『姉さん!』
 締め切られたドアを強く叩いた。手が真っ赤になるまで。傷が出来るまで。
 二階の、父の書斎で行われていることと言ったら一つしか思い浮かばない。
『うるさいぞ!』
 一向に止まないドアをたたく音に怒りを覚えたのか、男の野太い声と共にドアが開いた。
『姉さんを放せ!』
 部屋の奥の方をみると、暗いところで白く浮かび上がる女性の裸体が見える。
 彼女は顔を上げて、首を横に振った。
 逃げろ、と自分に言っているのだろう。彼女の目は涙目で、口元には青い痣がある。
 けれど、そんなの見せられて逃げられるわけがない。
『姉さんを、放せよ!』
『殴られ足りないのか?このガキ!』
 即頭部に鈍い痛みが走る。
 女性の悲鳴が聞こえる。
『お前が黙って言うこと聞いていれば、お前の姉にだってこんなことしないんだ』
 そう言う父を見れば、「眼が気に食わない」と殴られる。
 骨の2,3本は折れているのでは、と思うほどの激痛に低く呻いた。それでも逃げるわけにはいかない。彼女を今守れるのは自分だけだから。
『おれは、いいから』
 げほりと咳をしたら、口の中に血の味が広がった。
 か細い声に男が眉を上げる。
『おれは何をされてもいいから、ねえさんには手をださないで』
 すでに懇願だった。
 必死の願いに男の口元が歪む。
『その言葉、忘れるなよ』
 姉の悲痛な叫びが聞こえた。
 痛む体を持ち上げていると、体を押される。
 あっさりバランスを崩すと床ではなく、浮遊感を感じた。

 あ、階段。

 死の文字が浮かび、咄嗟に手を伸ばした。
 どうせ死ぬのなら、彼を巻き添えにしなければいけない。
 けれど未発達の短い腕は父親の服を掴むことも出来ず、まるで助けを請う様な格好になってしまった。
 それを満足そうに男は眺める。
 その眼は、絶対に忘れない。
 その眼を、死に追いやるまでは、絶対に死ねない。
 
 死んで、たまるか。



 眼を開けると真っ暗だった。
 心臓の鼓動の速さをみると、いつもの夢をみていたのだろう。向かい側のベッドに眼をやり、ルームメイトが起きていないことに安心した。
 いつ自分が眠りについたのかは覚えていない。
 けれど、その前後にあった事は覚えている。
 見せられた写真に写っていた女性は姉にそっくりだったから。
まず、自分にそっくりという時点で気付いておくべきだった。多分、他人の空似だとは思う。本人かと思うほど似ているように見えたけれど、姉の顔を最後に見たのはもう3年も前の話だ。夢の中の彼女の顔だって、起きてみると細かいところまで思い出せない。
 すでに記憶の中で風化しつつあるのかもしれない。
「……最低、だな。俺は」
 あんなに自分を庇ってくれた人を忘れようとしているなんて。
 汗で濡れた額を拭い、眼を閉じた。

