「そいつに触るな」
 厳しいその声に、男の手が止まる。
 彼は走ってきたのだろう、少し荒い息を整えてから、翔の肩に手をやり、自分の方へと引いた。後頭部に彼の肩口があたり、首筋に動いた所為で熱くなった体温が触れた。
 それに、無性に泣きたくなった。
 どうして。
「お前は……」
 誠一郎の驚いたような声に、翔は眉を下げる。この人を巻き込みたくは無いのに。
「甲賀さん」
 彼を呼んだ声は情けないほどに震えていた。
「お前は、確かガーズの……」
 誠一郎の呟きはこちらにも届き、翔はそれに目を見開く。
 ガーズ?ガーズって、まさか。
 ちらりと彼を見上げれば、彼は苦笑を浮かべてみせ、口を開いた。
「俺はガーズ第二王子の側近が一人。お前はアスラの王子だな……何故今イルに来た」
「側近?」
 誠一郎は一瞬不思議そうな表情を見せたが、すぐにため息を吐き、肩を竦めた。
「我が王のつまらん言いつけだ。そこの王子を連れて帰れとな」
「彼は渡さない」
 はっきりと言い返した甲賀に、相手は目を見張り、翔は胸が苦しくなる。
「……君にそんな権限があるのか」
 伺うような誠一郎の問いに甲賀は答えず、ただ目の前に立つ男を睨みつける。
 このままでは、甲賀が危ない。
 ガーズの騎士というのは初耳だが、彼の強さを見れば納得だった。きっと、克己の護衛としてこの国に入り、様子見の為に武芸者の中に紛れ込んだのだろう。
「俺、城に戻る」
 一触即発の空気を破ったのは翔だった。それに甲賀は驚いたように翔を見たが、それには笑ってみせる。
「父上と兄上と話をしてくる。俺だってアスラには行きたくないし」
「なら俺も共に行こう」
 甲賀はじろりと誠一郎を睨みつけながら、翔の肩を軽く叩く。
「話をしておかないといけない相手がいる」
「え、それって……」
 もしかして、克己様?
 そう聞こうとしたが、誠一郎を睨みつけ続ける彼には聞ける雰囲気ではなかった。
「ならば話は早い。共に城へ戻ろう」
 誠一郎はマントを翻して煉瓦で出来た道を歩き始める。その後に続こうとした翔の肩に克己の手が置かれた。
「……黙っていて、すまなかっ……申し訳ございません。翔様」
 敬語に直し、彼はその場に片膝をついて頭を下げる。位の高いものに対するその態度にわずかに寂しさを感じたが、首を横に振った。
「良い。貴方は自分の役目をこなしただけだ。克己様の御命令ですか」
「いや、私は……」
 ここで自分の身分を明かすべきか甲賀は少し考えたが、すぐ先には大敵であるアスラの王子がいる。アスラがこの国に来て事態は大きく変化してしまった。ここで身分を明かすのは恐らく得策ではない。
 しかし、自分と彼は一度顔を突き合せて戦った間柄。自分は彼の顔を覚えていたし、多分あちらも自分の身分に気付いているはず。一応、夕日と会って話をした方がいいだろう。
 ちらりと横路地に目を走らせれば、正紀がそこで待機をしていて、こちらの考えを読んだのか彼は軽く頷き路地へと消えた。恐らく、城に向かい夕日にこの事を知らせに行ったのだ。
 部下の迅速さにほっとして、再び翔と向かい合い、頷いた。
「……はい。我が主の命にて、大会に出場し、私は貴方を護っていました」
 そう言った瞬間、翔の眼が大きく見開かれる。
「克己、さまが……貴方にそんなことを?」
 信じられないと言いたげに揺れた眼に、甲賀も少し怪訝に思ったが、あの夕日が馬鹿な事はしていないだろうと思い、再度頷く。
「はい。貴方と我が主は御友人だと聞いています。手紙のやり取りもされていたと」
「……克己様は、そのように貴方に説明されたのですか?」
「どうか、されましたか?」
 表情が曇っていく翔の様子に甲賀は首を傾げたが、慌てて首を横に振った。
「何でもありません。甲賀さん達は先に城へ行ってください。俺、大会出てるのナイショにしてるから、一緒に行ったら気付かれちまう……後で、城でお会いしましょう」
「……それなら、途中まで共に行きましょう。貴方一人では心配です」
「何言ってるんですか。ここは俺の国で」
「兄君に会う時は、私も御同行させてくれませんか。アスラ行きのこと、貴方一人で立ち向かうのは難しい」
 ため息混じりに言われたことに、翔は再び目を見開くこととなる。アスラ行きの件は本当に他国が口を突っ込むことではないのだ。あの兄なら彼が口を挟んだだけで彼の首を刎ねかねない。
 甲賀もそれはよく解かっているだろうに。
「……わかった」
 思わず頷いて、彼は満足気に笑った。
 甲賀は優しい。優しい笑みに胸がわずかに疼いた。その意味に気付かない程鈍くは無い。これは、克己から手紙を貰ったときに感じたものと似ていた。
 おかしい。この間までは克己に対してしか感じなかったのに、どうして。
 克己に対しても甲賀に対しても誠実ではない、こんな感情。
 苦しげに眉を寄せた翔の表情を、兄に会う恐怖心からきたと思ったのか、甲賀は優しく肩を叩いてくる。
 自分がいるから大丈夫だと、そう言う様に。
 そんな彼の優しさがよりいっそう胸を締め付けた。




「……あの、克己様」
 少年を教会まで運び、寝台に寝かせたところで陸は口を開いた。
「何ですか、陸さま」
 ようやくこの国の気温になれてきた彼の笑顔は晴れやかで、それに少々和みつつも、
