……熱い。
翔は身を低くして自分を取り囲む熱に耐えた。周りにいたクラスメイト達も自分と同じように身を低くし、頭上を覆う黒煙から身を守る。しかし、それでは矢張り不十分で息苦しさには勝てず、黒いマスクの下で咳き込む者も現れ始めた。マスクと言っても、黒い防火布一枚だ。今回の訓練は、最低限の装備でどれ程やっていけるかという面もあり、本当に最低限の装備しかない。火に囲まれているが、消化剤など勿論持っていないし、服も普通の訓練服だ。袖を捲くっていると火に炙られ、痛い。
「体勢を低くして、煙は吸うな!」
グループの誰かのそんな声に皆、殆ど膝をついた状態になっていた。これでは持たない。隣で激しく咳き込む遠也の肩を引き寄せ、自分の口を覆っていた防火布を彼に渡した。
「……日向?」
「遠也は、ここから脱出する方法を考えるんだ。ここの間取り、遠也なら頭に入ってるだろ?」
今回は他クラスとの合同演習だった。1クラスをいくつかのグループに分け、他クラスを敵と見なして戦闘を行う。同じクラスの人間は皆味方なので、勿論救援も出来る。相手の作戦に負けたと思ったら、降伏弾を打ち上げる。そこで勝ったグループが多いクラスの勝利となるのだ。
先ほどの情報だと、翔のクラスは今負けているのだという。ここで、このグループが敗北を認めれば、自クラスは負ける。それは避けたい。
だが、立てこもった家屋に敵は火を放ち、自分達が燻りだされるのを今か今かと待っている状況だ。万事休す、恐らくこの家の出口という出口に彼らは待ち構えているだろう。
しかし、遠也なら良い作戦を立ててくれるはず。
そんな希望を持って自分のマスクを彼に差し出したのだが、それを遠也は拒否した。
「無理です、日向。ここにこのままいたら俺達は全員窒息死します。最善は、降伏弾を打ち上げることです」
「でも、それじゃ負けちまう」
翔が眉を寄せたのには理由があった。今日の合同演習で自分達と対戦しているB組はゲリラ戦を得意としていると聞く。翔の中で噂でしかなかったその情報は今回の演習で真実となった。この時間が始まってから、自分達は一度もB組の連中の姿を見ていない。その代わり、自分達に襲い掛かってきたのはトラップの数々だった。一歩前を歩くのも恐ろしい。そんな状況にクラスメイト達は恐怖に怯え、普段持つ力の半分も出せなかった。
負けるのは良い。だが、一矢報いてやりたい。
そんな翔の悔しげな目に遠也もその気持ちを察したが、この状況はどうしようもない。
「……出口は2つ。出口どころか、窓の前にも待ち構えているはずです。力技で押し切るなら、2名がこの出口に行き、残り全員で反対側の出口から逃げ出す方法もありますが」
「2人は囮ってことか……じゃ、俺囮やる。あー、ペイント弾当たると結構痛いんだよなぁ……」
はぁ、と翔がため息を吐いたところで、遠也がスッと目を細めた。
「後は、救援が来れば」
そんな時だった。外が妙に騒がしくなったのは。どうやら待ちに待った救援が来たらしい。しばらく喧騒が続き、しかしすぐにそれも静かになった。そしてこの部屋に続く廊下を踏み歩く硬質な靴音が響き始める。床に伏せている所為か振動が伝わってきた。
バン、と蹴り開けられた扉に、火の燃え方が激しくなる。酸素が新しく入った所為だろう。しかし、目の前に立っていた人物に翔は肩の力を抜いた。
「おい、生きているか!」
黒い防火布で顔が半分隠れていても解かる。彼が自分のルームメイトであることくらい。
「早くここから出ろ!適当に組み立てられた木造だ、火の回りが激しい。じきに敵の救援も来る、急げ!」
床に崩れていたクラスメイト達がふらふらと身を起こし、彼の誘導に従って外に出て行くのに習い、翔も身を起こした。遠也はダメージが深かったらしく、誰かの手を借りないと前へ進めないほどだったらしい。別グループにいた正紀の手を借りて外に出て行った。自分の防火布を彼にあげて良かったと、その時は思った。
「翔……!お前、マスクは?」
しかし、ノーガードで煙の中を歩いてきた翔に克己は声を上げた。
「遠也に、貸した」
「……使え」
克己は呆れながらも自分の防火布を外し、翔の口元を押さえる。
「行くぞ、翔」
「ああ」
翔は指し伸ばされた手をしっかりと掴み、黒煙と炎の世界に足を踏み入れた。
自分達の勝利は目前だと、そう確信していた。
敵の指揮官を叩けば、全員を拘束しなくとも勝利になる。そんなルールもあり、味方グループが倒されたのを木の影から眺め、敵が炎に包まれつつあった小屋に入っていくのを確認した。
