涼しい風が頬を撫でる。あまりの心地良さに目蓋を開けるのが億劫だった。
けれど、意識の浮上と共に目蓋が上がる。透明な硝子の天井が、冷たく光っていた。
「・・・・・・ここは」
少し怠い体を持ち上げ、夕日は辺りを見回す。硝子の壁の向こうに、噴水が見えてそこでようやく意識が途切れる前の事を思い出した。自分が失神したと知ったら、我が王子はきっと嫌味な笑みを浮かべるだろう。
というか、ここはどこだ。そして何時なのだろう。確か、自分は王子の身代わりにこの国の王に謁見しないといけないというのに。
柔らかいベッドの上で頭を抱えていると、水差しを持った少年が部屋に入ってきた。
「お気づきになられましたか」
ほっとしたその表情は、やはり見覚えのある顔。
思わず、声を上げていた。
「ソラ!?お前、何でここに・・・・・・っていうか、お前逃げ出してきたのか?公務はどうした、公務は!全く、お前はいつもいつも」
肩を掴んでいつもどおり説教を始めようとした夕日を、少年は始め驚いたような眼で見上げていたが、すぐにくすくすと笑い始めた。
「俺は、空じゃないです」
「え?」
「俺の名前は陸。貴方の知っている空とは双子の、兄です」
「・・・・・・・へ?」
陸は自分が被っているフードをぱさりと落とし、夕日に満面の笑みを浮かべて見せた。確かに、顔の造形はほぼ同じだが、雰囲気や細かいところは異なっている彼は、嘘を吐いていない。
「俺と空が双子だと、聞いていなかったんですか?」
夕日の知る空は、イル国からの留学生だった。勿論、家族構成も頭には入れておいたが、まさか本人に会うとは思わないだろう、来た早々に。
「いや、聞いては、いたんだけど」
「俺がその兄です。弟がいつもお世話になっているようで」
陸がへこりと頭を下げ、夕日は慌てて頭を下げ返した。空とは全然違う雰囲気にただ戸惑うしかない。
「いえ、こちらこそ・・・・・・というか、すみませんでした、失礼を」
「気にしないで下さい。弟を知る方と出会えて嬉しいです」
もう、5年も会っていない弟の顔を思い浮かべ、陸は微笑した。その表情に夕日は思わず魅入ってしまう。同じ顔だが、何故か彼の顔は素直に綺麗だと思えた。空はあまり可愛いと思えるような言動をしない所為だろう。
同じ顔でも性格が違うとこんなに印象が違うものなのか。
「体、大丈夫ですか?軽い日射病のようでしたが」
「あ、はい・・・・・・お恥ずかしい限りで」
「ガーズは雪国ですから。うちの国の温度にはなかなか慣れないですよね」
陸が水の入ったグラスを夕日に渡し、それを夕日は大人しく受け取った。実際喉はからからに渇いていたから、ありがたい。
「ここは、どこなのでしょう」
きょろりともう一度辺りを見回すと、人気がないが、個人の家と言うにしては広すぎる。
「ここは教会の、俺の部屋です。ゆっくり休んでください」
「教会?・・・・・・貴方は、もしや」
「俺は、一応この国の神子を務めています」
陸の言葉に夕日は眼を見開いた。これが噂のイル国の神子。彼一人の力でこの国が守られているという、あの。
「そうとは知らず、色々とご無礼をいたしました、陸様」
慌てて頭を下げると陸がふるふると首を横に振る。
「いや、あの・・・・・・様なんてつけないで下さい。えと・・・・・・貴方は?」
大きな眼で顔を覗きこまれ、少々どきりとしたが夕日は顔を上げて深呼吸をした。
「俺は、ガーズの第二王子、克己と申します」
ここで自分の名前を名乗れないのが影武者の辛いところだ。この国に、克己として入国した以上は特別な事でもない限り、出国するまで名乗り続けなければならない。
夕日の名乗りに、陸は眼を大きくする。彼が、翔の言っていたあの王子なのだ。確かに、黒髪黒めで格好いい。初めて見たとき見とれてしまったくらいだ。
