一体、何が起きたというんだろう。
 突然、目の前が真っ暗になり、何が何だか解からない。
「リーダー!日向翔、捕獲しました」
「ご苦労!」
 暗闇の中でそんな声が聞こえてようやく自分の置かれた状況を把握できた。どうやら、自分は何者かに捕まったらしい。
 しかし、何故だ。
 そんな事をされる心当たりが全く無く、翔は首を傾げるしかない。手は前に縛られているので、目を覆う目隠しを取ろうと躍起になったが、取れない。
「あー、無理無理。それ自分じゃ取れねーよ。最新式の目隠しだから」
 翔の無駄な足掻きに誰かがそう釘を刺す。聞き覚えの無い声だった。
「お前ら、誰だ!俺に何の用だ!」
 人の気配はするが、何人分かはよく解からない。恐らく、3人から5人くらいだろう。真っ暗な闇の中、自分が目を開けているのか開けていないのかも良く解からないままに翔は叫んでいた。
「お前は囮だ」
 すると、律儀に返事が返ってきた。囮、という言葉に一気に緊張する。
「……囮?何の為の」
「甲賀克己」
「克己!?」
「の、ホワイトデープレゼントを奪取するためのだ」
「は?」
 一瞬克己の名を出されてひやりとしたが、その後に続けられた言葉に翔は首を傾げる。
 彼らのやっかみ混じりの話をまとめると、E組のホワイトデープレゼントはほぼ奪取出来たが、甲賀克己だけは相手の手に渡ってしまった。だから、どうにかしてそのプレゼントを贈り主から奪わないといけない。しかし、あの甲賀克己、一筋縄でいかないだろう、ということで翔を人質にとった……ということらしい。
「ちょ、待て!そんな事許さないからな……!」
 自分が人質になり、そのプレゼントを渡せと要求されたら、あの山川にまたどんな嫌味を言われるかわかったものではない。思わず一歩踏み出したところで、足元が突然消失した。勿論、そこに全体重をかけていた翔はそこに落ちてしまう。
 ばしゃーん、と大きな水音を立てて落とし穴に落ちた人質に、B組の生徒達は「あららー」と小さな声を上げる。翔にはそんな声は聞こえなかったが、何だか水とは違う粘っこさがある液体に咳き込んだ。
「な、なんだ……っこれっ!」
 口の中が妙に甘ったるくなり、それどころか自分を取り囲む空気も甘い。過剰な甘味に包まれ、眩暈さえ感じる。胸焼けがしそうだ。目隠しをされ、聴覚と嗅覚が過敏になっているから、尚更この攻撃は辛い。
 どこからか漂うバニラの香りに、まさかとは思うが
「……な、生クリーム……?」
「あー、言い忘れてたけど、君の周りにはそういう罠が大量に仕掛けられてるから。下手に動くと危ないぞ」
 頭上から降ってきた声にはただ唖然とするしかない。しかし、この軽装備には納得した。普通、人質を取った時は手を前縛りにしたり、自由に動けたりはしない。目隠しをして、動きが不自由ながらも逃げようとオロオロする自分を見て彼らは楽しむつもりなのだ。いわば、目的達成前の余興だ。
「何で生クリームなんだ……」
 普通、水だろう、こういう場合。
 思わずぼやけば、「ホワイトデーだから」という返事がとこからともなく飛んで来た。さも当然のように言ってくれるが、その理由も訳が解からない。
 敵の手を借りて地上に上げられた翔は、密かに胸元にあるナイフを探る。自分も一応は軍人の端くれだ。こんな状況の突破の仕方くらいは習っている。
 が、やはり視覚を封じられているというのは不利だった。敵にはその翔の意図をあっさりと読まれ、ナイフを取り出そうとした手を掴み上げられてしまう。
「うわ……っ!」
 突然左から伸びてきた手に、翔は小さな声を上げていた。目が見えないと相手の攻撃が予測出来ず、いちいち驚かされる。
「そこにナイフを隠しているのは承知済みだ。おい、お前らコイツの体を調べろ。何を隠しているか、わかったもんじゃねーからな」
「了解!」
 威勢の良い声がいくつか聞こえたと思ってすぐに、自分に向かっていくつもの手が伸ばされた。
「って……!うわぁぁぁ!ちょ、下は止めろ!」
 その手は確実に武器を隠せる個所を狙い伸びてくる。シャツを剥がし、胸、腰、脇。ズボンを脱がせて太腿、踝、そして靴の中まで。