 駄目だ、眠れない。
 10分経って、すぐに身を起こした。
 時計を見ると3時前。
 ここでごろごろしているのもきっと克己の安眠を妨げてしまう。
 夜行性らしいハムスターもがたがた音を立てているし。
 彼を連れてなるべく音を立てないようにして部屋から出た。
 廊下も節電対策なのかそれとも単に夜だからかは分からないが真っ暗だった。非常灯だけが黄緑色の光を放っている。
 エレベーターだけは始動しているようで、ボタンを押すとランプがついた。
 なんとなく外の空気が吸いたくなり、屋上のボタンを押す。行くのは初めてだ。
 最上階は32階。
 この寮がここの敷地内で一番高い建物らしい。
 長い時間乗っていたけれど、誰かが途中で乗ってくるということは無かった。なんとなくため息を吐きながらエレベーターから降りると強めの風を感じる。
 何もない高い場所。
 胸のポケットに入れておいたハムスターがもごもご動いてくすぐったい。
 そう思いながらギリギリのところに立ってみた。
 安全面は考えていないのか、フェンスも何もなく、一歩間違えば落ちてしまう。
 下ではなくまず天を仰いでみる。星一つ無い空になんとなくがっかりした。
 薄い雲が空全体を覆っているらしく、一部ほんのり明るいところには恐らく月がある。
 折角この場所で一番高いところで、空に近いところなのに。
 人が死んだら星になると言う御伽噺を信じる程子供では無いけれど、あの人の星ならきっととても綺麗
だろう。星があったら、あれは彼女の星だと自分はすぐに見つけられるのだろうか。
「ここは自殺の名所だぜ」
 人の声にぎくりと体を震わせた。
「誰だ」
 闇の中で人影を一つだけ確認する。
 服は私服らしく何年生かも北か南かもわからない。
「人には葵って呼ばれてるけどな、本来の名前は数字だ」
 明るい調子の声に首を傾げる。
「生徒、じゃないのか?」
「ん。俺はヨシワラの人間さぁ」
 月明かりに照らされた男の顔はヨシワラにいるだけあってそれなりに整っていると思う。
 いや、文句なしに格好いいだろうが。
「よ、ヨシワラって、お前男じゃん!」
 そう。イメージとしては歴史に良く出てくる遊郭で、色っぽい女性が集まっているところという認識だった。なのに、目の前の男は着流し一枚であくびをしている。もちろん、着流しの下は厚い胸板だ。
 翔の言いたいことに男は笑う。
「女相手だって必要だろ?」
 ああ、なるほど。
 その理由には納得した。けれど
「ま、時々男にも指名されるけどな」
 にやり、と彼が悪戯っぽく笑った時には理解出来ず、頭痛を感じた。
「タチでもネコでもいけちゃうから、俺。大人気なわけよ」
 わけのわからない単語に眉を顰め、ため息を吐いた。
「で、そのヨシワラ君はこんなところで何をしてんだよ」
「ヨシワラ君って…………葵って言ったろ?俺の名前」
「葵くんは、ここで何をしているわけ?」
「実は今日の相手が最悪でさぁ、シャワーだけじゃもの足りないから風に癒してもらっていたわけ」
 聞かなきゃよかった。
 男の軽口ぶりに呆れつつ、そう思う。
「カケルは、何でここに来たの?」
 さらりと自分の名前を当てられたことには少々驚きだ。
「何で、俺の名前」
「だって、橘姐にそっくりだから」
 なんてことない、という感じで言われ思い出す。
 橘、という女性のことを。自分に、いや姉にそっくりなクローンの存在を。思わず眉を寄せていた。
「なぁ、カケルは何でここに来たの?」
 葵はそんな翔の様子に気付かず、マイペースに質問を投げかけてきた。
「星……を」
「え?」
「星を、見に来た。死んだ人間が星になるって本当かなって思って」
「……誰か、死んでいるのか?友だち?」
 葵の問いに曖昧な笑顔を返す。
 妙な期待が自分の中で生まれ始めているのには気がついていた。
 そんな己の弱さを密かに自嘲する。
「ふーん、星、ねぇ」
 葵は深く聞かず、さっきの翔と同じように空を仰いだ。
 こんなにきちんと空と向き合ったのは彼も初めてだった。
「星になれるんならまだいいよ。俺なんて星になれないだろうし」
 あーあ、やんなっちゃう、と大袈裟にため息をついて葵は苦笑した。
「俺さあ、アンドロイドなんだよな」
 アンドロイド、と言われ翔は目を疑う。
 人間にしか、見えない。
 アンドロイドと言われるとロボットのようなものを想像してしまうが、彼はどう見ても生身の人間だ。
