「うーす、日向、今日もイイ天気……」
昇降口で翔に声をかけた正紀は途中で言葉を止めた。
「篠田……」
珍しく元気の無い翔がへこんだ様子で振り返ったから。
「何だ、どうした、まさか甲賀に無理矢理グハッ」
「人聞きの悪い事を言うな」
すかさず克己から鉄拳が飛んでくるのを正紀は顔で受け止める羽目になる。
「ハムスターが居なくなったんだ」
落とした、の間違いかもしれないけれど。
翔の説明にハムスター?と正紀は首を傾げ、そして思い出したように手を叩いた。
「ああ、蛇の餌」
「餌ってゆうな!」
その時、前を歩いていた克己が足を止める。
どうしたんだろうと前方に視線をやれば、妙な人だかりが出来ているのに気がついた。
一階の階段の隅なんて、あまり人が集まる場所ではない。
近付いてみると血の臭い。
「コレ、何人目だよ」
「この中でコイツと同じクラスの奴いないのかよ」
正紀が長身を生かして背伸びをすると、血まみれになった人間の体が見えた。
その惨たらしさに思わず眉を寄せる。
背の低い翔には見えない光景だったから、見えているだろう克己に視線をやると首を横に振られた。
見ないほうがいい、と言われているようだった。
だから思わず視線を下にしていたが、血の臭いは容赦なく鼻腔を攻めてくる。
「この臭い……」
正紀は血の臭気に鼻を擦り、眉を寄せて一足先に人ごみから離れる。それを追うように、翔と克己も教室へと向かった。
遠くから人の塊が段々とほぐれていくのを眺めながら、口角を上げた。
「アレが、例の?」
口の中にある飴玉を舌で弄びながら背後にいた相手に問うと、彼は無言で頷きすぐに彼から視線を逸らす。
「あまり見るな。彼は聡い。お前程度の腕じゃ、すぐ気付かれる」
「あぁ?んだとぉ?てめぇ誰に向かって口きいていやがる!」
紅いネクタイをつけた男は蒼いネクタイをつけた相手を睨み付けた。紅いネクタイは2年生のもの、蒼いネクタイは3年生。学年がこちらの方が上だというのに、彼はまったく気にせず暴言を吐く。
彼の見た目も頭痛の種だった。オレンジ色の髪に紅いメッシュを入れ、眼には赤のカラーコンタクトを入れている。さらに今はネクタイをつけているが、普段はお気に入りのパーカーの上に学校指定のブレザーを着て、規定どおりに制服を着るなんて珍しい。いくら一般生徒には無い特権があるからといってもこれはやりすぎだろう。
「分別をつけないと早死にするぞ、遊井名田右家」
「分別?ついてるさ。ついてなかったら俺はこの場でてめぇを殺しているぜ、高遠」
さわりと頬に触れた殺気にも高遠は眉一つ動かさず、怒りの色をまとった紅を見返した。
「右家っつーな。嫌いなんだよ、その付け足し」
「これは失礼した」
抑揚のない声で謝られ、遊井名田は軽く舌打ちをして不快を露わにする。感情を抑えきれない彼のその行動に高遠はため息を吐きたくなった。
何故あの人は自分を彼のお守役に選んだのか―――
上司の思惑が分からず、頭痛を感じたが対象を視界に入れて彼の考えに納得した。彼は恐らく自分を試している。彼にその資格は無いと心の中で呟いたが、遊井名田のささくれた声に顔を上げた。
「あいつを、ぶっ殺せばいいんだろ?生徒会会長補佐サマ」
自信過剰な彼の一言を鼻で笑って。
「お前には無理だ」
確実に、な。
そう呟き、高遠はその場を後にした。
上司の気配が背から消えたと同時、遊井名田は口の中の飴玉を噛み砕いた。口の中に飛び散った欠片をさらに噛み、甘さを味わうことなく一気に飲み込む。
「無理、だと?」
彼は有望だという噂を確かに自分も耳にしたことがある。だが、この自分を倒すほどの力を持つ人間のわけがない。それをあの高遠は無理だと言い放った。
「面白ェじゃねぇか」
手に残った飴の白い棒を手の中で二つに折り曲げ、口角をあげる。たかが一年が、この自分に対抗出来るか否か。
「おい。いるか、てめぇら」
呼びかけてすぐに背後に数人の気配を感じた。慣れた気配は間違いなく自分の部下。素早い対応は自分の指導の賜物だ。
「あいつの顔、覚えとけ。名は甲賀克己。俺らの上司からの命だ」
窓硝子の向こうにいる彼の顔が上に向き、目があった。瞬間、足下から駆け上がったのは、武者震いというやつなのだろうか。久々に面白い戦いが出来そうだ。そんな予感に、口元が緩む。
