「悪かった」
食堂で、男が翔と克己に頭を下げた。
しかし、克己は無言でコーヒーを飲んでいるし、翔はかなり機嫌をそこねたらしく男のほうは見ないでパックのウーロン茶を飲んでいた。
3年生が1年生に頭を下げるという異様な光景に食堂中の視線が集まる。
ひたすら頭を下げる男の名は魚住というらしい。
彼は自分の失態に頬を紅く染めつつ頭を掻いた。
「まさか人違いとは……あまりにも良く似ていたから」
「イイ迷惑。女と男を間違えんなよな……」
手の中のパックを握りつぶして魚住を睨んだ。かなりプライドを傷つけられたらしい翔のオーラは怖い。
克己もそんな翔を窘めようとはしない。
「でも、本当に似ているんだ!」
そして魚住は余計なことを主張する。
「女に似てるっつわれても嬉しくねーんだよ!」
テーブルを殴りながら翔は魚住の言い訳を却下した。
自尊心を傷つけられた所為か容赦無い。
完全に魚住は小さくなってしまった。
「す、すまない……」
「日向、お疲れーアレ、魚住先輩?」
その時、聞き覚えのある声が男の名を呼んだ。
「矢吹?知り合いか?」
いずるが正紀と共に来て、それに安堵したのは魚住だった。
「魚住先輩今日は。日向たちとは同じクラスなんですが」
椅子に座りながらいずるは首を傾げた。
険悪なムードに何かあったのか、と。
「弓道の道場でよく一緒になるんだ」
翔たちにはそう説明してくれる。
いずるの弓道の腕は中学の時全国レベルで、と言う話は聞いている。
魚住も弓道を嗜んでいるらしい。いらない情報だ。
「橘、って」
黙っていた克己が口を開いた。
「ヨシワラの人間だよな」
その問いに魚住は頷いた。
「そう、日向に凄く似ているんだ」
ヨシワラといえば風俗店じゃないか。
そこの住人に似ていると言われても嬉しくない。それに
「だからって、あんな……」
思わず口元を手で覆い、眼を伏せる。心なしか頬も紅くなっている翔の様子に正紀といずるは首を傾げて魚住に視線をやる。当の魚住も頬を染めて気まずそうに頭を掻く。
「いや、すまなかった……まぁ、その……犬に咬まれたと思ってくれ。それに、軍では珍しいことじゃ」
「それ、フォローになってないですが」
魚住は何を言っても翔の怒りに触れてしまうとこの時察し、ようやく余計な事ばかり言う口を閉じた。
気まずい空気の中、この雰囲気を変えようと正紀がそうだ、と手を打つ。
「朝に聞こうと思ったんだよ。南の方で噂になっているみたいでさ、ヨシワラの橘に似ている奴が入学してきて、それが日向って名前だって。気をつけろよ、日向」
神妙な顔で言われ、何が?と首を傾げてみせる。
それに正紀は大袈裟なほどため息を吐いた。
「わっかんねーかな。橘ってさ、人気ある上に高いから高嶺の花なわけ。橘に気に入ってもらえなかった奴がお前襲ってもおかしくねーだろ?」
女か男かなんてどうでもいい事だしな、と付け足される。
どうなっているのだ、この国のモラルは。
「橘は美人だよ」
恍惚として魚住は説明する。
それは遠まわしの嫌味だろうか。
無言で割り箸を片手で折ると魚住は椅子を鳴らして怯えていた。
「で、でもよっくみたらっ!日向と橘そんなに似てないなっ」
それは本当か。
「橘、髪ショートだし、えーと、やっぱ女だし!」
写真を見るか?と彼は胸ポケットの中のカード入れを取り出した。
「へぇ。先輩ちゃんと片想いらしいことしてんだ。でもさ」
矢吹が妙なところで感心し、何かを言いかけて止めた。
それに魚住は一瞬バツの悪そうな顔をするが、気を持ち直して写真を取り出した。
素早く正紀が奪い取り、目を見開いた。
「うっわ……日向、センパイの言うこと、あながち嘘じゃねーぞ」
「はぁ?」
「ほら」
本当は見る気なんて無かったのだけれど、正紀が渡してくるので仕方なく受け取る。
他人の空似。
そう思っていた。
けれど、写真に写っている女性に眼を大きく見開いた。
「そっくり、ってわけじゃないけど、遠くからみたら似てるかもな」
いずるの分析に魚住は苦笑した。近くで見ても本人だと信じて疑わなかった自分に。
黙して写真を凝視している翔にはキツイ現実を見せてしまったかもしれない。
彼は女と間違えられることをかなり嫌っているようだったから。
「もういいか、日向」
写真を取ろうとすると、翔の手が細かく震えている。
「嘘だ」
「え?」
「冗談、キッツイんだよ、ふざけやがって!」
写真をテーブルに叩きつけて翔は立ち上がる。
にぎやかだった食堂が彼の怒声で静まり返った。
それを気に止める余裕は無く、翔は食堂から飛び出していく。
残された4人はしばらく呆然としていた。
「日向が、怒った……」
「やっぱり女に似てるって言われて喜ぶわけないよなぁ」
正紀といずるの言葉に魚住は肩を落とす。
克己は翔が叩きつけていった写真を手に取り、息を呑む。
「……多分、それに怒ったんじゃない」
彼がぽつりと呟いた言葉を拾った人間はいなかった。
「悪い、矢吹……あの子に会った時にでも、謝っておいてくれないか」
魚住はため息を吐きながら額を押さえて反省する。流石に、女と似ていると言われ、プライドが傷つかない男はいない。いずるもそれに適当に返事をしていた。
その様子を正紀は何気なく眺めていたのだが、その視線に気付いた魚住はにこりと微笑んだ。
「矢吹の友達か?君もやるのか、弓を」
「はい?」
「コイツはやりませんよ、先輩」
驚く正紀の代わりにいずるが答え、それにも正紀は驚かされた。すかさずといったようないずるの態度は、まるで正紀に答えさせないようにしているようで。
「……いずる?」
どこか怒っているような彼の無表情に、正紀は眉根を寄せた。
食堂から出て、いまだに機嫌の良くない空気を漂わせている親友の背に正紀は肩を落とす。
「……お前の先輩って変な奴だなぁ」
正紀ののんびりした声にいずるは短く息を吐いた。
「先輩というわけじゃない。弓道場でたまに一緒になるだけだ。正紀」
「何?」
「あんまり、あの人には近付くなよ」
「は?」
何で俺がお前の先輩に近付くんだよ。
正紀の怪訝な顔を一瞥していずるは先に歩き始める。
「おい、いずる……」
それを追おうとして、正紀は背に感じた視線にはっと後ろを振り返った。
「正紀?」
ついて来ない正紀に、いずるがこちらを振り返る。それに「ああ……」と返事をしながらも、まだその視線は背に感じる。
冷ややかで、それでいて殺気も混じった自分に対する憎悪にも似た視線。
憎悪の眼で見られたことなら何度かある。一応、昔は不良頭なんてものをやっていたから、街を歩けば畏怖と憎悪の眼で見られたものだった。
だが、この学校に来てからは、そんな目で見られないといけないような事をした覚えが無いのだが。
「何でもない」
そう答えて、正紀はいずるのところへと急いだ。
まぁ、見ているだけなら大した相手ではないと思い、歩き出した瞬間その視線も消えたから、忘れる事にした。
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