「かつみさまが、来てるのか」
 夕食の時に更科という青年が残していった言葉に、翔は夜空を見上げた。時は夕刻。月も傾き始めているこの時間に翔は森の中に有る温泉に一人入っていた。ジャスミン亭の風呂には人が居すぎてゆっくりも出来ないし、自分の髪を染めている染料が水につけたら取れてしまうものだから変装がばれると厄介だ。今は先に頭を洗ったから髪はいつもの色に戻っている。風呂から上がったら、また染めないといけない。
 ここは、稽古の後によく来る知る人ぞ知る秘湯というやつだ。自分もこの場所は今はどこかを旅しているだろう剣の師匠に教えてもらった。傷にも多少しみるが良く効く。
 ここが、あのジャスミン亭の近くで良かった。近くと行っても森に入って大分奥のほうだけれど、翔には慣れた道だから夜でも平気だ。変な動物もいないし。
「かつみさまが、いるんだ・・・・・・」
 ちらりと木々の間から見える王宮の赤い屋根に、ほんの少しだけ後悔していた。自分がこういう行動をとらなければきっと今頃彼と会っていただろうに。
 いや、でも姉の事はどうにかしないといけなかったから。
 と、そこまで考えて気付く。
「・・・・・・俺、あの人と戦う・・・・・・ことになるのか?」
 まぁ、最後まで残ればの話だが、翔には最後まで残るという選択肢しかない。
 自分が勝てば、彼は姉とは結婚しない・・・のだろうか。でも、父王がすでに乗り気なら、今回の結果がどうであれ、彼と姉は婚姻を結ぶ事になるだろう。
 第一、多分自分は彼には勝てない。諦める、というわけではなく、そんな予感。でも、彼と戦えるかもしれないというのも楽しみだ。
 とにかく明日、試合が終わったら城に一度戻ろう。そうしたら、克己に会える。十年ぶりだ。
「かつみさま」
 思わず呟いていたその声が普段より甘いことに、本人は気付いていない。
 彼は、自分を見てどう思うだろう。変わっていないと笑ってくれるだろうか。それとも、強くなったと認めてくれるだろうか。会いたかった、と言ってくれるだろうか。
 口元が弛んでしょうがない。
 十年間、ずっと心に居た人物だ。彼と胸を張って対面出来るように今まで勉強も剣術も頑張ってきたのだから。
 ばしゃ、と湯の音を立てるとそれに答えるように茂みが音を立てた。人為的な音にはっと顔を上げる。月明かりの中、人の気配に、剣に手を伸ばした。
「誰だ!」
「俺です」
 聞き覚えのある硬質な声は、間違いなく
「更科?」
 茂みから顔を出した呆れた顔に、翔は肩の力を抜いた。夕食時に出会った青年は茂みから顔を出し、肩を竦めてみせる。
「君かぁ・・・・・・てか、夕食の時は本当に驚いたよ」
「すいません。遠也様からのご命令だったんで」
 彼は苦笑しながら一礼する。
 更科は宮廷に使える騎士の一人で、翔とはそれなりに親しい人間だ。だからこそ、遠也が選んだのだろう。信頼の置ける人間を。
「夕食の時も言いましたが、ガーズの第二王子が本日王宮入りしました」
 わざわざ、伝えに来てくれたのだ。彼も、自分が克己を尊敬し敬愛している事を知る数少ない人間の一人だ。
「克己様に会った?」
「・・・・・・いえ、それが」
 更科は言いにくそうに口を開き、克己が街の様子を見に行ってから王宮から戻って来ないことを告げる。
「どうやら、教会の方に一泊なされるらしく、王との謁見は明日の午後に延期となりました」
「明日!」
 思わず身を乗り出してしまい、湯が忠実に音を立てた。
 午後なら、自分の試合時間は午前中だから王宮に戻る事が出来る。
「俺も、俺もっ!俺も、会う!」
