「あー、何事も無い一日だった……」
 本日の授業の終了を告げるチャイムに翔は身を伸ばした。
 それに朝の騒動は何事にも入らないのかと約二名が心の中で突っ込みを入れる。
 特に被害を受けていない翔に言っても仕方ないことだけれど。
 翔がぼんやりと考えたのは今朝ペットになったハムスターのこと。昼休み中に寮に戻って置いてきたのだ。忍び込んできたシーサーにでも食われていなければいいが。
「日向、さっさと掃除終わらせてさっさと帰ることしようぜ」
 同じ掃除当番仲間である正紀が疲れたような声で言ってきたのは、多分昼間のことがかなりの疲労の種となっているからだろう。事情を知らない同じく掃除当番の遠也は一瞬不思議そうな顔をしたが、早くに掃除が終わるのは良い事だと思ったのだろう、何も言わない。
「そうだな。今日の掃除ってどこだっけ?」
「第二書庫。ま、比較的楽だな」
 図書室の掃除は机の移動などが無いから比較的早くに終わる。その事に多少心が軽くなりながらも、ちらりと隣りで帰る準備を終わらせていた克己を見た。彼は、掃除当番では無い。
「克己、俺……は掃除なんだけど、先帰る?あ、早く終わるとは思うけど」
「ああ……俺も少し用があるから」
「お。じゃあ、一緒に帰ろう、掃除すぐ終わらせるし!」
 ぱぁっと表情を輝かせた翔に対し、相手の克己は無表情で頷く。そのやり取りを眺めていた友人達と教室に残っていたクラスメイトは何故か意外なものを見たような眼で教室から出て行く克己を見送った。
 あの甲賀克己が、送れて入学してきた日向翔と仲良くしているなんて。ついでにいえば、あの甲賀克己に親しげに声をかける勇気がある人間が現れたことにも驚いていた。
 だが、当の本人はそんなクラスの興味の視線に気付くことなく、早く掃除終わらせようなんて事を考えていた。
「お前、ほんっと仲良くなったよなぁ」
「え?」
 翔が後ろを振り返ると、顔なじみの友人達はすでに掃除場所への移動を始めていた。それについていくと、正紀がちょっと不満気に肩を竦めた。
「今までは、俺とかが声かけても返事なんてもらった例がないのに」
「正紀の場合はうっとおしいからな」
「……いずる」
 親友のものとは思えない辛辣な言葉に正紀は閉口し、その隙にいずるは翔に笑いかけた。
「良い傾向だなって思ってんの、俺達」
 彼の穏やかな微笑みに翔は眼を瞬かせる。
「そうそう。日向が来てから少し甲賀の空気が柔らかくなった気がするんだよな」
 絶対そうだ、と断言する正紀の言葉には少し機嫌が上昇する。
「そう、か?」
 比較的に近くにいる所為か、あまりそういった変化には気付けない。最初から彼とは会話を交わしていたし、前回の調理実習では色々話をしたし、すでに良いお友達だとは翔側は認識していた。
「日向って凄いな。どうせ、佐木も日向にほだされたクチなんだろ?」
「……ほだされた、とはどういう意味か解かりかねますが」
 いずるをちらりと睨み、遠也は眼鏡を上げる。頭脳明晰なのが目立つ佐木遠也も、クラスの中では克己ほどではないが浮いた存在ではあった。しかし、その佐木遠也と甲賀克己二人と仲が良い日向翔という人物はなかなかにつわものだと周囲は認識し始めてる。
「何か、あれだな。猛獣と猛獣使い、みたいな?」
 笑顔で余計な事を言った正紀には悪気は無かったが、きらりと遠也の眼鏡が光った。
「猛獣とは誰のことでしょうかね?元不良の篠田正紀くん?」
「あ……いや」
 眼鏡の奥の黒い目に睨まれ、流石の元不良も背筋に冷たいものが走るのが解かった。不良時代にもこんな威嚇が出来る相手に出会ったことが無い。
 コイツ、ちっけぇくせに怖い。
 ひぃ、と思わず後ずさったところには、親友のいずるが控えていた。
「あ、佐木、ちなみに俺は猛獣使いじゃなくて調教師の方だから」
「っていずるお前なに言ってんだ!!」
「ほぉ。元不良にはそんな趣向がありましたか」
 遠也の納得したと言いたげな台詞と馬鹿にしたような笑みに正紀は愕然とする。
「天才!!お前も納得すんな!!日向、お前も吃驚したような顔すんな!!」
 その頃、ぎゃあぎゃあ騒ぐ友人達の声が遠くへ行くのを聞きながら克己が賑やかな奴らだな、と呆れたため息を吐いていたのも知らずに正紀はひたすらその事に抗議をし、そんな彼をいずると遠也が二人でからかい続けていた。
 そんな風に騒いでいたのが悪かったのか。
「君達、元気ありあまってるみたいだからコレ運んでおいてよ」
 図書室の管理人は気の所為か額に青筋を浮かべながら、古い百科事典を廃棄場所まで運べと言ってきた。ここは6階で、ゴミ捨て場は地下一階。そしてその量は、というと。
「全186巻って、何の百科事典だよ」