「あったり前。作り方が違うだけだし?」
 こちらの戸惑いを読んだ葵は苦笑して翔の頭を撫でる。思ったより優しい手付きに少し驚きを感じた。
「人間に造られた人間って、天国に行けるのかなぁ。な、カケルはどう思う?」
 人懐こい目が返事を期待する。
 作り物の目のはずなのに、人間以上に純粋な光を持っていることに、翔は目を逸らさずにはいられなかった。
「……天国なんて、無いだろ」
「アレ。さっきはロマンチックなこと言ってたくせに、随分現実的なこと言うんだな」
 葵のからかうような言い方を無視してもう一度空を見上げた。
 暗い空にはやはり星は見当たらない。
「まぁ、俺も神様なんて信じてないし。そうしたらやっぱり天国も無い事になるよな」
 葵は背伸びをして少し長めの黒髪をいじり始める。
「神が本当に居たら人間はとうの昔に滅ぼされてるもんな」
 少し調子が低くなった葵の声に翔は素早く彼を振り返る。
 今までとは打って変わった彼の鋭い目に体が硬直し、嫌な予感がした。
「俺たちの存在はすでに神への冒涜だ。そうだろ?」
 アンドロイドという部類に入っている彼の存在は、確かに自然の摂理に逆らったものだ。だが、翔が生まれた時にはすでに彼らが世に馴染んでいた後だったから、そんなことを改めて考えたことは一度もない。
「だから、俺は人間が嫌いだ。俺に抱かれたり俺を抱いたりしてヨガる人間を見ていると殺したくなる」
 じりじりと狭まってくる葵と自分の距離。
 彼は初対面の自分をいきなり殺す気だろうか?
 困惑と恐怖を感じながら翔は狭まった距離分、後退する。
 けれど、後2、3歩下がったら地上へ真っ逆さまだ。
 どうする?
 必死に考え始めた時だった。
「カケルは、なんか良いな。気に入っちゃった」
 葵はにへ、と笑って何故か抱きついてくる。
「ちょ!?」
 予想していなかった展開に翔はかなり面食らう。
「ああ〜〜、いいなぁこのジャストフィットサイズ!」
 頭をぐりぐりと撫でられて、慌てて男の腹を蹴り飛ばした。
「いってー…。カケル乱暴!」
 腹を押さえて頬を膨らます葵は見た目は20代前半位なのに言動がどこか子供っぽい。
 いや、対象物が大人っぽすぎなのかもしれない。
 自然、克己と比べていた自分に気がついた。
「まぁいいやぁ。俺はそろそろ部屋に戻るよ、客が起きないうちに戻らないと」
 先程まで蹲っていた葵は立ち上がり、エレベーターの方へ歩いていく。
「じゃな、カケル。ヨシワラに来たら是非俺を指名してくれよなっ!サァビスするよ」
「いらん!」
 台風のような人物を見送り、翔はため息をついた。
 余計な緊張をして損した。
 もう一度ため息をついて顔を上げる。
 自殺の、名所だと言っていた。
 足場ギリギリの場所に立ち、下を覗いて見る。
 見なきゃ良かったと思うのは実行して五秒後。
 自分に高所恐怖症のケは無いはずなのに、この高さには軽い恐怖を覚えた。
 ここから飛び降りるなんて凄い。素直に感心してしまう。
 けれど、一瞬の浮遊感はきっと気分が良いだろう。
 一瞬でも、空を飛んでいるように思えるのだろうか。
 不意に見上げた空は漆黒に近い藍色で、いつか見た夢を思い出す。
 綺麗な闇に消えた姉と、濃い闇に飲み込まれかけた自分。
「姉さん……」
 星の無い空に呼びかけてみた。
 元気?と意味の無い問いかけに風が吹く。
 昼間のことを思い出して考える。誤魔化してみたけれど、あれは姉そのものだったように見える。
 橘、という女性の写真。
 写真だからそう見えたのかもしれない。本人を見れば……。
「翔」
「うわぁあ!?」
 いきなり声をかけられたから心臓に悪かった。
 振り返ると困惑顔の克己がいる。
「克己!?お前、なんで?びっくりした〜〜」
「驚いたのはこっちだ。夜中にほっつき歩くな」
 はぁ、と深いため息を吐かれ一応謝っておく。
「ご、ごめん」
「帰るぞ」
 手を差し伸ばされて、なんとなく気恥ずかしい気分になる。
 それに、何か忘れている気が。
「……あれ?ハムスター……」
 連れてきたはずのちっこい毛玉が消えている。
「どうした?」
 克己が不思議そうに首を傾げるが、かまっていられない。
 まさかと思うが、落とした?
 奈落に近い高さに血が下がる。
「あああ、どうしよう!!」










Next




top