「きゃ!」
「おい!」
「てめぇ、何しやがる!」
 祭り中の街には人が溢れている。ぶつかった周りのそんな怒りの声にも構わず、翔は石畳の上を全力疾走していた。
 頭の中が色々な事でぐるぐるかき混ざって気持ちが悪い。
 何で、とかどうして、とか、口に出したいけれど出せない思いが混ざり合い、目の端に熱となって溜まってゆく。
 あの、初対面であるかのような克己の態度が。
 何も知らないというような、克己の態度が。
 自分ではなく陸に優しくしていた、彼が。
 どうしようもないくらい、翔の精神を追い詰めていた。
 魔力を持たない王族なんて、という兄の嘲笑が脳裏を過ぎる。結局はそこに戻ってくるのか。
「くそ・・・・・・っ!」
 人のいない横道に入り、冷たい煉瓦に少し熱くなった自分の額を押し付けた。城から逃げるように走ってきて、沢山の人にぶつかった肩が鈍く痛む。荒くなった息の下、白手袋を脱ぎ捨てた手が眼に入った。
 姉のように、他人の傷を治すことの出来ない自分の手。
 兄のように、魔を祓うことの出来ない自分の手。
 あっても無意味な存在なのか、この手は。
 武術に励んできた手は、成人男性のように大きいわけでもなく、かといって女性のようにしなやかというわけでもなく、中途半端な大きさで、剣を握った長い間の鍛錬の所為か肉刺が出来ていた。何度かそれが潰れて血が吹き出し、痛い思いをしたものだが、その痛みさえ無駄だったというのか。
「何で・・・・・・?」
 耳元でかちりと髪につけていた結い紐の石が触れ合い、その音に奥歯を噛み締めていた。これを、見たはずなのにそれでも気付いてくれなかった。激情に任せてそれを髪から外し、地面に投げ付けようとしたが、出来なかった。
「本当に、気に留めるほどでもない人間でしたか、俺は・・・・・・」
 自分しか覚えていなかった思い出を握りしめ、呻くように呟く。
 彼は、陸と共にいることを選択していた。神子である陸と。
 ただ単に、陸と先に会い彼を気に入ったというのなら、まだ良い。陸も彼に魅かれているような空気があった。だが、彼が神子であるから、という理由でそういう行動をとっているのであれば、自分は克己を許さないだろう。
 くやしいけれど、陸は綺麗だ。清涼感のある空気と声、そして顔立ちは翔から見ても綺麗だと思う。それに彼は魔力を持っていて、手だって、こんな傷だらけの手じゃない。立ち振る舞いも気品を持っていて、誰よりも必要な人で。
 克己が、それを見抜いていないはずがない。
 心に冷たい氷のナイフが突き刺さったような衝撃を感じた。
「・・・・・・大丈夫か?」
 そんな時だった。ひんやりとした声が翔の背を覆ったのは。
 ぞくりと悪寒を感じ、慌てて結い紐をしまい振り返るとそこには活気のある街を背負った黒いフードを被った男が立っている。暑いこの国で黒いフードを被るのはそう珍しいことではないが、分厚い布で出来たマントは、不気味なイメージを翔に与えた。
 きっと、他国から来た武術家だろうと翔は判断し、目尻に浮かんでいた涙を慌てて拭う。
「・・・・・・貴方は?」
 おそるおそる尋ねると、フードから覗いていた口元が三日月形に歪み、尖った犬歯が姿を現した。
「悲鳴が聞こえた」
「悲鳴?」
「とても心地良いものだったんでね、立ち寄ってみたんだ。そうしたらお前がいた」
 男は翔との距離を縮めながらそう語るが、何のことだか解からない。
「あの、俺は・・・・・・悲鳴なんて」
「上げていたぞ。まぁ、普通の人間には聞こえないだろうがな。何をそんなに悲しんでいた?」
 するりと男の指が涙の流れていない翔の目元に触れ、冷たい体温が熱を持っていたそこを冷やす。人間の体温ではない。その事に、ぞくりと背筋に悪寒が走った。
「お前、一体・・・・・・っ!」
「ふ・・・ん。好きな相手に久々に会ったというのに、相手は気付いてくれなかったのか。可哀想に」
 ・・・・・・は?
