「男に、キス……された」
頬だけど。この前は魚住に口にされたけれど、何故だろう、林相手だとダメージが大きい。
授業後にひたすら落ち込んでキスされた頬を押さえている翔に正紀が肩を叩く。
「落ち込むなよ、日向」
「篠田……」
爽やかな彼の笑みに、翔も息を吐くが
「俺なんか首筋にもされたぞ」
正紀が明後日の方向へ視線をやると、何人かのクラスメイトもそれぞれ明後日の方を見る。
確か、彼らは今日林相手に試合をしていたメンバーだ。
つまり、彼らは皆被害にあったと。
ご愁傷様。と思わず手を合わせていた。
「授業を始めます……」
チャイムとどこかおどおどした感じの教師の声に英語だな、と机の中に手を突っ込んだ。
クラス内には生徒は少なく、遠也の姿も見当たらない。
教科書を開いて頬杖をついた。教師の発音する英文に耳を傾けながら、空を見上げる。窓際が席だと暇つぶしが出来ていい。
どうせ、テストなんて無いんだから。
隣に座る克己もどこか暇そうだ。
再び窓に視線を戻す。曇り空からぽつぽつと雨が降ってきた。段々雨足が強くなってきて、傘持ってきてないな、とぼんやり思う。寮の場所は近いから、少しくらいなら平気だろうが。
太陽光が入ってこなくなってきたから、教室が薄暗くなってくると誰かが電気をつけた。
視線を下に降ろしていくと、透明なビニール傘が見える。
雨でよく見えないけれど白い服を着た、女性だろうか。暗い雨の中にぼんやりと白い姿が浮かんでいる。
確か違う科の生徒の制服は白の詰襟だったはず。
けれど、この学校に似つかわしくない白いワンピースらしい服だった。
白い服、というキーワードに思い出した女性が居たが、彼女がここに居るわけがない。
視線を感じたのだろうか、傘の持ち主がくるりとこちらを振り返る。
ガタン。
その顔に、翔は音を立てて立ち上がっていた。
静かな授業の雰囲気を壊す音に英語の音読が止まり、教師や生徒の不思議そうな視線がこちらの様子を伺うが、構ってはいられなかった。
「日向君?どうかしましたか?」
おろおろと教師が声をかけてくるのを無視して、冷えた窓ガラスに手を当て素早く結露を拭い、彼女の様子を伺う。呆然と見ているうちに彼女はこちらに気付かず再び歩き出した。
行ってしまう。
「翔?」
何かあるのか?と克己が隣りに来て同じように外を見ようとした時、その横をすり抜けた。
「おい、翔!」
制止する声も聞かず急いで教室から飛び出して廊下を全力で走る。こんなに必死になったのは中学の大会以来だ。いや、あの時よりも、だ。多分今タイムを計ったら自己ベストだろう。けれどそんな余裕は無かった。
階段を駆け下りて、一番外に近いルートを探し、そこに向かって走りこむ。
緊張で高鳴る心臓の音しか聞こえなかった。
授業中で誰も通らない廊下は走りやすい。
まさか、という思いと僅かな期待で鼓動のペースが速まった。
授業中は締め切られている外へつながる重い扉を両手で押し開け、雨の外へ飛び出すと雨の音が尚一層強く鼓膜を刺激する。
むせ返るような生ぬるい雨の香りに逸る心を抑えつつ、ぐるりと周囲を見渡して、見つけた。ビニールの傘。
「待って!」
ぬかるんでいる地面は走りにくいが、贅沢を言っている暇は無かった。
誰かが追いかけてきた事に気がついた傘が止まる。
そこで、翔も足を止めた。
雨の音と自分の荒い息だけが聞こえる。
これがまた新しいタイプの夢じゃないことを願った。
「姉さん……?」
恐る恐る、声が震えるのをどうにか堪えて呼びかける。
「姉さん、なのか?」
再度問うと驚いたように彼女が振り返った。間近でみる彼女の顔に翔は驚きに眼を見開いた。
ぼやけかけていた記憶が徐々に鮮明になっていくのが分かる。