「武器はこんなもんか」
 元々それほど持ち歩いていなかった翔の所有武器など3つくらいしかなかった。ナイフと、小さな隠しナイフ。それと弾の入っていない短銃だ。
 それら全てが奪われた事と、服を剥がされた恥辱に翔はもう動く気力も無かった。
「せめてズボンは返せよ……」
「駄目だ。君も授業習っているんだろう?ある程度地位のある敵を捕らえたときの基本は?」
「……逃げる気力と人としての尊厳を奪う為、衣服を没収する」
「よく出来ました」
 教官以外に褒められても何の得にもならないのだが。
「よし、最後のミッションだぅああああああっ!!」
 その時、誰か新しい人物がこの場に登場したらしい。扉が開く音が聞こえ、その重い扉が開くような、普通の引き戸とは違う音に、どうやらここはどこかの倉庫であることを察した。
「ちょ、なんつーカッコさせてんだ……!」
 その批難、というよりもどこか興奮した声に周りの仲間はきょとんとした態度で「だって身体検査してたから」と答えていた。
 しかし、その人物の様子より翔は今の自分の姿の方が気になる。眼が見えない所為で、どんな状況なのか解からないのが怖い。
「……お前鼻血出てるぞ」
 鍋嶋の突っ込みに佐古は慌てて自分の鼻を拭い、マスクを引き上げた。普段は滅多にこんな失態は見せないのだが、目の前の状況があまりにも目の毒過ぎた。
 身体検査で衣服を脱がされ、半裸になっている体のあちこちに白いクリームがこびりついている。中途半端に着せられたシャツが際どいところを隠していて、それでいて惜しげもなく晒されている細い足や胸は特に男色の趣向もないものもくらりときそうだ。軍という、女っ気の無いところでは尚更。
「ミッション中だから興奮するなよ」
 鍋嶋の冷たい一言に、佐古は目を見開いた。
「馬鹿か!誰が男なんかに……!」
「……別に良いけどな。おい、誰かこの写真とって甲賀克己に送りつけろ。きっと飛んでくるぞ」
 そんな指示に、誰かがカメラのシャッターを切る音が翔の耳にも届いた。
「上出来。怒りは冷静さを失わせる。判断力が鈍ったところで、俺達の罠を掻い潜るのはまず無理だ」
「罠……?もしかして、お前らB組の連中か?」
 鍋嶋の一言を拾い、翔が思い出したのは昨日一戦を交えた相手だった。罠は彼らの得意分野だ。姿を見せないと聞く彼らの行動は翔にも予測が出来ない。
 しかし、その翔の察しの良い言葉に鍋嶋は小さく笑う。
「察しが良いってのも、困りもんだな?」
 かつかつと靴音を立てて自分に近寄ってきた彼に、思わず身を揺らした。何をしに来たのかわからないからだ。叩かれるか、それとも刺されるか。それぞれの痛みを想像し、翔は身を竦める。そんな成す術のない哀れな人質に、鍋嶋は手を伸ばし、その顎を掴みあげた。
「俺達は任務遂行の為には手段は選ばない。安心しろ。流石に命をとるようなことはしない。一応、同じ軍の仲間だからな。だが下手に逃げようとしてみろ」
「いっ、て……!」
 突然左胸に痛みを感じ、びくりと自分の足が痙攣するのがわかる。感じたのは痛みと、人の体温だった。すぐに熱い温度にそこが包まれ、離れる。舐められたと解かったのは少し時間が経ってからだ。
「拷問も俺達の得意分野だ。体の中に鋲入り氷を突っ込まれたくなければ、大人しくしてるんだな」
 鍋嶋からすれば、こんな言葉を言われて竦みあがらない仲間はいなかった。しかし、翔は言われている意味が解からず、首を傾げる。
「……鋲入り氷?」
「しらねーのか?お前のクラスはまだ拷問やってねーのか。仕方ないな、説明してやるよ。鋲とか釘とか、そういうのを氷の中に入れてな、その氷を尻ん中に突っ込むんだよ。氷は体温で段々解けて……その後はどうなるかわかるな?」
 想像してしまい、思わず悲鳴を上げそうになった。
「えげつない……!えげつないぞ……!」
「軍隊だもの、えげつないのは基本だろ」
「そうかも知れないけど……!」
「ってなわけで、大人しくしていろよ。下手に動かなければ罠にもはまらない」
 そう言って彼は去り、部屋から人の気配が消えた。