 思わず呟いていた正紀達の目の前には、ボロボロになっている分厚い辞典は山積みされていた。さっきまで思いっきり騒いだ所為か、残っている体力も少ないというのに。
 茫然とそれを見上げていたメンバーの中で一番冷静だったのは流石というか遠也で、その眼鏡を指で上げながら「さっさと運びましょう。見上げてるだけじゃ終わりませんよ」とほこりまみれの辞典を数冊腕に抱え始める。
 仕方無しに作業に取り掛かることになった。
 克己に早く終わると言ってしまったけれど、これじゃあいつ終わるか解からない。
「日向、疲れた?」
 3往復目に入った時、辞典を抱えながらため息を吐くといずるが声をかけてきた。腕の長さの差か、彼が持つ本の量は自分より一冊多い。
「や。大丈夫」
「それなら良いけど、階段気をつけて」
 いずるの気遣いに頷いたが、顔の高さまであった本に隠れてそれが彼に伝わったかどうかは解からない。
 ちらりと隣りを歩くいずるの横顔を盗み見る。彼と二人という状況は初めてかもしれない。
 矢吹いずるは、隣りの部屋に住む正紀のルームメイトで、幼馴染でもあると聞いていた。彼は名家である矢吹家の長男で、いずれはその家を継ぐ人物だと噂で聞いた。そんな彼が何故北側にいるのか。遠也もだが、身分がある人の考える事は良く解からない。
 遠也とは付き合いが長いし、彼の家は名家というわけではないからあまり意識をしたことはないが、いずるの立ち振る舞いはどこか洗練されている何かがあった。気品というか、高貴な空気をどことなく纏った彼はやはり女子には人気があった。弓道なんてものもやっていて実力もあるから尚更だ。ついたあだ名は色々あるようだが、翔の耳にまで届いたのは「屋島の君」。はるか昔、弓の名手那須与一が活躍した屋島の戦いから取ったらしい。よくもまぁそんなのを考えるなぁと感心してしまった。
 一見物腰穏やかで洗練された独特な空気を持ついずるは、やはりクラスでも一目置かれる存在だった。確かに、克己や正紀とは違った格好良さがあるな、と横顔を見て思う。
「何?日向」
 さっきからちらちら見ていたのに気付いたのか、いずるが苦笑しながら言ってきた。しまった、と思ったが慌てて首を横に振ると本の黴臭さが鼻に触れた。
「いや、何でもない」
「もしかして、俺に見とれてた?まいったなぁ」
「え、あ……いや、そんなつもりじゃっ」
 慌てて謝ろうとしたら、くすりと笑う声が届く。
「駄目だよ日向、それじゃバレバレ」
 嘘が吐けない性分なんだね、と笑われてようやくカマをかけられたと知る。いずるは厄介な相手だということを忘れていた。さっきまで思いっきり正紀をからかっているところを近いところで見ていたのに。
「矢吹は意地が悪いな……」
「ごめんごめん。日向が正直な反応するから、つい」
 穏やかに謝られると怒る気も失ってしまう。得な性分だ。
「顔は優しそうなのに、矢吹は中身とのギャップが激しいんだな」
「そう?でもそれ言ったら日向もじゃないか?日向は、顔は可愛いのに中身は結構男前」
「……だから、だろ」
 顔の事を他人に言われるたびに、誰よりも男らしく振舞ってやろうと決意しているのだ。一人称が「僕」で何かあったらすぐに眼を潤ませる、なんてイメージを初めは持たれるらしいが、それを粉々に砕いてやるのはいっそ爽快だった。この顔のおかげで小学校の頃どれくらいからかわれたか、この学校で出会った友人達は知らない。ついでに、その度に翔が喧嘩をして相手を叩きのめしてきていた事も知らない。
 む、と少し表情を堅くした翔に何を思ったかいずるはにこりと笑った。
「うん、でも良いんじゃない。日向はそれで。下手な男より格好良いよ」
「へ……。矢吹それ本気?」
「本気本気。日向は良い男だと思うよ」
 そんな事をいずるに言われるとは思わなかった。何だか顔が熱くなり、黴臭い本に鼻を埋めていた。ちょっと、というか、かなり嬉しくて、心がくすぐったい。
「……矢吹も良い男だよ。かっこいー」
「そう?ありがとう」
 言われ慣れているのか、いずるはあっさりと礼を言う。その余裕振りが悔しい。くっそ、俺ももっと良い男になってやる、と心の中で悔し紛れに呟いた。でも
「ありがと、矢吹」
「ん?」
「俺、ちょっと自信持った。嬉しい」
 笑いながらやっぱり努力というのは必要だよな、と納得して階段を下りていると、隣りにあったいずるの気配が消えた。
「矢吹?」
 振り返ると踊り場にいずるが突っ立っていたが、すぐに早足で階段を駆け下りてくる。
「どうしたんだ」
「いや……俺、ちょっと甲賀の気持ち解かったような気がする」
「克己の気持ち?どんな?」
「……まーうん、気にしないで」
 歯切れの悪い返事しかしないいずるはこれ以上の問いを受け付けないというように先に階段を下りていってしまう。
 何なんだ?