「あの男、隙があったら殺していいから」
自分の部下に隙をつかれる程度なら、自分が相手をするまでもない。まずは、力量を計らせて貰うとしようか。
新しい飴の袋を破り、それが地に落ちるより早く、背の気配は消え去った。
タン、と軽快な音をたてて矢が的に突き刺さる。
いずるは真ん中に命中したのを確認してから次の矢を手に取る。
朝に時々こうやって弓道場で練習をしないと腕が鈍ってしまう。
「相変わらずの腕だな」
褒め言葉に顔を上げると魚住が弓道着を身に着けて立っている。
顔見知りの先輩の登場にいずるは笑顔を作った。
「先輩にはまだ敵いませんよ」
「見え透いたお世辞は止めろ。俺はお前の足元にも及ばない」
彼の的には矢が刺さってはいたが真ん中ではない。
そのことにいずるは密かに眉を顰めた。
いずるは入学前から彼の事を知っていた。弓道界ではそれなりに名が通っていた人物で、弓道誌にも名が載ったこともある。
とても優しい青年で、弓道の腕だって悪くない。
いずるが知る魚住の腕は自分と同じくらいだったはず。
なのに、最近はどうだ。
自分が見ている限りでは、彼の腕が落ちているように思える。
こんな短期間で急激に。
「貴方の技術は完璧だ」
鋭い声に魚住はゆっくりといずるを振り返る。
「問題があるとしたら、貴方の精神だ」
「俺は今恋をしているから」
苦笑する魚住にいずるは眉を寄せた。
「貴方の今の弓の使い方はどこか荒っぽい。それに、矢を射るときの目が前と変わっている」
同じ道に立っているからこそ気付く変化だ。
「気にするな、矢吹。お前の気のせいだよ」
「気のせいじゃありません。現に貴方の矢は的に突き刺さっていない」
一体何を射ろうとしているんだ。
好きな相手の心、なんて肌寒いことではないだろう。
「……大丈夫ですか?」
彼と付き合いのあったいずるとしては、思い当たるところもあり気遣いの言葉を呟いた。
怒られるか、とも思ったが、魚住は苦笑するだけだ。
「凄いな、矢吹は。俺の矢を見ただけでそこまで見抜けるのか」
「先輩……」
魚住のどこか淋しそうな目にいずるは怪訝な目で彼を見た。
「俺は、いつから変わったと思う?矢吹」
「それは……」
「それが俺からのヒントだよ。気をつけろよ、矢吹」
“気をつけろ”?
不思議な言葉を残して魚住は弓道場を後にする。それを見送り、いずるは眉根を寄せた。
何だろう、この妙な胸騒ぎは。
「……正紀」
変なことに、ならなければいいが。
「練習か?」
人の気配がし、弓をひこうとした手を止める。一瞬、魚住が戻ってきたのかと思ったが、彼より低い声はどことなく聞き覚えがあった。
「川辺、教官?」
何故彼がこんなところに?
驚きつつ敬礼をしようと手を上げると、制止された。
「良い」
「はい……」
「なかなか立派な設備だな」
くるりと川辺は弓道場を見回し、笑う。真意が見えないその行動にいずるは困惑した。彼は柔道の担当教官だ。今は臨時でナイフも見てくれているが。怪訝な眼で見られていることに気付いたのだろう、川辺が腕を組みながら眼を細めた。
「弓道も学生時代やっていた事がある」
「そう、ですか」
「君の噂は聞いている。矢吹いずる、なかなかな腕を持っているようだな」
すでに矢が的中している的をちらりと見て川辺は言う。慌てて頭を下げた。
「いえ、まだまだです」
「謙遜するな」
「謙遜ではありません。俺もまだ弱い部分があり、それが出てしまいます」
「素直なのは悪いことじゃない。君みたいに、感情を表に出せない立場にいる人間は、こういうものが必要なんだろうし」
……ん?
不意に感じた懐かしさにいずるは顔を上げ、川辺の顔を正面から見た。彼はその視線を受け止め、笑う。
「じゃあ、また。頑張れよ」
「はい……」
川辺とはこの学校で初めて会った。顔だって一度も見たことのない顔だった。なのに、この奇妙な感覚は何だろう。
「疲れてるのか……?」
川辺が去って行った方向を見ながら頭を掻く。既視感というのは脳が疲れているから現れる症状だとかそんな話を聞いたことがある。けれど、その既視感とは違う、本能的な感覚が懐かしさを訴えてきていた。
奇妙なこともあるものだ。
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