「当然です。貴方も王子なんですから、謁見の時には控えていて貰わないと」
 身を乗り出して手を上げる翔が、どれだけ今日遠也がヒヤヒヤしたか知らない。突然、これからガーズの王子がやってくるから王子を呼び戻せと言われ、普段なら稽古場か教会かにいけば彼を見つけられるのだが、今回は違う。人が多くなっている街で彼を探すのは一苦労だ。どうしよう、と悩んでいた時に謁見延期の知らせ。どんなに遠也がほっとしたか、更科も解からない。
「明日の昼3時が謁見時間です。支度があるので2時にはご自分の部屋にお戻り下さい」
「解かった。あ、今俺日向って名前でジャスミン亭に泊まってる・・・・・・って知ってるか。それと、俺はCチーム。何かあったら・・・・・・」
「俺が身辺につくように遠也様から言われています。くれぐれも、無茶はしないように」
「うん、ありがと、更科。悪いな」
「それにしても、不用心じゃないのか?王家の人間が王宮の外で肌を晒すなんて・・・・・・」
 ちらりと白く濁ったお湯につかる翔を見て、更科はため息を吐いた。普通なら許されない事を彼は平気な顔でやる。許されないと言った所で、どうして駄目なのかと首を傾げるだけだろうが。
「大丈夫だって。どうせここには誰も来ないし、俺男だし」
「そうですが・・・・・・少しは自覚して下さい」
 王家の人間であることと、自分の容姿を。
 まぁ、何があっても彼の腕なら何とか出来るだろうけれどそれも人間限定だ。魔力を持たない彼は、魔族が現れたら応戦出来ない。
「そういえば、今日、変なヤツに絡まれてるところを助けて貰ったんだ。これが終わったら王子としてあの人に礼がしたい」
 身伸びをする翔を横目で見ながら、更科は夕食の時に彼と共にいた青年を思い出す。かなりの美形だったが、翔は彼を信用しているのだろうか。
「別に構いませんが・・・・・・大丈夫かぁ?」
「大丈夫だと思う。旅してる人で、この国は初めてだって言ってた。それに、俺を狙ってるなら誰かに絡まれてるところを助けたりしないだろ?それに・・・・・・」
 翔はちょっと言葉を止める。それに更科がいぶかしんだ眼を投げてきた。だから、もごもごと仕方なく答えた。
「克己さまに、なんとなく、似てる・・・・・・気がする」
 一寸の間の後、更科の盛大なため息が聞こえた。
「何だよ更科!」
「本物に会えるんですから、影なんて追わないで下さいよ、まったく。では明日、2時ですよ?遅れたら遠也様が怒りの雷を落すよ」
 遠也はこの国屈指の魔術師だ。本当にやりそうで怖い。
「・・・・・・絶対遅れない」
「そーして下さい。俺も紬ちゃんとの時間を減らしたくないし、無駄な仕事増やさないでくれよな?」
「紬くん、元気?」
「元気元気。そのうち遊びに来てくださいよ、紬ちゃんも会いたがってるから」
 更科の誘いに翔は苦笑を返す。紬は森の奥に住む狼族で、魔族と呼ばれる人種だ。人間と魔族の間には敵関係しかない。もし、イル王子の翔がそんな人種と関わりがあると知られたら問題になってしまう。更科はそういう壁を乗り越えて、紬と恋仲になった。まぁ、もともと狼族は魔族でも無害な方だから、共存出来る相手なのだが。
 彼はそれだけ言って、闇の中に消えていった。自分以上に更科にとってこの森は庭だ。心配をする必要は無い。
 相変わらずだなぁ、と苦笑しながら翔は肩まで湯につかった。そろそろ戻らないと、同室の甲賀が怪訝に思うかもしれない。彼が寝たのを見計らってここまで来たから。
 立ち上がって思い切り背伸びをした時だった。また、茂みが揺れる音がする。更科だろうか。何か言い忘れたことでもあって戻ってきた?
