「翔……」
室内だからぽたぽたと音がするのは自分の体がずぶ濡れだからだろう。
「克己……」
自分を探してくれていたらしい人の姿に、口元が笑みの形にゆがむ。
「俺、馬鹿みてぇ……」
吹っ切ろうとしているのに、未だに過去の幻影に囚われている自分。
情けなくて、目が熱くなる。
「違うって、解ってたんだ。どんなにそっくりでも、姉さんじゃないって」
何の話だか解らないはずの克己は黙っていてくれる。
「わかって、いたけど」
目の前にいて、また笑ってくれることを望んでいた。
それが叶うはずの無い願いだとしても。
「幽霊でもなんでもいいんだよ……」
死んでしまった彼女に会えるのなら。
「翔……」
泣いているのかと克己が手を伸ばしかけた時に翔が顔を上げる。
その顔は雨に濡れてはいたが、泣いてはいなかった。
「あー、俺帰るわ。このままで授業受けるの辛いし」
びしょびしょになったシャツを脱ぎながら翔は苦笑する。川辺に投げられたおかげで、制服は無様なくらい泥だらけだ。
水分で重くなった服の端のほうを軽く絞って、息をつく。
「風邪引いたら明日の授業に支障が出るし、そいじゃな」
「……俺も行く」
「克己ぃ?」
「自殺なんてされたら、夢見が悪くなるからな」
「しねーよ、そんなこと」
「どうかな」
克己は軽く笑って翔の頭を少々乱暴に撫でた。
「今、お前自分がどんな顔しているか、わかっているのか?」
そんなの、鏡があるわけじゃないんだからわかるわけがない。
第一、そんなことは翔にとってはどうでもいいことだった。
「……別に、ふつーじゃん」
シャワーを浴びて、鏡の前に立って自分の顔を見てみる。
向こう側の自分は普段どおり。
にへらっと表情を崩すといつもの笑顔。笑えている自分に安堵してシャワー室から出た。
すると、着替え終わった克己がなにやら聞く体制でベッドに腰掛けていて、ちらりとこちらを黒い眼が見上げてきた。
まぁ、こればっかりは仕方ないだろう。
「俺の姉さんはとっくの昔に死んでたんだよ」
自分のベッドに座って、多分彼が聞きたい事であろうことを口にする。
「7歳年上の姉さんが居た。俺と一緒にアイツから虐待を受けて、俺を守ってくれた人」
首にかけていたタオルを握ってため息をつく。
「でも俺は何もしてあげられなかった」
結局は自分だけ叔父のところへ預けられ、彼女は家に残り自殺をした。自分がいない間、彼女だけに父の狂気が向かっていたのだと考えると、どうしようもないくらいの後悔と、父に対しての怒りを覚える。
「……それは、嘘だろう」
何故か驚いたような克己の口調。
彼が何に対して驚いているのかわからない。
「お前は、お前なりに彼女を助けてきたはずだ」
「何言ってんだよ、克己」
彼は何も知らないはずだ。なのに、どうして『彼女』なんて言い方で姉を呼ぶのだろう。
克己の真摯な黒い目に疑問を持つ。
「翔、俺はお」
ピンポーン。
滅多に鳴らない来訪者を告げるベルが鳴った。
遠也達なら勝手に入ってくるから、多分あまり親しくないヤツだ。
言葉を遮られた克己が渋々ドアのロックを解除してすぐ部屋のドアが乱暴に開け放たれた。
「日向、橘とやりあったって本当か!?」
魚住の登場だった。予想はしていたけども。
「彼女、俺の事何か言っていたか?」
「言ってませんし聞いてません」
少し冷たく返すと彼はどこか落胆したようだった。
「お前……」
言葉を遮られた克己はすでにご立腹の様子。
「ああ、先輩。川辺のヤツが橘さんにご執心のようでしたよ」
腹立ち紛れに嫌な情報をあげる。
それに魚住はあからさまに表情を変えた。
「川辺……が?」
教官の数は結構多いが、名前は知っているようだ。目を大きくしたと思ったらすぐに視線を落とし、自分の顎に手を添える。
「そうか、アイツが……」
何だか妙な呟き方だった。
怒りでもなく恐怖でもなく。
ただ、言っているだけのような。
その様子に気がついた克己は魚住に対して不信感を覚える。
けれど翔は気付いていない。
「もういいでしょう。早く帰ってくださいよ」
克己はさっさと魚住を追い出そうと立ち上がり、彼の体をドアに向かって押した。
「あ、ああ。悪かったな」
魚住はあっさりと帰っていくが、翔は疑問を持つ。
「克己?どうしたんだよ」
けれど納得のいく返事は聞けなかった。
『姉さん、姉さん』
姉を見上げているという事は、幼い頃の記憶だろう。
当時のように何の迷いも無く姉に甘える自分と、これは夢だと冷静に捉えている自分が居る。
姉の穏やかな笑顔が、唯一の救いで。
なのに、いつだっただろう。
ぼんやり考えたことを思い出させるように場面が素早く展開した。
確か、小学校の高学年になった時。
『あんたなんて、大嫌い!』
父の暴力に耐えかねた姉が、初めて自分を突き放した。
初めて、姉に叩かれた。
父よりずっと力の無い攻撃だったけれど、衝撃は大きかった。
『翔もどうせ私のこと汚いって思っているんでしょ?翔は男だから、いいわよ!でも、でも私は!』
涙を流す彼女は、綺麗で、それでも哀しくて。
この人を守りたい。
そう、思ったから。