 相手の楽しげな口調に翔は思わず眼を見開いていた。
 何故、その事を知っている?
 怪訝な顔をしたのが笑いを誘ったのか、相手は何を思ったのか翔の両腕を拘束し、顔を近づけてくる。
「しかも、友人にその相手を掻っ攫われた」
「な・・・・・・!」
 一瞬、克己の隣りにいた陸の顔が浮かんだが、すぐにそれを打ち消した。
「そんなんじゃない!あの二人は、そんなんじゃ」
「違うと言い切れるのか?二人共綺麗な顔しているから、一目惚れだったんじゃないか、お互い。もしかしたら今頃お楽しみの最中かもしれない」
「お、お楽しみ・・・・・・?」
 男の言っている事が良く解からず、翔は眉を寄せた。意味がわかっていない翔の様子に、男は獲物の服を掴み、力任せに引き裂いた。布の切れ端が舞い落ちるのを見て、翔は相手を睨みつける。
「何をするんだ!」
「世間知らずの王子様。無防備すぎると痛い目にあうぞ」
 男の台詞より、自分の身分を知られているという事の方に翔は危機感を覚えた。自分が王子だと知った上でのこの扱いは、もしかしたら相手が王家に良い感情を持っていないからなのでは。
 もしくは、誘拐かそれ以外の目的か。
 殺されるのではないかという予感もよぎり、自分の迂闊すぎた行動に後悔した。
「離せ。お前俺・・・・・・私の身分を知っているのだろう。このまま私に危害を加えるようであれば、この国に弓を引くこととなるが」
 落ち着け、落ち着け。
 そう心の中で繰り返し、翔は相手に厳しい声を浴びせたが、それを彼は鼻で笑った。
「魔力を持たない王子がどれほど大事にされていると?」
「な・・・・・・」
 思わず絶句してしまった。何故それを知っているのだ。いや、自分が魔力を持たないのはすでに国内では知られていること。それが外まで伝わっていない保証は無い。
「まぁ、大事は大事か?お前、顔は綺麗だからな・・・・・・稚児趣味の他国の王に謙譲するには、良い素材だ」
「父上はそんな事はしない!!」
 思わず声を荒げて否定していた。父王は自分を可愛がってくれている。たとえ、自分が魔力を持たずとも、彼は優しかった。兄はああ言ってきたが、父が自分を本当にアスラへやるとは思ってはいなかった。
「今の王はそうだけどな。そうやりそうな相手に心当たりは?お前を邪魔だと思っている人間が」
 まるで先ほどの自分と兄のやり取りを見てきたかのようにからからと笑う男の言葉には、否定出来なかった。父がいなくなれば次に王権を握るのは兄だ。彼は自分を忌み嫌っている。
「君の兄は、王様になったら君をアスラの王に献上する気なんだろう?」
 耳元で囁かれたことに、息を呑む。どうして、この男がそれを知っているのだ。
 アスラという国は良く知っている。何度か、あちらの王がうちの国を訪問したことがあるからだ。その度に蛇のような眼を持ったアスラ王が自分を舐めるような目で見ていたのが居心地が悪かった。
 父王はアスラ王をあまり良く思っていなかった。だから、敵対もしない仲良くもしないという立場をとっている。それに、アスラは魔族と関係を持つ国。そして、ガーズと敵対している国だ。そんな国と友好関係を結べば、自然とガーズとの友情が壊れてしまうことになる。
「君の父上は老い先短い。彼自身もそれに焦っているようだな。自分の息子が危うい事をしないように、君の姉とガーズの王子を結婚させようとしている」
 父は、兄の凶行をどうにかして止めようとしているのだ。自分が死んでしまう前に。
 そんな事、知らなかった。
 では、克己と姉の結婚が上手くいかなかったら、この国は危ういということになるのか。
「まぁ、魔力を持たない君にはあまり関係ないことかもしれないが」
「なに!?」
 魔力を持たないことをからかわれて、翔はかっと頭に血が昇るのがわかった。
「魔力を持たなくても、俺はお前くらいは倒せる!」
 何年武術の稽古に励んできていると思っているんだ。