「何、なんか・・・・・・」
 くるりと音の方を振り返り、時が止まる。
 そこに茫然と立っていたのは、今宿で寝ているはずの甲賀だったから。
 黒い眼と視線が合い、引き攣った笑みを浮かべるしかない。今自分の髪の色は地の色に戻っている。
「甲賀さん」
 こちらが声をかけると、彼も何かの呪縛から解かれたように、はっとして後ずさった。
「悪い、人の声がしたから、つい・・・・・・すまない」
「いや、あの、・・・・・・危ない!」
 よほど慌てていたのか、振り向きざま甲賀は背後にあった木に思い切り額をぶつける。ゴンッと物凄い音がして、木の葉がさざめく。木の上で眠っていた鳥達は突然の衝撃に驚いて、いっせいに飛び立っていった。一騒動だ。
「大丈夫か!?」
 かなりダメージをくらっただろう彼に慌てて駆け寄り、翔は彼の顔を覗きこむ。額を押さえる手に顔は覆われていてその表情は見えなかったが、相当の痛みに堪えていることは容易に想像出来る。
「平気、だから・・・・・・お前は服を着ろ!」
「いや、でも・・・大丈夫か?」
 小さい頃から多くの従者に囲まれていた翔は他人に裸体を晒すことに慣れていた。だから何の躊躇いも無く裸のまま彼に近寄ったが、眼をそらされた。
「大丈夫だ、お前が心配するような事は何もない」
 本当か?
 とりあえず服を着てから彼の方に戻ると、何故か彼はほっとしたような顔を見せた。その額は少し紅くなっている。
「・・・・・・でも甲賀さん、何でこんなとこに」
「お前こそ」
「俺は、ただ風呂に入りに」
「俺は眠れないから散歩をしていた」
「そうなのか」
 勘ぐることなくあっさりと納得してしまった翔には少し閉口させられたが、甲賀はそれを表情に出すことなくまだ痛む額を擦る。こんな怪我をしたのは久々だ。というか、正紀が言っていたいいものとはこれの事か。
 アイツ、今月減給してやる。
 そんな事を考えて沈黙している甲賀に気まずい思いを抱いていたのは翔の方だった。髪の色が取れているところを見られてしまった。その事をいつ聞かれるかとヒヤヒヤしていたのだ。だが、甲賀は何も言わない。
 もしかして、気付いていない?
「・・・・・・お前、髪の色染めていたのか」
 いや、気付かれていた。
 タオルで髪を隠してみても無駄な行動だった。伺うように彼を見ると、ちょっと呆れた顔の甲賀がいる。
「お前は、随分と警戒心が無いんだな。秘密をあっさりと他人に悟られてどうする」
「だって、こんなところに甲賀さんが来るなんて思わなかったし」
「一体どこからそんな自信が出て来るんだ」
 甲賀のため息に翔は俯くしかない。本当に、この森にはこの国の人間もあまり近寄らないのだ。だからと言って危険というわけではなく、ただ来たところで何もない場所だからだ。武芸の腕を磨こうとする人間は時々この奥に来て自分のように修行をするようだが、一般人は森の入り口辺りを歩く程度。特に夜は誰も来ない。
 誰か来たところで、自分の腕なら対処出来るという自信もあった。けれど、確かに彼の言うとおりなのだろう。遠也にもよく似たような事をよく言われた。
「・・・・・・ごめんなさい」
 しゅんと項垂れる翔に甲賀のほうも動揺した。そこまで強く言ったつもりは無かったのだが。
「何故謝る」
「だって、俺・・・・・・甲賀さんに嘘吐いてたし」
 かみのいろ。
 そう呟くように言うと、また頭の上の方からため息が降って来た。
「俺がそんな事で怒る理由がない。お前が謝る必要もない」
「怒ってないのか?」
「当たり前だ」
「じゃあ、秘密にしててくれる・・・・・・か?」
 この髪のこと。
 色素の薄い、濡れた長い髪を持ち上げて首を傾げると、甲賀は黙って頷いた。それに心底安心する。これで遠也に怒られなくて済む。
「ありがと!大会が終わったら俺が出来る範囲でお礼はさせて貰うからな」
 無邪気に笑う翔に、甲賀はすっかり毒気が抜かれた気分だった。さっきまで、言動が怪しかった彼に多少なりとも警戒を抱いていたが、どうやらそれは全て無駄だったようだ。
「期待せずに待ってる」
「何だよ、期待しろよー」
 べしっと翔は甲賀の腕を叩き、声を上げて笑う。その様子はさっきの印象とは全く違った。月の光に照らされた白い身体に、一瞬人間を色香で惑わす魔物の類かと思った。
 思わず男に見惚れてしまったなんて一生の不覚すぎて笑えない。
「あ。甲賀さん、額紅くなってんな。寝てる間湿布でも貼っとけよ」
 部屋に戻ってきて、甲賀の額がまだ紅いことに気付いた翔が鞄に入れてきた湿布を取り出した。けれど甲賀はそれを手で遠慮した。
「いや、大丈夫だ」
「駄目だ。明日から大会だろ。ほら、しゃがめって」
 自分よりずっと背の高い彼にしゃがむよう手で指示すると、諦めたのか床に膝をつける。
 ・・・・・・あれ?