 怪訝に思いながらもその背を追おうとした時だった。
「翔」
 階段の上から聞き覚えるある声がして、視線をやると克己が居た。
「あ、克己……ごめん、早めに終わらせるから」
 彼は用事を終わらせたのだろう。慌てて階段を下りようと足元を確認しなかったのが悪かった。踏み出した先にあると思った床が無い。
「げっ」
「おい!」
 本の重さにつられて前のめりに倒れそうになったところを、克己の腕に助けられた。どさどさどさ、と本だけが落ちる音が廊下に響く。
「大丈夫か」
 衝撃を覚悟して閉じた眼を開けると、ほっとした克己の顔がすぐ横にあり驚いたが、身体の力が抜ける。
「だいじょーぶ……」
「お前はもう少し落ち着きを覚えろ」
「ごめん……」
「……別に、良いけど、こっちの心配は?」
 下から怒りを堪えるような声がして、その時ようやく翔は下の惨状に気付いた。
 翔が落とした本を背に受け、転ぶ羽目になったいずると、そのいずるが落とした本の下敷きになっている見知らぬ人がいる。
 さっと背筋に冷たいものが走った。
「ごめん、矢吹ごめん!」
「いいけどな、別に。大して痛くなかったし」
 百科事典が直撃したらしい後頭部を撫でながら、いずるはため息を吐く。一番苛立つのは必死に謝る翔ではなく、それをそ知らぬ振りで見ている克己だ。彼なら本をぶちまけずに治まる方法を選べたはずなのに、翔だけに手を貸した。そのおかげで、他人を巻き込んで大惨事だ。ちらりと克己の方を見ればそ知らぬ顔。その顔、いつか絶対殴ってやるとこの時いずるは誓った。
 そして、もう一人この茶番に巻き込まれた人物が、静かな目で自分達を見ていたのに気付いたのはこの時だった。
「お前ら、どういうつもりだ?」
 あ、と翔が声を上げたそこには、30代後半くらいの男が怒りのオーラを漂わせながら立っていた。生徒ではない。と、いうことは
「川辺教官」
 克己が彼の名を言い、どことなく面倒臭げに敬礼をする。それに慌てて翔といずるも倣った。
 みおぼえのある彼は武道の授業で柔道を担当している教官だ。今は、ナイフの教官が出張中なので、ナイフの授業も担当している。
 やっばい、どうしよう。
「申し訳ありません!」
 教官相手に失態をおかしてしまったことに青ざめて、翔は慌てて頭を下げた。いずるも無言で頭を下げ、その懸命な様子に川辺はため息を吐いた。
「まぁ、良い。二度目は無いぞ」
 思ったよりあっさりと許され、それどころか彼が受け止めた辞典を近くのいずるに渡していた。思いがけない上官の行動にいずるも眼を見開いて驚いたが、相手もいずるの顔を確認してどこか驚いたような表情を見せた。
「何か?」
「いや、別に……と、そこの、名前は?」
 川辺はどこか誤魔化すように階段から駆け下りてくる翔に声をかけた。まだ彼の授業は1,2回しか受けていない。名前と顔を覚えられていないのだろう。
「日向です。1−Eの日向翔です。教官からは柔道と、今週からはナイフを」
「あぁ……そうか。もし、本気で謝る気があるのなら、今夜俺の部屋に」
 翔がきょとんとした顔になる前に川辺は言葉を止め、彼の後ろに控えていた克己に視線をやった。ただ静かな目でこちらを見ている克己に何を思ったのか、川辺は薄く笑い、肩を竦めた。
「まぁ、良い。授業はきちんと受けろ」
「あ、はい。すみませんでした」
 川辺はあっさりと去って行き、翔は緊張していた心臓を押さえて肩の力を抜く。
「よかったぁ……あっさり行ってくれて」
「あんまり良くないだろ。良いのか、甲賀あんな態度とって。お前絶対目ぇつけられたぞ」
 呆れたいずるの声に、克己は何も答えない。翔は何の事か解かっていない様子だ。
「何、克己なんかしたのか?」