 見張りもないから、逃げ出すには絶好の状況だろう。だが、どうしても体が動かなかった。
 やばい、怖い。
 B組の噂は真実だ。音もなく忍び寄り、狙った獲物は逃さない。性格もねちっこいと聞いていたが、昨日の敗北のお礼参りを今しているのだとしたら、その噂も真実だ。
 それに、さっきは落ちた先に待ち構えていたのが生クリームだったから良かったものの、もしそこに尖った槍やら何やらが待ち構えていたら、死んでいた。彼らが本気を出せば自分の命など……克己の命など容易いものかもしれない。
「それは、駄目だ!」
 罠にかかり、敵の手に落ちた友人の姿が脳裡をよぎり、思わず声を上げていた。自分の所為で彼が不利になることなど、あってはならないことだ。
 素足に力を入れ、誰かに見られたら不恰好この上ないが、四つんばいになりそろそろと前へと手を伸ばした。さっき、あの男が自分に向かってきたルートはこっちからだった、と聴覚を頼りに前へと踏み出した。
 真っ暗な視界、思い出すのは自分の義理の父のことだ。彼は戦争で両目の光を失い、毎日こんな状況だったのかと思うと胸が痛む。前に何が待っているかわからず、不安だけ抱えて足を踏み出すこの恐怖。
 一歩一歩が恐ろしい。それでも、ここを突破しないと友人が危うい。ここを出て、彼には一言言わないといけないのだ、「おめでとう!」と。
 でも、何で山川さんなんだ。
 はぁ、とため息を吐いた時、あの重い扉が開く音がし、一気に背筋に緊張が走った。どれくらい前へ進められていたか解からないが、今の自分は間違いなく逃走を試みた姿だ。
 戦うしかない。
 そう瞬時に判断し、立ち上がると前の気配が自分に向かって動いた。
「そこを、どけ!」
 気配に向かって縛られた手を突き出しても、空に受け止められるだけだ。どうやら避けられたらしい。だが、その動きは捕捉することは出来、今度は蹴りを入れたが、それは腕か何かでガードされた。
 相手もなかなか一筋縄ではいかないくらい体術に長けているらしい。だが、幸運な事に見張りに来たのは一人だけのようだ。彼を負かせば、脱出出来る。
 落ち着いて、気配を追え。
 自分にそう言い聞かせて、相手の気配を探るのに神経を集中させた。敵が間合いに踏み込んできた、その瞬間を狙う。
「そこ、か……っ!」
 しかし、蹴りを入れる為に力を入れた軸足を置いていた地面が崩れるのを感じ、声が揺れた。罠の存在をその時思い出す。
 唇を噛んで体勢を整えようとしても、片足はすでに宙に浮いた後で、全身が横に傾いていた。
 落ちる。
 衝撃に耐えようと身を竦めたその時、腕を対峙していた相手に引かれたのが解かった。思わぬ力に声を上げる暇もなく、相手に引き寄せられ、その反動で地面の上に二人で転がった。
「くそっ」
 硬い地面に叩きつけた背の痛みと、自分の上にある重みに翔は小さく舌打ちをする。こんな体勢ではもう逃げる事は難しい。だが、諦めるわけにもいかない。
「離せ!どけっ!」
 めちゃくちゃに暴れるが、それは人の体を熟知しているらしい相手に押さえつけられ、無駄な抵抗となっていた。相手の技量に感心する反面、絶望に真っ暗な目の奥が熱くなった。
「ぃやだ……!誰か……!」
 駄目元で叫んでみるが、それは広い倉庫の中を反響するだけで、全く意味をなさない。
「だれか……克己……ごめんなさ」
 もしかしたら今頃迷惑をかけてしまっている友人に情けない声で謝っても、届くはずは無いのだ。何も出来ない自分が悔しすぎて、思わず鼻をすすり上げると不意に目の前の相手に抱き締められた。
 抱き締められた、といってもこの行動には何か裏があるに違いない。体を拘束しなおすとか、関節を外すとか……などと嫌な予感が過ぎり、口元が引き攣る。が、暴れようとした体はさらに強く抱きこまれ
「――け、る」
 か、の部分は息にしかなっていなかったが、擦れたその声には確かに聞き覚えがあった。
「……克己?」
 戸惑いながらその名を言うと大人しくなった翔の目隠しがごそごそと弄られ、それを黙って待った。ぽろりと目を覆っていた厚い布が落ちる。久々の光に一瞬目が眩み、僅かに痛みを感じたが、その目を撫でる手はもう目を開けなくても誰のものか解かった。