「どうかしたか」
 しばらく硬直して動かなかった翔を甲賀が見上げた。
「あ、いや・・・・・・なんでも」
 何か、前にもこんな事無かったっけ?
 なんだろう、この不思議な感じ。
 頭の中で更科の「影を追うなよ」と苦笑する声が響いた。
 そうだ、明日には彼に会えるのだから。
「じゃ、お休み、甲賀さん」
「・・・・・・おい」
 率先して堅い木の床に敷かれた布団に潜り込む翔に甲賀は声をかけたが、返事は無い。もう寝たのか。
 そんなところで寝たら、明日身体が痛くなるから、と自分が床に寝るつもりだったのに。自分は野宿に慣れているから、木の床だろうが石の上だろうがどこでも寝られし翌日に影響が無いから。
 そこまで考えて、どうして自分がここまで彼に気を使っているのだろうと我に返る。正紀にも、お前が誰かを助けるなんて珍しいと言われたばかりだった。
「確かに、らしく無いか・・・・・・」
 興味深げに呟き、甲賀は布団で眠る翔の身体を抱き上げ、ベッドの上に下す。
 こんな気遣いをしたのは、確かに生まれて初めて・・・・・・いや、そうではない。昔一度だけ、イル国の第二王子に、だ。
 今頃王宮にいるのだろう彼は、一体どんな成長を遂げたのか。あの時、剣を習うと張り切っていたから、案外筋肉隆々のたくましい男に育っているかもしれない。こちらに流れてくる噂といえば、イルの第二王子はなかなかの使い手だという事くらいだ。何のトラブルもなければ、夕日が今日謁見の間で会っているはず。
 折角イルまで来たが、今のところのスケジュールだと彼に会えるかどうか。まぁ、最後の最後には自分が克己だと名乗るのだから、会うくらいは可能だろう。
 10年前の記憶は曖昧で、日々多忙だった克己には彼の何となくのイメージしか残っていない。後は、何回か交わした手紙のイメージか。段々と彼の字が上達していくのを眺めるのは楽しかった。
 そうだ、その漠然としたイメージが、彼によく当てはまるのだ、とベッドで眠る今日出会ったばかりの相手を見た。多分、彼が旅をしているというのは嘘だ。彼くらいの容姿で旅なんてしていたら、いくら腕が立つといっても、誰か彼かに狙われ、そういう世界があることくらいは知っているはず。けれど、夕食の時の様子を見る限り、そういった素振りはまったく見せなかった。
 多分、この国に住む人間だ。顔を隠したいのは、この国に彼を知る人間がいるから。そう考えるのが普通だ。案外、王族の一人なのかもしれない。それで、思いを寄せていた姫が誰かに盗られるのが嫌で平民を装い、参加した。いや、そこまでは流石に話がぶっ飛びすぎているか。
 開け放った窓から涼しい風が入り、翔の頬に彼の色素の薄い髪が落ちる。それを払ってやると、翔がうっすらと眼を開けた。
「ああ、悪い。起こし・・・・・・」
「・・・・・・かつみさま?」
 は?
