怖い。
俺は、何をした?
目の前には血まみれの死体。俺が殺した。
俺は、何をした?
カタカタと血にまみれた手が震え始める。
こんなつもりじゃなかった。
こんなはずじゃなかった。
だから言ったのに、と頭の中で誰かが笑う。
俺はただ、前みたいな自分に戻りたかっただけなのに、すでに後戻りは出来ない状況になっていたらしい。
ああ。
段々俺が俺で無くなっていくのが解かる。
誰か。
誰か。
誰でもいいから。
俺を、殺して。
俺を、助けて。
月が嘲笑うかのように血と涙にまみれた死体を照らした。
梅雨は嫌いだ。
湿気があると古傷がずきずき痛む。つまりは全身が痛む。熱っぽくもなるから、最悪な時期だ。
陰気でジメジメしていて、気分が憂鬱になる時期。その所為か夢見も確実に悪くなる。
『姉さん』
暗い闇の中で短めの髪に白いワンピースが目の前でふわりと揺れる。
彼女は白い服を好んで着ていた。彼女に似合う色だった。この異常に暗い世界に呑まれることなく、彼女の姿だけ白く浮かび上がっている。
自分と彼女は、年の離れた姉弟だった。
美人で優しくて強かった彼女。
一番、大切だった人。
気がついたら自分より小さくなっていた彼女の背に、不安を覚える。
細い肩に手を伸ばそうとしたけれど、届かなかった。
自分を振り返りもしないで暗がりへと行こうとする彼女を必死に止めようとした。
そっちにいっちゃだめだ。
けれど彼女は足を止めない。
どうにか体を動かそうとすれば、何かが足に巻きついてそれを阻む。彼女と自分を引き離そうと。
振り返ると、彼女が向かおうとしている闇よりもっと禍々しく深い闇が自分を飲み込もうとしていた。
闇への恐怖に眼を見開いた。
嫌だ。
彼女は穏やかな闇に包まれて消えようとしている。
対して、自分は底なし沼のような闇に飲み込まれようとしていた。
助けて。
体がその闇に溶け込もうとしているのに絶叫した。
俺もそっちに連れて行って。
この闇は、苦しい。
激しい動悸がまだおさまらない。心臓がしつこいほどに自己主張をしている。
跳ね起きて、必死に夢なのだと自分に言い聞かせていた。夢の中は息苦しかったが今は普通に息を吸うことが出来るし、特有の重苦しさがない。
ある程度身体が現実に慣れたところで、顔を上げ窓へとゆるりと視線をやった。
まだ外が暗いところを見ると、深夜と呼んでいい時間帯だろうか。
目覚まし時計に伸ばそうとした手が小刻みに震えているのに気がついて、それを止めようと拳を強く握る。手の平に爪が突き刺さった。
現実の痛みと自分の情けなさに翔は眉を顰めた。
「姉、さん」
出た声は吐息のようにか細く情けないもので。
彼女の優しく笑う顔を思い出そうとしたけれど、無理だった。どうしても、彼女の苦しげな顔と泣き顔しか思い出せない。
その事に奥歯を噛み締め、眉根を痛むくらい寄せてシーツを強く握り締めた。
その時、足に何か巻きついているような違和感に体を凍らせた。夢の中の感覚だと思っていたけれど現実のものだったらしい。
巻きつく、という表現に嫌な予感がした。
思い当たることがあり素早く布団を捲り上げる。どうか勘違いでありますようにと願いながら。
けれど
「シャ――――ッ!!」
暗闇でも分かる、紅い舌がちろちろちろちろ。
嫌な予感的中だ。
ぐらりとめまいのようなものを感じた。
目の前に見覚えのある、一部平べったく伸ばされたところがある蛇が。
何故か口にハイビスカスを咥えて。
「だぁぁぁぁぁぁ!!!」
ただでさえ多いトラウマに蛇も加えられた瞬間だった。
「どうした?」
自分の悲鳴で起きた克己の声と共に電気がつく。
「か、つみぃぃぃ」
涙声で翔は自分の状況を訴えてみた。
足に巻きついて離れないキングコブラとお見合い中。
その異様な場面に寝起きの克己は眉を顰めた。夢だと思ってくれなかっただけでもマシだ。
「……何だ?それ……」
「蛇!」
「それは見て解るが……どうして蛇に夜這いなんてされているんだ?」