「……克己」
 目の前には、友人の苦笑顔があった。安心しろと言うように頭を撫でられ、ようやく緊張から解き放たれた。でも
「ごめんな、克己……迷惑かけて」
 折角山川とホワイトデーを過ごす予定だったろうに、その予定を潰させてしまった。それにしょんぼりと眉を下げると、克己の方は何を謝られているのかわからないと言いたげな顔だった。全く、どこまでもお人好しだ。
「それと、ちょっと驚いたけど、俺、克己と山川さんのこと、応援するからな」
 拳を握りながらそういえば、克己の目が見開かれる。その意図は解からないが、彼が驚いていることは間違いないだろう。そんな彼に、にやりと笑って見せた。
「声治ったら色々聞かせろよ?馴れ初めとか告白話とかさ」
「あー、流石にそれは訂正させてもらえるか、日向くん」
 と、その時扉の方から顔を出したのはその山川だった。彼もこの救出劇に加勢してくれたようで、何人か殴り飛ばした手が仄かに赤くなっている。だが、それくらいのダメージは慣れているのか、顔は笑顔だった。
「何か、誤解させるのも面白いかと思ったけど、やっぱ俺が関わっちゃうと俺が迷惑だから。俺、別に甲賀の事好きじゃねーし。甲賀はどうか知らないけど……ってイッテェ!」
 余計な一言を付け足した山川の後頭部を克己が叩き、良い音が響いた。
「ハイハイ甲賀も俺の事なんて好きじゃありませんよっと。安心しろよ、甲賀が一番大事にしてるのは君だから」
「……でも、あのプレゼント、は」
「ああ……アレは……」
 そこを指摘され、山川は少し戸惑いの表情を見せ、克己を振り返る。克己はさっさと喋れと言うように顎を軽く上げたが、それに山川は初めて悔しげな表情を見せた。しかし、どことなく恥かしげでもある。
「……俺が、バレンタインの時にこいつの弟にチョコレート送りつけたから、そのお返しだ」
 軍では郵送を許可しているのは血縁者の名前のみだけだ。だから、克己を橋渡しにして山川は彼の弟に先月チョコレートを贈ったらしい。その事実に、翔は目を大きくする。
「……え、それってもしかして山川さ」
「違うぞ、誤解するな。別にあんな可愛げのないガキに惚れてるとかそんなんじゃないからな。俺はただ、一人見知らぬ土地で暮らしているあいつを励ます意味で……って何だよ甲賀その顔!!」
 翔も話には聞いた事がある。克己の弟が、同盟国へ留学中だと。山川もその弟と知り合いだというのは良く解かったが、そんな山川を克己は嘲笑い、そんな克己に山川は食ってかかる。
 そんな様子に何故かホッとしていた。
「くっそ、2人程逃したな……」
「プレゼント、全部奪還したぞー!!」
 遠くからクラスメイトのそんな勝ち鬨も聞こえてきて、いよいよ本格的に安堵した。どうやら、昨日の授業に引き続き、自分達のクラスが勝利したらしい。
 ベタベタする体の上に制服を着込んだが、やはりさっさと部屋に帰ってシャワーを浴びたい。
「うはー、俺帰るけど、克己はどうする?」
 全身からバニラの匂いがする。甘い香りに眉間を寄せながら友人に問うと、彼も一緒に帰ると言うように頷いた。
 前を歩く翔についていこうとした克己の肩を、山川が掴み、そして
「声治ったら聞かせろよ?馴れ初めとか告白話とかな」
 悪戯っぽく片目を閉じるその仕草に、克己は友人の額を軽く叩くくらいしか出来なかった。



「うぉー!さっぱりした……。って、克己何見てるんだ?」
 シャワーから戻り、ペットボトルのスポーツ飲料を口にしていると、向かいのベッドに座っている克己がなにやら無言で一枚の写真を眺めている。聞けば、彼はあっさりとその写真を翔のほうへとくるりと回し、観せる。瞬間、翔は思いっきり咳き込んだ。
「な、これ……!」
 そこには、服を乱され拘束されている一人の少年が映されていた。その体のあちこちには白いものが付いていて、男の欲望のはけ口にされたかのような姿だ。自分の目の見えない間はこんな姿だったのかと、翔は開いた口が塞がらない。むしろ、眼が見えなくて良かったような気さえする。