 腰元の剣に手を伸ばそうとしたが、手を強い力で押さえられていて、動かない。ならば足か、と相手の腹に膝をめり込ませようとした時、身体にバシンと強い衝撃を感じた。
「残念ながら、魔力を持たない人間は俺の敵じゃない」
 男の笑い声と、パリという電流がはじける音が同時に聞こえ、魔法を使われた事を察す。
 全身が痺れて動かない。
「っ・・・・・・まえ、まさか」
 男の正体がなんとなくわかったような気がした。でも、まさか、という思いが拭いきれない。
 身体に力が入らず、折角拘束を解かれたというのに地に膝を付き、この場から離れる事も出来ない。上から嘲笑が降ってきた。
「気付いたか。愚鈍ではないようだな」
「う・・・・・・っ!」
 堅い皮の靴先に顎を蹴られ、翔は抵抗する間もなく煉瓦造りの地面に倒れた。身体が鉛のように重く、熱い。蹴られたところからまた熱が生まれ、身体中に離散してゆく。
 今まで何度も誰かに殴られ、蹴られた事があるが、こんな息苦しい攻撃は初めてだ。魔法とはここまでの力を持つのか。
 まるで赤子のように手を出せない自分の無防備な状況に恐怖を覚えた。
「そう、怖がる事もない」
 目の前にある男の革靴が一歩前に進み、見えなくなったと思ったら男の膝がそこにあった。彼がしゃがみ込んだのだ。
「痛みが快楽に変わることもある」
 彼の手が自分の長い髪の毛に伸び、さらりとしたそれを手にとって口付けているのが見えた。
 まさか、このまま喰われるのか?
 自分の血肉を喰う男の姿を想像し、思わず眼を強く瞑る。どくりと心臓が恐怖で重く鳴った。
 克己さま。
 思わず心の中で叫んでいたのは、今頃陸と共にいるだろう彼の名前。つい彼を呼んでいた自分が情けなくなる。
 彼は自分のことなんて忘れてしまっているのに。
「そいつから離れろ」
 闇の中で聞こえたのは、低い声と金属音。
 眼を開けると、黒い髪に高い身長が、自分に触れていた男の首元に銀色の切っ先を向けていた。男はそれを目の端で捕らえ、肩を竦めた。
「つまんない邪魔が入ったな。まァ良い。また会おう、王子様」
 つまらなさそうな男の声が消えてすぐ、翔は誰かに身体を起こされた。力強い腕の持ち主を確かめるために、重い目蓋を上げる。
「日向、大丈夫か?」
 目の前にある黒髪に黒い眼は、見覚えがある。思わずほっと息を吐いていた。
「甲賀、さんか・・・・・・カッコわりーところ見られちまったなぁ」
「魔法か」
「見事に動けない。は、は・・・・・・情けねえ」
「怪我はしていないか」
「怪我は、ないと思う・・・・・・」
 ただ、身体が物凄く熱い。電撃が身体に走った所為か。
 はぁ、と体の中から溜まった熱を吐き出すと甲賀の手が額に当たる。ひんやりとした大きな手が心地いい。
「・・・・・・宿に戻るぞ」
 翔の身体を抱え上げ、彼はあまり人が通らない裏通りの方へと足を向けた。きっと、自分への配慮だろう。そう考えると何故か胸が跳ねた。
「何も、きかねぇの?」
 さっきのあの男は自分の事を王子と呼んだ。もう、彼には自分の身分はバレているだろう。それなのに、彼は何も言わない。
「俺、ここの国の王子なんだ」
 遠也に怒られるとか、そんなことはもう考えていなかった。さっきの魔法で脳も少し痺れているのだろうか。するりと言葉が出たが、嘲笑を交えたその告白に甲賀が視線を翔の顔に落とす。
「王子、っても・・・・・・魔力も持たないから、いても意味が無いんだけどな、俺」
「そんな事はないだろう」
「・・・・・・魔力を持つあんたには、わかんねぇよ」
 魔力を持っていれば、兄にもあんなに冷たくされる事もない。魔力を持っていれば、周りから失望されることもなかった。魔力さえ持っていれば・・・・・・克己にも覚えていてもらえたかもしれない。
 く、と嗚咽を噛み締め翔は俯いた。
 何でこんなに卑屈な気分になっているのだろう。折角助けに来てくれた甲賀にみっともない八つ当たりをして。
「ごめん、甲賀さん・・・・・・俺、今ちょっと変だ」
「魔力を持たないから、武術の稽古をずっとしてきたんだな」
 え?
