくな」
 資料の印刷が終わる頃にはすっかりいつもの早良の笑顔になっていたが、彼の先程の様子は何か引っ掛かる。
「そういや、三宅くんとは仲良くやってる?」
 それに突っ込もうと思ったのに、さっそく別な話題に切り替えられてしまった。
「適当にやっていますよ。貴方のアドバイス通り」
「そうかそうか。そーだ、丁度いい。コレ、渡しておくか」
 早良は机から茶色い袋を取り出して遠也に手渡した。見慣れた袋に遠也は目を細める。
「有難う御座います」
「礼には及ばないさ。何かあったら俺のところに来いよ」
「わかっていますよ。じゃ、俺はこれで」
「えぇー。久々なんだからもっとゆっくりしていけよ〜〜」
 もういい歳なのに、早良の言動は自分より年下のようだ。
 これが世界に名声を響かせる科学者の言動なのだろうか。
「俺はそんなに忙しくないですが、貴方は確か研究発表が月末にありますよね?」
「あー、アレはもう論文書き終えたから平気。俺にしては仕事が速いでしょー」
 Vサインをして胸を張る彼の仕事はいつも前の日に終わる。最悪な時は当日の朝だ。それでいてよく研究発表に望めるものだと変な感心をしてしまう。
「……その論文って、コレですか?」
 ばさ、と手に持っていた紙の束はさっき拾い集めたもの。
「あー、そうそう。どーだ、面白いだろ〜〜」
 この床に散らばっている大量の紙が彼の次の論文らしい。拾い集めるのにも無駄な時間を使うのに。
「……面白い事は面白いですが、ここの公式間違ってますよ」
「え?」
「単なる書き間違いのようですが。ちゃんと見直しをしないと」
 返された論文を早良が見直すと遠也が指摘するとおり。相変わらず、遠也の頭脳には脱帽させられる。
「サンキュ。次はもっとゆっくり時間取れる時に来いよ〜〜可愛がってやるからな」
「……変な言い方しないで下さいよ」
 これが本当にこの国屈指の科学者なのだろうか。確かに、天才的な才能を持つ人間は変人が多いというが……。周りに「天才」と評される自分はそうでないと願いたい。
「いやいや、今度はゆっくりおいで」
 にやにや笑いながら彼は自分のヒゲが生えた顎を撫でる。
「例の殺人事件の遺体、見たくない?」
 ニヤニヤ笑いの理由は、そこだったらしい。













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それでもやっぱりラブがない・・・。