「明日は翔と一緒に回ってくれませんか?」
「翔様と?」
 突然の事に夕日は首を傾げたが陸はそれ以上何も言えなかった。
 思わず俯くと、何をどう解釈したのか、夕日は明るい声で「じゃあ、3人で」と見当外れな事を言い出した。
「ど、どうして3人なんですか!?」
 慌てて声を上げると、相手は驚いたように目を大きくする。
「だって、翔様と貴方は御友人でしょう?だから共に」
「違います!だって、翔は……!」
 思わず声を荒げた陸の声に、眠っていた少年が身じろぎし、慌てて口を押さえたがもう遅かった。
「うん……?」
 少年が身を起こしたのに陸は失敗したと思いつつも、彼の顔を覗きこむ。
「大丈夫ですか?」
 少年は焦点の合わない眼をきょろきょろと動かし、不安気に陸を見上げ「ここは?」と問う。
「教会です。安心して休んでください」
「教会……?ここは、イルですか!?」
 少年は慌てた様子で身を起こし、陸の腕に縋りつく。彼の剣幕に驚きつつも陸は頷いた。
「はい、イルですが……」
「誠一郎さんは……アスラの王子はもう城へお入りになりましたか!?」
 おろおろとする陸の背後で夕日はその聞き覚えのある名に目を細める。陸の肩に手を置き、やんわりと後ろへ下がらせた。
「克己様?」
「……君は、アスラの人間なのか」
 誠一郎の名を出してきたこの少年の素性を問うと、彼はゆっくりと頷く。
「はい。俺は蒼生と申します。誠一郎さんの付き人をしています」
「蒼生?もしかして君は奈良崎蒼生か?」
 聞き覚えのある名前に声を上げれば、少年は何故その名をと言いたげに目を上げる。
「はい、そうですが……どうして俺の名前を」
「俺は、ガーズの第二王子です」
 それを聞き、少年は一度大きく目を見開いてからすぐに厳しい表情になる。
「貴方が、あのガーズの?」
 嫌悪感が混じったその言葉に陸が少し怯えた様子を見せたが、夕日はそのまま蒼生と名乗った少年を見つめた。
「元王子である貴方が生きているとは。この度はどうしてイルに?」
 元王子という夕日の言葉に陸は軽く目を大きくして蒼生へと視線を向ける。その言葉の意味が解からず夕日に答えを求めたが、彼はまだ俯く蒼生に視線を向けたままだ。
「……誠一郎さんに会いに来たんです」
 しばしの沈黙の後、彼は小さな声で答えた。
「イルの城前まで行きましたが、取り合ってもらえず……うろうろしていたら、その」
 具合が悪くなって倒れてしまった、ということか。
 確かに蒼生の服装はアスラの気候にあったもので、イルで過ごすには暑すぎる。アスラはガーズまでとはいかないが、夏は涼しく冬が厳しい気候の国だ。慣れない暑さに倒れてしまってもしょうがない。
「蒼生……さんはアスラの王子なのですか?」
 陸が夕日に問うと、彼はああ、と思い出したように説明を始める。
「アスラは元々は彼ら奈良崎の一族が国を治めていたんです。ですが、久慈という貴族が奈良崎を倒し、権力を得たと聞いています」
 奈良崎が国を治めていた時は魔族とのつながりも無く、ガーズとも友好関係にあった。だから、夕日は彼の名前を知っていたのだ。
「……久慈が、魔術師と手を組み、その魔術師に薦められるがままに高位魔族と血の契約をしたんです」
「血の契約?」
 今度は陸が声をあげ、身を乗り出した。
「御存知でしたか」
 それに蒼生は少し驚いたように聞くが、陸は眉を顰める。昔本で読んだ事があった。契約者の願いのレベルによって契約の種類が変わってくる。もし、その久慈が魔族に国の王になりたいと願ったのであれば、それなりに多くの代償を払わないといけない。もっとも多くの代償を払うのが血の契約だ。
「契約した当人だけでなく子孫まで続く契約ですよね。そんな契約した人間がアスラの王なら、アスラは魔族の国になったも同然です」
 契約した魔族に刃向かう事は許されないのが大前提だ。もし刃向かえば、その場で刃向かった人間は消滅すると聞く。血の契約の場合、子孫もその対象に含まれるので、一族の誰かがその魔族に刃向かえば一族皆瞬時に塵と化す。勿論、久慈の子どももその対象になる。
「翔様のことも、魔術師が王に囁いたことなのです」
 蒼生の悲しげな言葉に陸は首を傾げた。
「翔……?翔が、何か」
「え?我が国の王が彼を国に迎え入れようとしているんですけど」
 知らなかったんですか、と言いたげな目に陸は息を呑む。
 あの翔がアスラへ行く。そして、その理由は恐らく……。思わずちらりと横にいた克己を見上げたが彼は特に驚く事も無く平然としている。
 どうして?
 克己と翔は友人だと、手紙を交わす間柄だと聞いていた。翔は彼に憧れて、会える日を楽しみにしていた、なのに。
 そして、どうして自分は彼のそんな薄情とも言える態度に安堵しているのだろう。
「……翔様のお噂は私も耳にしています。その……とてもお可愛らしい方だと。誠一郎さんも、自ら彼を迎えに行くと仰られて……」
 蒼生は目を伏せ今にも泣き出しそうな震える声でボソボソと言葉を繋ぐ。
「城に、行きたいです。誠一郎さんにお会いしたい……」
 小さな声で苦しげに呟き、蒼生は自分に掛けられていた白いブランケットを握り締めた。


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