 不意に降ってきた彼の声に、翔は驚いて顔を上げた。
「お前の手、ずっと剣の修行をしてきたんだろう?体にも、傷があった」
「甲賀さん・・・・・・?」
「その歳でそれくらい傷がつくということは、血の滲む努力をしてきた証だ。自分の国を自分の手で守る為にそれだけの努力が出来るお前が、意味のない人間だとは誰も思っちゃいない」
 ・・・・・・困る。
 記憶の中の克己にどこか似ている雰囲気を持つ彼に、そんな事をそんな声で言われたら、困る。
「ずっと、王と国の為に頑張ってきたんだろう?お前は、良い王子だ」
 本当は、国と父のためだけではなかったが、甲賀の優しい声がするすると心の中に入ってきて、思わず身を縮め、溢れそうになった何かを必死に堪えた。
「違、俺は・・・・・・約束、守りたくて、ずっと、あの人に認めて欲しくて」
 国とか父王の事なんて、本当は二の次だったのかもしれない。ただ単に、あの幼い頃の約束を果たしたくて、果たせるくらいの力が欲しくて、手がボロボロになるまで、朝日が昇り夕日が沈むまで毎日修行をしていた。次に彼と会える時には、胸を張って向かい合えるように。
「ずっと、あの人のことしか、俺は、考えてなくて」
 そうか。
 本当に自分は、彼が好きだったんだ。
 この息苦しい痛みはきっと、恋という名前なのだろう。
「でも・・・・・・あの人は、おぼえていてくれなかった」
 気付いた時は、もう遅い。
「全部、無駄だった・・・・・・!」
 ことりと涙が落ち、手の甲で乱暴にそれを拭う。こんな会ったばかりの相手の前で泣くつもりは全く無かったのだが、止まらない。
 眼を擦ってどうにか止めようとしたけれど、止まらなく、気が付いたら宿の部屋のベッドの上に座っていた。甲賀が運んできてくれたらしい。カチャリと扉を閉める音がした。
「甲賀さん、ごめん、ごめ・・・・・・っ」
 しゃくり上げながらどうにか謝ると、「泣くな」と頭を撫でられた。その声が子どもをあやす様なもので、思わず反抗心が芽生えた。
「泣いて、いません」
 ついつい、大嘘をついてしまい、甲賀が苦笑するのが解かった。
「そんなに好きだったのか」
「・・・・・・うん」
「そうか」
頭を撫でる甲賀の手が暖かくてそのままこの手に縋れたらどんなに楽になるだろうかという思いが過ぎ
ったが、涙を乱暴に拭ってその奇妙な感情を消した。
「甲賀さんはいねーの?好きな人、とか」
 まさかそう来るとは思わなかったのだろう。頭を撫でていた手が一瞬止まった。
「甲賀さん?」
「いることは、いる・・・・・・」
 甲賀ぐらいのレベルの男なら、恋人の一人や二人いてもおかしくない。予想済みの返答だったが、翔は少し落胆していた。
「そうか・・・・・・故郷にいるのか?きっと、凄い綺麗な人なんだろうな」
「お前の好きな相手はどんなヤツなんだ」
 甲賀は誤魔化すように口を開いたが、そういえば似たような質問は昼にもしたような気がする。しまったと思ったが翔は気にしなかった。
「すっごいカッコイイ人なんだ!」
 さっきまで失恋で泣いていたのに、翔は突然表情を輝かせ、声も力強い声だ。その勢いには流石の甲賀も呆気に取られた。
「凄く強くて頭も良くて、多分顔もカッコイイ。字も綺麗だったし、凄く優しい人なんだ」
「日向、お前・・・・・・」
 何で失恋した相手をそこまで褒められるんだ、と甲賀は言いそうになったが、やめた。気分が上昇しているようだから、下手に制止するのも得策じゃない。
「でも、やっぱり色々と無理だったんだろうな・・・・・・」
 翔は眼を細めて城で会った克己の顔を思い出した。彼は王子で自分も王子だ。親友は許されても、恋人関係となると誰も良い顔をしないだろうし。
 深みにはまる前に、離れて正解だったのかもしれない。