「捨てる!」
 羞恥からその写真を奪い取ろうとしたが、あっさりと克己はそれを交わし、首を横に振る。まるで渡さないといっているような……いや、言っているんだろうが。
「克己……!」
 じろっと睨みあげても、彼はそ知らぬ顔だ。その態度に翔は小さく呻き、声の出ないルームメイトに全身で飛び掛った。
 流石の克己もその攻撃を予測出来なかったらしく、あっさりとベッドに押し倒される。
「返せっ!」
 彼の手にあるその写真を追ったが、なかなかそれを手に掴む事は難しかった。翔の動きを完璧に読んでいる彼はあっさりと避けている。
「克己!おま……んっ」
 克己の写真を持っている手だけを負っていた翔は、もう片方の手の攻撃を考えていなかった。後頭部を掴まれ、突然引き寄せられれば警戒していなかった体は前のめりに倒れていく。そこで待っていたのは誤魔化しのキス、なんだろうか。
「おま、誤魔化すなって……!」
 服の下に滑り込んできた両手に、ベッドを見たがどこにもあの写真は無い。壁とベッドの隙間から、写真を下に落としたのだろうとその消失トリックを見破り、平然としている彼を睨み付けた。
「克己!あ、やめ……っ」
 快感に慣らされつつある肌は少しでも彼に触れられると全身から力を失う。自分の上でくったりとした翔の頭を撫で、そっと身を起こし体勢を入れ替えた。背にベッドの柔らかさを感じた翔はそっと目を開ける。
 なんだ、始まるのか。
 嫌では無いが、自分の頬を撫でようとしたその手を掴み、止める。
「……後で、あの写真捨てるって約束しろ」
 それを了承しなければ、この手は振り払うつもりだったが、そんな事が出来るわけがないことも解かっている。
「別に、いーだろ……あんな写真、必要ねぇじゃん。俺は、ここにいるし、それに」
 そろりと頭のすぐ近くにあった克己の肩口に額を擦り付ける。すると、あのバニラの甘ったるい匂いとは違う、慣れた克己の香りがした。
「それに……俺、お前以外の所為であんな風にされたの、すげぇ嫌だな」


「くっそ、E組の奴らもなかなかやるな……!」
 鍋嶋は佐古と共にE組の強襲から逃げ切り、隠れ場所として選んだ木の上で息を切らしていた。そんな友人の隣りで佐古はいそいそとなにやら機械を取り出す。
「……佐古、何してんだ?」
「こんな事もあろうかと、日向と甲賀の部屋に盗聴器を仕掛けておいた」
「本格的にストーカーだな、と言いたいところだが良くやった!監視して再起決戦を狙うぞ!」
 基本的に負けず嫌いの鍋嶋は佐古の案に乗り、機械に接続されていたヘッドフォンを掴み、耳に当てる。佐古ももう1つのヘッドフォンを耳に装着し、機械のスイッチを入れた。次の瞬間、二人の耳を貫いたのは妙に甘い擦れた声だった。
『あ……っ!そんなの無理、無理……!入んないって!うぁぁあっう……だいじょぶ、気持ち、いー……うん……平気だっ……から……克己、動いひゃあ!』
「うぎゃーっ!!」
「っておい、佐古っ!!」
 突然猫のような奇声を上げて佐古は自分の前にあった盗聴機器を木の下に投げ捨てていた。勿論、精密機械は盛大な音を立てて壊れた。あちこちに部品が飛び散ってしまったその無残な様子に、鍋嶋は愕然とする。
「どーすんだよ!あの機械学校からの借りもんだぞ!?弁償しなくちゃいけねぇだろうが!っつーか、E組への復讐は!?再起決戦は!?」
「しるかーっ!!もうどうでもいいわ、そんなことーっ!!」
 木の上で体育座りをし、えぐえぐと泣き声さえも漏らすそのクラスメイトの姿に、鍋嶋は何も言えなかった。1つ言えるとしたら
「……確かに甲賀相手じゃ太刀打ちできないよな」
「ち、違う!!べ、別にちょっと可愛いと思っただけで惚れてたわけじゃねーんだ!!惚れてた、わけじゃ……っくぅ……」
 ホワイトデーに決戦を挑んだは良いものの、盛大にやり返されてしまった。嗚咽をかみ締め、暗いオーラを背負った友人と共に、鍋嶋は完全敗北を認めるしかなかった。





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