『俺が、姉さんを守るから』
泣かないで。
この人の笑顔が、見たかっただけ。泣き顔が、見たくなかっただけ。
だから
『こっちに来い!』
いつものように、姉を犯そうとする父親に
『父さん』
この身を、差し出した。
『俺に、して下さい』
意外にも、あの男は俺に興味を示した。
まだ幼かった自分は、その行為の意味を理解していなかった。
単に、ただの暴力としか。
自分が、姉の嫌がる行為を引き受ければ、彼女は悲しまずに済む。
それだけで、良かった。
殴られるよりも痛くて、気持ちの悪いものだったけれど、彼女の為に出来る事はこれしか方法が無くて。
今でも、後悔していない。
殴られるのも犯されるもの翔だけになったから、成功したと思った。
けれど、彼女は笑ってくれなかった。
どこか哀れむような、蔑むような目で自分を見るようになって。
最後まで、多分嫌われていた。
それは、そうだろう。男に抱かれている男なんて、彼女から見たら異常だ。
でも、そうするしかなかった。
段々、自分の精神が崩壊していくのがわかったけれど。
彼女さえ助かるのなら、自分がどうなっても構わなかった。
『……っ』
鈍く痛む体を抑えながら、怯えた様子の姉に近付いた。
『ねえ、さん』
いつもと立場が逆転しているね、と笑うつもりだったのに。
『触らないで!』
手を叩き落とされた時は泣きたくなったけれど。
『ごめん、なさい……』
翔は謝るしかなかった。
彼女は汚い、汚いと何度も繰り返して自分を凝視する。
でも、それを望んだのは、彼女だ。
俺も汚れる事を望んだのは、貴方だよ?
『そうだよ、俺は汚い。姉さんは綺麗』
自分が狂いかけている事に気がついた。
けれど、それで良かった。
それからだって、アイツの言いなりになり続けた。
力の無い自分が、彼女を守る手段はこれしかなかったから。
『あ、うッ』
行為の最中、自分が苦しそうな声を出すのを相手は喜んでいた。
『…そ……い』
知らない名前を聞いたような気がしたけれど、記憶は定かではない。
『い、ってぇ……』
涙を流す事は許されなかった。
きっと、優しい彼女が後悔する。自分を心配する。
シーツを強く握り締めて、堪え続けた。
姉はそんな自分を見て、どう思ったのだろう。
『アンタなんて、嫌い!いなくなればいい!』
涙ながらに、最後に言われた言葉。
『汚い手で触らないで!』
嫌な夢だ、とわかっているのに目を覚ます事が出来ない。
姉に拒絶され、父には体を弄ばれ。
気が狂いそうだ。
早く朝になって、この悪夢から救い出して欲しい。
誰か
誰か
助けて。
それとも、これが現実なのか?
「翔!」
目を開けると、もう見慣れた美形顔が目に入った。
「か、つみ……?」
がくがくと体を揺すられていたらしく、自分の両肩を強く彼が掴んでいた。
克己がほっと息をつく。
「お前、凄いうなされようだったぞ?」
「うなされ、てたんだ……俺」
まるで他人事のように呟く翔に克己が眉を寄せた。
「昼間の事が、原因なのか」
「ああ……かもな」
姉に似た人との出会いが、というより姉に似た人に誰かと問われた事が衝撃だったのだ。
この世で一番大切だと思った人に、忘れられたようで。
「あのひと、何であんなに姉さんにそっくりなんだろう」
素直な感想を口にすると克己が肩から手を離した。
「……忘れろ」
「え?」
「忘れろ、今日の事は」
「……無理に決まってる」
「それでも、忘れるんだ。お前がもう苦しむ必要は無いんじゃないのか?」
別に、苦しんでいるという自覚は無かった。
「死んだんだろう?父親も、姉も……全て終わったのなら、苦しむ必要はない」
「そんな事……出来るわけない……」
結局、姉を助けられなかった。その事実が尾を引いている。
それに、彼女はクローンになって、その身を他人に穢されている。
「姉さんがあんな死に方をしたのに、のうのうと生きていけるわけ無い」
「翔」
「俺には、無理だ」
幸せになんてなっちゃいけない。一生苦しまないといけない。せめて、彼女が苦しんだ分くらいは。
だから、この学校にやって来たのかもしれない。
せいぜい苦しんで死ねと、居るかもしれない神が自分に言っているのかもしれない。
はぁ、と克己がため息をつくのが聞こえた。
「兎に角、今日は寝とけ」
そのまま彼の腕の中にあっさりと納められてしまう。
それにはかなり驚いた。
「かぁっ!?」
驚きすぎて名前を呼び損ねると苦笑が聞こえてくる。
「人の体温は安堵感をもたらすらしいな」
「あんどって、つか俺動揺しているんですが」
「そのうち慣れる」
慣れるかい!
そんな突っ込みをしつつも、段々眠気に襲われる。
「あの人は、お前のこんな状況は望んでいない」
そんな低い声に囁かれ。
克己の言うようにさっきまでの恐怖が段々薄れていくのがわかる。
「でも姉さん、は俺を嫌っていたよ」
眠気で頭がぼんやりしていく中で、姉の笑顔を思い出そうとしたけれど、どうしても思い出すことが出来なかった。
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