「例え両想いになれたとしても、俺もあの人も背負っているものがあるからな」
 いつかは彼も自分の国の為にどこかの姫を娶るだろう。もしかしたら、翔の姉を妻にするかもしれない。
 それを、笑ってみていられるほどまだ自分は人間が出来ていない。
「これで、良かったのかもしれない。つーか、これで良かったんだ」
「日向」
「甲賀さん、俺、城戻るわ。あの人が武道大会で優勝するシナリオなら俺はもう大会に出る必要は無いから」
 父王の画策を邪魔してはいけない。あの男が言っていた言葉を全部信じるわけではないが、あの兄は何か不穏な事を考えているような気がする。だから、克己と姉が婚姻を結ぶ事はこの国にとって一番良いことだと、自分を納得させた。
 姉は他に好きな人がいるらしいが、彼と結婚するかどうか決めるのは彼女自身だ。自分がしゃしゃり出るような事じゃなかったのだ、最初から。
「・・・・・・大会を、棄権するのか」
「うん。俺も王子だからさ、結構忙しいんだ。仕事溜まってるし」
 これは本当の事だ。きっと今頃遠也が鬼の形相で自分の分の仕事もこなしている。
「そうか、お前と一戦出来ると思ったんだけどな」
「甲賀さん、大会終わったら城に顔出してくれよ。2回も助けてもらったんだから、礼がしたい。何か欲しい物とかあったら遠慮なくどーぞ」
「・・・・・・気を使わなくて良い。大したことは何もしていない」
「ま、気が向いたら来てくれよ」
 甲賀はそういった礼をされるのをあまり好まないタイプなのだろう。自分が王子だと言っても彼はとくに動揺も見せなかった。ほんの少し、安心した。
「じゃあ、甲賀さん約束・・・・・・」
 約束。
 その単語を言って、翔は言葉を止め眼を細めた。
 約束、か。
 意外とこの言葉が弱いものだと知ったばかりで、この単語を使う気にはなれなかった。この言葉を信じて期待をするだけ、きっと虚しい。それに、もしかしたら自分の方が守れないかも知れない。彼が再びこの地に戻ってきた時、もしかしたらアスラに行っているかもしれないから。
「・・・・・・日向」
「何?」
「本当に、戻るのか」
 一体どういう意図で彼がそう聞いて来たのか解からず、困惑してしまう。
「戻るよ?」
「戻りたくなさそうな顔をしている」
 甲賀の指摘に思わず自分の顔に手を伸ばしていた。そんな、表情に出ていたのかと思うと少し恥ずかしい。
「そんな事ねぇよ」
 本当は、戻りたくなかった。帰れば克己と顔を合わせるし、兄とも顔を合わせないといけない。まだ先のことだけれど、アスラの事を父に聞いておかないといけない。どれも、気が重い。
 それでも部外者である甲賀には笑顔を向けて、自分の荷物を手にドアの方へと歩いた。これ以上彼と一緒にいてはいけない。そんな気がした。
「じゃ、甲賀さん。怪我には気をつけてな!」
 ドアノブを回し扉を開けようとしたが、突然何かの圧力がかかり扉が閉まった。
「戻りたくないなら、戻らなくてもいい」
「え・・・・・・?」
 甲賀の手が扉を押さえているのを確認してから振り返ると、感情を伺えない表情の彼がすぐ後ろにいた。
「甲賀さん?」
 まさか、彼も自分を誘拐しようとかそこら辺を考えていた人間だったのか?
 そう一瞬考えたが、すぐに彼は扉から手を離し、少し困ったような顔をして翔から視線を逸らす。
「兄貴の風当たりが強いんだろう?噂で聞いている。ここの国の王子同士は仲が悪いと」
「あ・・・・・・ぁ、そか」
 噂にまでなっているのか、自分と兄の関係は。思わず苦笑してしまう。
「大丈夫大丈夫。別に気にするくらい仲が悪いってわけじゃ」
「裏の方では大分有名な話だ。兄貴の方が弟をアスラに人質に出すつもりだとな」
 けれど、その言葉に思わず笑みを凍らせてしまう。それも噂になっていたのか。もしかして、知らなかったのは自分だけか?