目の前に居るのは、確かに翔の知る自分の姉の顔だったから。
自分と同じ色素が薄い髪。年令より下に見せる童顔造りの顔。
うっすらと化粧をしているようだったが、間違いない。何故彼女が橘という名でそんなところにいるのかはわからないけれど。
全てが懐かしくて、翔は歓喜で次の言葉をなかなか言えない。喉の奥からは、か細い声しか出なかった。
本物だ、と分かったら迷う事なんて何もない。彼女に一歩近寄ろうとした時
「……貴方、誰?」
彼女は困ったように小首を傾げながら、一歩後ずさる。自分に対して、怯えているように。
「姉さん……?」
その言葉にかなりの衝撃を覚えた。
「私、兄弟なんていないわ」
彼女は申し訳なさそうに微笑み、首を横に振る。
ああ、もう何年も会っていなかったから忘れられたのだろうか。
「やだな、姉さん。俺だよ、翔だよ?」
必死に訴えたけれど、彼女は訝しげな表情のまま。
彼女が自分を知らないはずは無い。お互い、たった一人の姉弟だったのだから。
人違いのはずも無かった。顔も声も動作もすべて記憶の中の姉と同じだ。
「ごめんなさい」
なのに、彼女は自分を知らないと言い頭を下げる。それに、絶望を感じた。
「……俺の事、怒ってるのか?」
翔は拳を強く握り、思い当たる事を口にした。
「俺が、弱かったから…守れなかったから、怒って……る?」
それは当然の事だから、彼女の態度に怒りを覚えたりはしなかった。
けれど、自分が情けない。
「君……」
まるで初めて見る相手をたしなめる様な呼びかけに翔は首を激しく横に振った。
「俺は貴方の弟なんだ!お願いだから思い出して!俺を独りにしないでくれよ!俺も一緒に連れて行って欲しかったのに!」
悲痛な叫びを雨がすかさずかき消していく。
ずぶ濡れの翔に彼女は哀れみの視線をやり、躊躇いながらももう一度ゆっくりと繰り返した。
「私は、君のお姉さんじゃないよ?」
それは、とても残酷な言葉。
聞きたくない。
彼女は嘘を言っている。嘘を言っているはず。
「もう、独りは嫌なんだ!お願いだから、何でもするから!」
困惑する彼女の両腕を掴んで、必死にすがる。
小さな悲鳴が聞こえ、その腕の細さに呆然とした。自分が成長したからこそ気がつく姉の体の華奢さ。
こんな弱い体に、幼い自分は守られていたのだと。
握ったら折れてしまいそうな程に細く儚げで、誰かに守られる事を必要とした体。この体に、自分は庇われていたのだ。
その時後ろ襟をつかまれ、物凄い力で彼女から引き離された。
そのまま投げ飛ばされ、水に濡れた地面を体がスライディングしていく。
「大丈夫ですか」
川辺の声だった。
身を起こそうとすると体が鈍く痛んだが、お陰でパニックになりかけた頭が少し冷静になった。
「乱暴にしないで!」
彼女の非難の言葉も川辺はさらりと流していた。
「私の生徒が不躾な真似をしまして……お詫びに送りますよ」
ちゃっかりと相合傘をして去っていこうとする彼らの背に、ふらつきながら立ち上がる。
「―――……本当に俺の事、知らないのか?」
先ほどとはうって変わった静かな口調に彼女が足を止め、川辺も仕方なさそうに歩みを止めた。
泥水と雨で汚れた少年の姿に彼女は眼を細める。
「ええ……」
「そ、ですか……。すみません、ご迷惑をおかけしました」
ぺこりと頭を下げる彼の姿が、哀れだった。
「おい、日向。次やったら殴るだけじゃすまされないからな」
そんな翔に川辺は容赦ない言葉を投げ付ける。
でも、その言葉は翔の耳には届いていなかった。
傘を、見えなくなるまで見送って自分の行くべき場所へ向かう。
光の灯った昇降口へ。
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