それはこっちが聞きたい。
克己はしばらく蛇を見つめ、面倒くさそうに数回頭をがしがし掻いた。
そして平然と蛇の首元をつかみあげる。それに抵抗するように蛇はじたばたもがいていたが、ついでに口から数回毒を吐いていたがそれも難なく交わしている克己が蛇使いのように見えた。
「すげぇ、キングコブラ素手で掴んでいるよ」
素直に感心する翔の言葉に克己は動きを止める。
しかし、右手には力が入ったらしく、蛇の口がぱかりと開いた。
「キング、コブラ……?」
恐る恐る、といった感じでこちらを振り返る克己に頷く。
「猛毒なのに、すげーな、克己」
翔が言い終える前に窓を開けてゴミか何かを捨てるように蛇を外へ投げ捨てた。
因みにここは3階。
「これでよし」
手を数回叩いて克己はまるで自分に言い聞かせるように頷く。まさかと思うが、蛇の種類に彼はあまり詳しくないのだろうか。
その時、窓を叩くような音が聞こえ二人同時に振り返る。蛇がこの高さを登ってきたのか。
鍵をかけていなかったから静かな音をたてて窓は開く。蛇が窓を開けたのか、と背筋が寒くなるが
「君が今落としたのはこのキングコブラのシーサー?それともガラガラ蛇のドンタコス?」
「中村……」
蛇に囲まれ幸せそうな笑顔で登場した人物に翔と克己はがっくりと肩を落とした。
「ごめんな、日向この前は。もう大丈夫なのか?」
窓からコンニチワ状態のまま彼は頭を下げる。今日引き連れてきたのはシーサーとガラガラ蛇のドンタコスのみらしい。毎度ながら不思議なネーミングセンスだ。
何の悪気も無い笑顔を向けられ、何をまず突っ込めばいいのかわからなかった。とりあえず、ネーミングセンスを突っ込むところではないだろうが。
「ところで日向、シーサーが益々君に惚れちゃってね〜〜」
軽い口調で恐ろしい事を言われてしまう。
「何故!?」
翔の引き攣った声と同時、窓のサンに乗っかっているシーサーが体をくねらせる。
それを中村が見咎めた。
「駄目だよ、シーサー、そんなにセクシー攻撃しちゃ」
まるで遊び盛りの娘をたしなめる父親のように。それはそれで微笑ましいのだけれど、如何せん相手は蛇。
その上今の彼女の行動のどこがセクシーなのか理解が出来ない。多分、同族ならセクシーだと思ったのだろうが如何せんこちらは人間。理解しろという方が難しい。
「ああ、そうだ、甲賀、シーサー怒ってたぞ」
思い出したように中村が克己に言う。
それに驚いたのは克己だ。まぁ、殺されかけたのだから怒るのは当然だろう。が
「『嫁入り前なのに触られたわ!汚されたわ!!』って」
「お前帰れ」
容赦なく窓を閉めようとする克己を中村は慌てて止めた。
「まーてって!俺は日向に用があるんだよ!」
「え?何?」
単にシーサーを引き取りに来ただけだと思っていた翔は素直に用件を聞く体制になる。
それにほっとする中村とむっとする克己。
克己は窓を閉めるのを中断したものの、いつでも空間を遮断出来るよう手はかけたままだ。
「日向さ、ヨシワラ知ってるか?」
安堵した中村が話を始めたが彼の言った言葉に克己は素晴らしいスピードで窓を閉めて鍵もかけてカーテンを引いた。
「克己?」
驚く翔を振り返り彼は首を横に振る。
「早く寝ろ、ただでさえお前さっきまでうなされてただろうが」
「あ……うるさかった?」
もしかしたら叫んだりしていたのかもしれない。
心底すまなそうに肩を落とす翔に克己は首を横に振る。
「いや、そうじゃない。寝た気がしないだろ?」
よしよしと頭を撫でられて翔は顔を上げる。
どうやら彼は自分の心配をしてくれたらしい。
「克己……」
「早く寝ろ」
電気を消しに行ってしまい、離れてしまった手に名残惜しいものを何となく感じるけれど次寝たら何となく安眠できるような気がした。
けれど、中村は何を言おうとしたんだろうか。
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