 突然自分の本名を言われたのだから驚くしかない。しかも、敬称付だ。
 ちょっと待て。
「お前、一体」
 誰だ、と問う声を思わず飲み込んでいた。翔はへにゃりと幼い笑みを浮かべてから、再び寝息をたて始める。どうやらただ寝惚けていただけらしい。が、こちらは寝るどころでは無くなってしまった。
 薄れ掛けていた記憶が、はっきりと形となってしまったのだから。
「嘘だろう・・・・・・?」
 彼の正体を知り、困惑し口元を覆っていた。
 何で、一国の王子がこんなところにいるんだ。こんな、正体の知れない旅武芸者と同じ部屋で寝たりして、一体どんな教育をされていたんだか。
 と、いうか。
 大切な人に同じような事を言われた事がある。
 十年くらい会ってない。
 そう翔は語っていたが、それは一体誰の事なのだろう。まぁ、彼とは長い事会っていなかったから、大切な人間の一人や二人出来ていてもおかしくは無い。自分も何度か婚約者を決めろと言われてきたのだから。だが、今まで貰った手紙にはそういった人物は出てこなかった。
 忘れられているかもしれないと淋しげに言った彼の顔に、そんな顔をさせる相手の顔を見て見たいとあの時思った。
「大きくなったな」
 幼い恋をしているらしい翔の頭を撫でながら、思わず苦笑していた。


 正紀は森の中を駆け抜けながら、後ろから人の気配が追ってくるのを感じていた。
 それを振り切ろうと、かなりのスピードで走っているつもりだが、なかなか相手も一筋縄でいかない相手のようだ。
 一体、誰だ。
 とにかく、隠密に動いている身だ。今誰かに見つかるのは不味い。
 木の上から下の茂みに向かって飛び降り、どうにか撒こうとしたが、相手の気配が頭上に移った時、やばいと本能が訴えた。
 キラリと銀色の光が闇を切り裂き、正紀の喉元に冷たい風が張り付く。
「お前、誰?国じゃあ見ない顔だけどな?」
 背後から聞こえた声と首に突きつけられているナイフを確認してから、正紀は両手を上げる。
「明日の大会に出る予定の人間です。散歩してたんだよ、この国初めてでさ」
「嘘だね。お前は大会に出る人間じゃないよ。俺は、お前の顔を見ていない」
 コイツ、大会出場者の顔を全部覚えているのか。
 自信満々の相手の言葉に正紀は舌を巻く思いだったが、ということは彼はこの国の人間だ。
「逃げるとか考えるなよ、痴漢」
 冷静に分析をしていたが低く笑う男の一言には流石にぎょっとした。
「ち、痴漢!?」
「あぁ、俺の主人の入浴シーンを見てくれたんだ。痴漢以外の何者でもないよな?」
「げっ!」
 あの少年には従者がいたのか。
 正紀は青ざめながら今頃彼と共にいる克己の事を考えた。そりゃあ、あの外見ならそれくらい付いていてもおかしくないか。
 気まずい沈黙を後押しするように、遠くから獣の遠吠えが聞こえてくる。
「お前の主人にも伝えておいてくれる?俺らの主に変な真似したら、命は無いよ」
 ヤケに軽い口調で恐ろしい事を言って、男は正紀の背から離れた。

 森の奥を進むと開けた場所に付く。大きな満月の下、ぽつんと佇む一つの影を見つけて更科は大きく手を振った。
「紬ちゃん」
 その声に気付いたのか、少年の頭にある大きな耳がひくりと動き、くるりとこちらを振り返る。
「更科、戻ったのか」
「ん。ただいまー」
 少年の身体を緩く抱き締め、丁度顔のところに来る獣の耳に口を寄せた。太陽の匂いがするその耳に触れるのが更科は好きだったが、紬はいつもくすぐったいと耳を震わせる。
「翔は?」
「宿に戻った。一応、警告もしといたよ」
「ったり前だ!翔の風呂覗くなんて、アイツ等許せない!」
 喉を鳴らしながら紬は怒りを露わにするが、そんな恋人の様子に更科は少し淋しさを感じた。
 紬と翔は友達だ。だから紬が彼を心配するのは解かるが。
「俺の心配は?」
「お前は大丈夫だろ」
 紬は恋人には厳しい。解かっているが、やっぱりちょっと淋しいので思い切り抱き締めてやった。
「更科!」
「俺の愛感じてくれてるー?」
「苦しいほどにな・・・・・・」
 ああ、もう。
 紬は軽いため息を吐いてから、上から落ちてきた唇を受け止めた。




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