それすらも罠だというのに、恐らく敵の指揮官も気付いていただろう。しかし、随分と情に厚い人物なのか、彼自ら炎の中に入っていった。それに、黒手袋をつけた手が合図をする。仲間はそれを見てすぐに音を立てず、炎の中から出てきた敵に襲い掛かり始めた。相手も、それを予測していたらしく、それなりの抵抗を始める。
それを目の端で確認し、炎の中に入った。ペイント弾を装着した銃を片手に、熱気の中に身を投じる。相手側の総指揮官はまだこの中にいるはずだ。
炎でこの小屋を焼くのは作戦のうちで、防火服を着込んだ青年は気配をうかがいながら炎の中を進んだ。
次第に強くなる火の手に、足を止めたその時、目の前に一人の青年が立ちはだかる。黒い瞳に、黒い髪が紅い炎に照らされていた。
「……甲賀克己か」
今日の敵側の指揮官が誰かは調査済みだった。記憶どおりの顔は不快気に眉を寄せ、顎を引く。その瞬間、空気が弾けた。
克己の顔すれすれを跳んでいった銃弾は彼の背後の柱に赤いインキを飛び散らせる。いや、スレスレを狙ったわけではない。彼が銃弾を避けたのだ。
それに対しての驚きに一瞬隙が生まれ、そこを突いてこない相手ではなかった。ほんの数秒で間合いを詰められ、ナイフが自分の腹部を狙ったのを寸でのところで取り出したナイフで受け止める。金属がぶつかる鈍い音と重い痺れが腕に走った。
「殺す気か……!」
銃弾はペイント弾だが、ナイフは本物の装備を許されている。思わずそんな非難めいた言葉が口から漏れたが、克己はそんな相手の悲鳴に目を細めた。
「お前が言うな」
火責めなど、ナイフよりもっと殺傷力の高い作戦だ。それを克己が遠回しに批難すると、相手はマスクに包まれた顔の中で唯一見える目を細めた。
「俺達は作戦成功の為には手段を選ばない」
見たところ、克己は防火布マスクも何もつけていない、ノーガードだ。この炎と煙の中、何の装備も無いのは死活問題。ここで数分打ち合っているだけで、相手は煙にまかれて気絶する。もしくは、死ぬ。
持久戦に持ち込むつもりで、自分はこんなフル装備で火の中に来たのだ。甲賀克己の噂は耳にしている。そんな相手に、何の算段もなく挑むつもりは全く無かった。
「お前を倒せば、俺の名も上がるってもんだしな」
「……お前、名は?」
「B組の佐古肇だ」
カタカタと揺れ始めたナイフを弾き、克己は再び彼と間合いを取る。そして、手の中でその刃を回しながら軽く笑った。
「ああ、確かにお前は名を上げた方が良い。全く聞き覚えのない名前だ」
「……なんだと!」
「だが、しばらくは無名だな」
ふぅ、と疲れたように克己はため息を吐き、その瞬間彼の警戒が解かれた。敵を目の前にしてなんという態度だ。もしや、馬鹿にされているのかと佐古は銃を握ったが、それは引き金を引く事無く地に落とされた。
「何……!?」
自分のすぐ横にあった扉が火の粉と共に飛び散り、そこからもう一人飛び出し、敵の手の中にある武器を蹴り払ったのだ。
唖然としている間に彼は佐古の腕を取りながら背後に回り、その体をいとも容易く床に叩きつける。
「佐古肇!お前、今回の作戦の総指揮官だな!」
後ろから聞こえてきた声と叩き付けられた痛みに佐古はようやく我に返った。しまった、いつの間にか拘束されてしまっている。それは即ち、自分のクラスの敗退を意味していた。
「離せ……!」
「冗談。ったく、手こずらせやがって……もしもーし、こちら日向。B組の作戦指揮官、佐古肇を確保」
佐古を床に押し付けたまま、翔は無線で味方に報告した。暴れる佐古を容易く拘束している翔もなかなかの技量だ。
「お前、くそ……っ!名前を教えろ!」
自分より体格が小さい相手に拘束されてしまったのは佐古にしては屈辱的だった。マスクをつけて顔もよく見えない相手に負けたなんて更に屈辱だ。せめて名と顔を記憶し、次に先に叩きのめしてやる。そんなつもりでもがけば、相手はあっさりとそのマスクを指で引き下す。
「日向翔だ。俺の名前も、覚えておけよ」
その瞬間、佐古は自分の思考が止まるのがわかった。
思考どころか、暴れるのもその瞬間にピタリと止まったので、その変化に翔も首を傾げる。
「ん?なんだ、どうした」
「……かっ」
ふるふると震え始めた彼の体に、もしかして変なところでも踏みつけていただろうか、と翔は彼の背を踏んでいた足を上げかけた。
「かわいっふぶっ!」
何かを言いかけた佐古の後頭部を克己が踏みつけ、佐古の動きは完全に沈黙した。
「か、克己?」
「気絶させた方が運びやすい」
「あ、ああ……うん、そうだな」
目を回した佐古の体を克己が持ち上げ、燃える炎を後にする。外に出れば、クラスメイト達の歓喜の声に迎えられ、授業は終わった。
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