 翔が笑みを凍らせたのを見て、噂が真実だったことを甲賀も察し眉を寄せる。
「お前も納得していることか、それは」
「・・・・・・してる」
「本気か」
「本気だ。俺は、俺だってこの国の王子だ。俺は、この国が好きなんだよ。この国を守る為なら何だってする。この国の為なら・・・・・・」
 バン、と耳元が揺れ、思わず眼を瞑り身を竦めた。甲賀が強く扉を叩いたからだ。
「・・・・・・甲賀さん?」
「お前、自分が今どういう顔をしているか、解かっているのか?」
 頭の上から降ってきた言葉に、喉の奥からなにかせり上がってくる熱いものを感じつつ首を横に振った。
 正直なところ、どうしたらいいのか解からない。
 今解かっている事は、克己が自分の事を忘れていて、ついでに失恋もして、そしたら兄がアスラへやると言って来たということくらい。どうしたら良いかと考えたところで、自分の行く末は決められてしまっている。どうにか、自分を納得させるしか術が無い。
「この状況で笑える方が、おかしいだろ・・・・・・」
 せめて、克己が自分を覚えていてくれていたら。
 何かしら相談して、どうにか出来る方法を考え付いたかもしれない。でも、今、自分の味方は少なすぎる。
 零れそうになった涙を拭いて、ぐっと奥歯を噛み締めた。
「心配してくれて、ありがとう」
 彼は旅人だ。この国の弱みを見せるのは気が引ける。だから、にこりと笑って見せた。いつもの王子としての笑み。王族が笑っていないと民は安心できない、と小さい頃姉に教わってから誰かと接するときには絶やす事のなかった笑みだった。
 俺は王子なんだから笑ってないと。
「だから、甲賀さ」
 ふっと顔に影がかかったと思った瞬間、空気が無くなる。
 無くなったというのは一瞬の錯覚だった。ただ、呼吸を遮られた状況になっただけ。
 でも、何でこんな状況になったのか。昨日今日出会ったばかりの相手に、何故かキスをされていた。いや、キスなら何度かしたことがある。相手は姉であったり父王だったりと、親しい相手や敬意を表する時によく足元や頬には翔は戸惑い無く唇を落としていた。が、今の状況はどうだ。
 くちと、くちって・・・・・・あれ?
 ぽかんとしていると眼を開けたままの甲賀と視線があい、彼の目が細められた瞬間、口元に違和感を覚えた。
「う・・・・・・んっ」
 息苦しさに眼を閉じ、どうにか抵抗しようと振り上げた手は物凄い力で扉に縫い付けられた。余計なところで彼との力の差を感じる。それが妙に悔しい。
 何、何だ、何なんだ!
 口同士のキスなんて初めてで、勿論、知識も無い。それもひとえに過保護な父と教育係であった遠也のおかげなのだけれど、それが幸運だったのか不運だったのかはこの状況では解からなかった。今までずっと稽古づけだったからか、欲求不満や性的衝動なんて感じる事もほぼ無かったから、自分の今の状況が良く解からない。
 そろりと口内に入ってきた舌の感触に背筋に何かが駆け抜ける。
 何だコレ、こんなの知らない。
 段々と熱くなっていく身体の変化についていけず、さっきは拭えた涙が頬を伝う。それに甲賀も気付いたのか、そっと壊れ物にでも触れるような手付きで涙を拭われた。無理矢理口を塞いで来たにしては、優しい対応に面食らう。その所為か、自分の体から力が抜けていく。
 さっきのあの男からは嫌な空気を感じたが、目の前の相手からはそんなものは一切感じない。だから許すというのも変な話だけれど。
 ぐっと眼を強く閉じた時、ようやく唇に冷たい空気が触れた。
「っ……何、すんだ」
 か細い声でそれだけようやく言うと、今度は耳に彼の口が触れ、その熱さに肩を震わせる。自分の体がおかしくなっている。
「お前、さっき欲しい物があったら遠慮なく言えと言ったな」
 さっきまで普通に会話していた声なのに、こそりと囁かれてまた肩が震えそうになった。今まであまり意識したことが無かったけれど、彼の声には大人の男の色気がある。それを直接感じ、心臓が震える。
「言った・・・・・・けどっ」
 はぁ、と吐き出した息と声が妙に熱い。足も力が抜けていて、立っていられるのが不思議なくらいだ。
