「ただいま、遠也」
「王子……!」
 窓から苦笑を浮かべて帰ってきた翔の姿に遠也は驚いたように声を上げた。まさか、こんなタイミングで戻ってくるとは思わなかったのだろう。
 マントを脱ぎ、塵を払う翔に遠也はただ不安げな目を向けていた。
「王子、実は……」
「アスラ行きのこと?兄上から聞いた」
 翔のあっさりとした答えに遠也は一瞬目を見開いたが、すぐに「そうですか」と眉を下げた。
 持っていた荷物からあの例の結い紐を取り出し、それを髪に結ぶ。外では目立つからつけられないが、王宮ならば安心して身につけていられる。そんな彼を遠也はただじっと見つめていた。
「……どうすれば、いいのかな?」
 ベッドに座りつつ、遠也に思わず零していた。アスラに行くべきか、行かざるべきか。遠也ならなんと言うだろう、という興味もあった。
 ちらりと目を上げれば、少し困惑した表情の友人がいる。いつも何かしらの提案をしてくれる彼がそんな表情を見せたのは初めてだった。彼の立場から行かなくていいとも言えないし、かといって友人として行けとも言えない。
 遠也は優しい。
「ごめん。遠也……変なこと聞いて」
 さて、兄達がいる大広間へ行かないと。
 服を着替えようと身を起こした、その時だった。
「俺は、貴方を行かせたくありません」
 力強い遠也の言葉に、気を抜いたら泣きそうだった。
「……ありがと」
 歪んだ笑みでそう返すのが精一杯で。
 自分はいい仲間に囲まれていた。それだけでも、この国のために動くには十分すぎる理由だった。
 遠也との出会いは10歳の誕生日だった。神童という噂を聞いていた本人が目の前に立ち、自分に頭を下げた様子を見て翔の方が緊張してしまった。
 同い年とは思えない雰囲気に、この人の上に立つべき人間になれるかどうか不安に思ったものだった。
 こんな風に信頼関係を築けるまでになるとは、あの時は思ってもみなかった。
「翔はいるか」
 その時、部屋に入ってきたのは兄と彼の側女達だった。どこか上機嫌な彼は自分の姿を捉えた瞬間、不快気に眉を寄せたがすぐに何かを諦めたように近くの女性に耳打ちする。
「何ですか、突然」
 いきなりの登場に流石に遠也も声を荒げたが、そんなものはどこ吹く風と兄は気にも止めない。
「アスラの王子がお着きになられたのだ。そんな埃だらけになって……風呂だ風呂!多少時間がかかってもいい。着飾れ。服は用意してある。アスラの王子に気に入られるようにな」
 横柄なその態度に遠也が翔の前に庇い立つ。
「お待ち下さい!翔様はお疲れです!こんな……」
「良い。遠也」
 遠也をたしなめ、翔はため息をついた。
「解かりました、兄上」
 珍しく聞き分けのいい弟に兄は少し怪訝な表情を見せたが、すぐに満足げに笑んだ。それでいい、と言うように。
「その髪の薄汚い紐は付けていくなよ。興ざめだ」
「……当たり前です」
 克己との大切な思い出を身につけていけるほど、神経が図太くは無い。
 さっきつけたばかりだけれど、それを取り枕の下に入れておいた。はらりと落ちた髪は確かに少し埃っぽい。
「さ、翔様こちらへ」
 そんな翔を侍女たちが取り囲み、笑顔で彼を誘導していく。遠也はそれを厳しい眼で見送り、隣りにいる晃へと視線を動かした。
「翔様は我が国の王子。それだけは御理解していただきたいですね」
 静かだが挑戦的なその言葉を晃は鼻で笑う。
「魔力を持たない奴なんて一族の恥さらしだ」
 部屋を出る寸前だった翔の耳に届くくらいわざとらしいまでに大きな声で言った兄の台詞はもちろん本人の耳にも届いていた。
「翔様」
 足を止めた彼に侍女が気遣うように声をかけてくる。それに「大丈夫」と答えて扉を閉めた。
 小さい頃から言われていたことだ。今更そんなこと言われたところで傷つきはしない。
「翔様、あの」
 4人いる侍女の一人が慌てたように声をかけてきた。城に仕えてもう8年目になっていた彼女の顔は翔も見覚えがある。姉より少し年上の彼女はにこりと笑った。
「あまり気にされない方がいいと思いますわ。魔力がなくとも、貴方は私達を守って下さいますもの」
「そうですわ!晃さまの言う事など、気にしないでください」
 周りの侍女も彼女の言葉に頷き、力いっぱい主張してくれた。それに一瞬呆気に取られつつも、翔はじんわりとした暖かさが胸に広がるのを感じた。
「ありがとう」
 他国まで賞賛の声が届く笑顔での返答に侍女達はほっと胸を撫で下ろす。
 そんな彼女達の優しさに、翔も初めて触れて少し戸惑っていた。自分の侍女達ならまだしも、兄の侍女達にこんな言葉をかけてもらったのは初めてだ。
 不意に、甲賀の声が脳裡に蘇る。自分の国を自分の手で守る為にそれだけの努力が出来るお前が、意味のない人間だとは誰も思っていない、というあの言葉が。
 思わず眉間に皺を寄せてしまった翔の様子をどう解釈したのか、侍女が心配気に顔を覗きこんできた。それに何でもない、と答えてこっそりと自分の胸元の服を強く掴んでいた。胸がむず痒いような痛いような不思議な感覚に包まれて、眉間が再び寄る。
 何でだろう。さっきまで一緒にいたのに、もう彼に会いたい。


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