「……あの川辺には気に入った人間は女でも男でも自分の城に連れ込んで喰うという噂がある」
「あ?そうなのか?」
 へぇ、と他人事のように翔は聞き流して散らばった辞典を拾い集め始めた。何もわかっていない彼にいずるは苦笑し、克己は呆れたようにため息を吐くだけ。
「俺は先に行くから、どうせ暇なんだろ、甲賀。手伝え」
 いずるはさっさと自分の分を腕に抱え階段を下りていく。ちゃっかりと一冊克己の手に預けていく辺りがいずるらしい。
「ごめん、克己」
 分厚い辞典を4冊も抱えた翔の腕から克己は無言で3冊持っていく。
「あ、良いってそんなに」
「お前は転ぶ」
「転ばないって、もう」
 一冊だけ手の中に残った辞典の埃を落としながら再び階段を下りる。今度は克己と一緒に。
「おい、翔」
「何?」
「まさか、と思うが、お前……」
 克己が何かを言いかけた時、誰かに腕を引かれ無理やり後ろを振り向かされた。
 川辺が追いかけてきたのかと思い、体が緊張するのが分かったが
「橘!?」
 3年生の青い校章をつけた青年だった。
 克己と同じくらいの身長で、眼鏡をつけた見覚えの無い相手。エンブレムが北を示していることには多少なりとも安心したけれど。
「誰……ですか?」
 翔が眉を顰めると相手はどこか絶望的な表情になる。
「橘?なんで…俺の事忘れたのか?」
あんたなんか知らねーっての、離せよッ!
 と言ってやりたいところだったが、相手は先輩。つまりは上官だ。そんな相手にそんな口をきけるわけがなく、ぐっと何かを堪えた。
「あの、すみません……離してください」
 腕を振ってやるが、相手の手には力が入るばかり。
 嫌がる翔の様子に男は叫ぶ。
「俺の事、好きだって言ってくれたじゃないか!」
「はぁ!?」
 身に覚えの無いことに翔は唖然とした。
「俺は、嬉しかったのに、何で今更」
 怒りでさらに腕を掴んでいる手に力が込められる。
 先ほどの川辺といい、何でこんなに誰かから喧嘩を売られているのだろう。
「離せ」
 翔が苦痛で顔を歪めた時、克己が男の腕を掴んだ。
 彼の存在を男は初めて気がついたらしく、すぐに翔から手を離すがそれはそのまま克己の首元へと伸ばされた。
「お前か!?橘に言い寄っているのは!」
「……何の話だ」
「とぼけるな!二度とコイツに近寄るな!」
 男が克己を殴ろうと腕を上げるのに、翔は慌ててそれを止める。
 腕を掴まれた男は驚いたように振り返った。
「橘?何でコイツを庇う!」
「当たり前だろ!訳わかんねぇ言い掛かりつけやがって!克己に何かしたらぶっ飛ばす!」
 我慢の限界だ。見に覚えのないことを言い、ついでに大切な友人である克己を殴ろうとするなんて先輩でも許せるわけが無い。
「……俺も愛されたもんだな」
 冗談半分の克己の言葉に男があっさりキレた。
「俺だってお前が好きなんだ!」
 克己から手を離し、がばりと翔の細い体を抱きしめる。
 そして次の瞬間息苦しさを感じた。
 何が起こったのかわからず、視線を漂わせると克己が驚きに眼を大きくしている。
 ようやく口元に感じた生温かい感触に思考が停止する。これは、まさか。
「う、やめっ!」
 離れようともがいた身体をぎぅと抱きしめられて、すぐに男が離れた。
「……アレ?胸、無い……」
 違和感に気がついたらしく、翔の胸にぺたぺた手を置いて、彼の顔が青ざめるのをこの目で見た。
 女顔と言われるが、体まで女になったことは一度も無い。
「人違いだ、ボケ――ッ!!」
 自分より大きな相手に思い切り辞典を投げつけ、それが見事に相手の顔にヒットする。流石五中の日向とまで呼ばれたことがあるだけあってかなりいい音がした。
 これなら川辺相手にしても何とかなったのではないかと密かに克己は思った。



Next




top