「・・・・・・なら、お前が欲しい」
 こちらが細かく震え始めていたのに気付いたのか、宥めるように頭を撫でられた。そんな風に優しくされると下手な抵抗も出来ず、ただ彼の言葉に眼を瞬かせることしか出来ない。
「俺が優勝したらお前を貰う。姫は要らない。お前、この国じゃいてもいなくても同じ存在だと言ったな。なら、構わないだろ?」
「ちょ、待てよ!俺は、そんな」
顔を上げた先にあった甲賀の顔は冗談を言っているような表情ではなかった。本気の黒い眼に飲み込まれそうだと思う。
「・・・・・・それが嫌なら、このまま大会を続けて俺に勝てば良い」
「甲賀さん、ちょっと待て。言ってる意味がよく解からない。俺が欲しいって、何で」
「好きだから。それ以外に、何の理由が?」
「すき・・・・・・って、ちょ、え?は?」
「俺はこれから二回目の試合がある。じゃあな」
「え、ちょ、何でっ!おい、甲賀さん!」
 さっきまでこの扉に翔を縫い付けていたのは彼なのに、今度はどけと言わんばかりに翔の身体を避けて止める間もなく出て行った。
 バタン、と扉が閉められる音にただ茫然とする。
 え、貴方今俺に好きって言いましたよね?それなのに何でそんなあっさりした態度?てか、言い方も随分とあっさりだったような・・・・・・。
 ぽかんと扉を見つめていると、「おーじ、だいじょうぶ?」と更科の声が聞こえた。
「・・・・・・うわぁ!更科!!」
「そんなに大きな声で驚かないでよ。さっきから居たっての」
「さ、さっきって」
 一体、いつからの“さっき”だ!と翔は顔を紅くしてうろたえる。まさか、キスしていたところを見られていたわけではないだろう。
「なかなかに熱烈な告白だったね。お前が欲しいなんて」
 けれど、その段階にはいたらしい。
 ぼっと顔を真っ赤にさせた翔に、あららと更科は笑う。そういえば、この王子は色恋沙汰にはまったく免疫がなかったんだっけ、と思い出しながら。
「で、どうする?王子」
「ど、どうって・・・・・・そんなのよくわかんな」
「そうじゃなくて、今俺がアイツを追いかけてって、あの首掻っ切ってくる?って話」
「・・・・・・え?」
 にこやかに言われた事に、翔は表情を固めた。その反応だけで答えは貰ったようなものだったけれど、更科は続けた。
「アイツ、王子にキスなんてしたし、不敬罪で殺されても文句言えないだろ?だから、俺追いかける?追いかけなくても良い?」
「あ・・・・・・」
 思わず、自分の口元に触れていた。そういえば、そんなものもあった。すっかり忘れていたが、彼を殺したいと思うほど、自分が彼とのキスに衝撃を受けていない事を知る。
「追いかけなくても、良い・・・・・・」
「そ。で、大会は?棄権して帰る?」
 その方が俺としては楽だけど。
 更科の呟きに、ベッドの上に放っていた剣を振り返った。
「・・・・・・しない。大会には、出る」
 甲賀は「それが嫌なら大会に出て俺に勝て」と言った。アレは彼なりの励まし方だったのかもしれない。あのキスもその為の道具だったんだろう。
 大会は続けろと。
 そう、彼は言っている。
 全てを諦めるには、まだ早いと。
「甲賀さんにも勝って、克己様にも勝つ。勝って、みせる」
 ぐっと手を強く握った翔に更科は満足げに笑った。
「それでこそイルの王子ですよ」
 この国に誇れる王子だ、と更科は眼を細める。アスラがどうのという話は聞いていたが、実際のところ彼はこの国に必要な存在だ。あの兄王子はよく思っていないが、翔は国民の間では人気がある。そんな彼を外に出すなど、まず国民が黙っていないだろう。
「・・・・・・後、気づいてないみたいだから言っておくけど」
「何?」
 身支度を整える翔を見て、更科はにこーっとわざとらしいくらい笑った。
「彼のアレは命がけの告白だったんだから、キチンと答えてあげなよ、王子」
 あれ以上手を出していたら、命令が無くとも彼を殺していたよ、と笑うと翔の顔が真っ赤になった。



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