「ガーズの、克己様でしたか。お話はよく耳にします」
翔から。
翔が嬉しそうに話すことはいつも彼の事。彼が翔にとって大切な人間であることは陸も察せた。そんな相手を見つけられた翔が羨ましくて、微笑ましかった。
「光栄な限りです・・・・・・と、今は何時ですか?」
「夜の7時になります」
その陸の答えに夕日はがっくりと肩を落とす。王との謁見の時間はとうに過ぎていた。
「まいったな・・・・・・」
「あ、王宮の方にでしたら俺の方からお伝えしましょうか?」
陸の申し出に夕日はばっと顔を上げた。願ってもない申し出だ。
「すみません、よろしくお願いします」
神子である彼からの伝言ならば、王もそう悪い顔はしないだろう。暑さに倒れたなんて確かに恥だが、謁見を何の理由も無しにボイコットしたと思われるよりはマシだ。
陸は軽く頷き、部屋から出て行った。
それを申し訳ない気分で見送りながら、夕日はため息を吐いた。
「そっくりだけど、やっぱり少し違うな」
陸は、自分が知る人間の双子の兄だという。空は常に人を見下したような態度で可愛くないと常に思っていたが、陸は違った。
人柄が違うだけで、顔も違ってみえるものだ。その事に感動を覚える。
「今日はどうぞ、ここにお泊まり下さい」
陸がそう言いながら部屋に戻ってきた。その手には夕日の分らしい夕食を乗せたトレイが。
「何から何まで、すみません」
「いえ。俺も空の話を聞かせてもらおう、なんて思ってますから」
空とは手紙のやりとりをしているものの、もう何年も会っていない。まさか、彼が隣の国の王子と仲良くなっているとは思いも寄らなかった。
自分の友人、翔の想い人だ。彼は“想い人”という表現は否定するだろうが、傍から見たらそれ以外の何ものでも無い。
十年前のあの日、ガーズから帰還した翔が始めたのは剣術や武道。王はハラハラした眼で見ていたが、その心配は杞憂で、彼は気が付けば国屈指の使い手となっていた。
ガーズに行く前は、ただ哀しい眼をしていた子どもだったのに。
意思を持ち、精神的にも肉体的にも強くなっていく翔が陸は羨ましかった。彼を変えたのは、今目の前にいるガーズの王子。翔は今でもこの人に憧憬を抱いている。
「それに、噂の克己様に会えて光栄です」
確かに、翔が話すように優しく格好いい人物だ。陸が微笑むと、彼は頭に手をやり少し視線を落とした。
「こちらこそ、神子様に会えて」
「陸で良いですよ」
「それでは、陸様。俺に何か礼をさせては貰えませんか?」
え?
ふ、と夕日が微笑み陸は思わず胸元を押さえていた。
「礼なんて、そんな」
「いえ、私は貴方に助けていただきました、礼をするのが世の道理です。何でもお申し付け下さい」
そうだ、この人本当に格好良いんだ。顔も声も。
陸は少し忙しなくなり始めた心臓に手を置きながら、困惑の表情になる。
礼なんて言われても、困る。自分は神官で、与えるのが役目だった。与えられるのはあまり慣れていない。
「えと・・・・・・あの、ごめんなさい。俺、その、こういうの、慣れてなくて。よく、解からない、です」
「欲しい物とかは無いんですか?」
「あ、はい。特には」
あっさりとした陸の答えに夕日は茫然としていた。彼くらいの歳なら、何だかんだとお金がいくらあっても足りない時期だろうに。ついつい思い浮かべてしまった陸の弟は、アレが欲しいコレが欲しいと給料が足りないとよく嘆いている。双子なのにここまで違うものだろうか。
「あ・・・・・・」
そこで陸が何か思いついたように声を上げたから、夕日は彼に視線をやる。何か思いついたのか。
けれど、陸は口元を押さえて首を横に振る。
「いや、何でもないです」
「何か、思いつかれたのでは?」
「や、えと・・・・・・お願い、なんですけど」
きゅ、と唇を引き結び彼は少し哀しげな顔になった。それに夕日は笑みを浮かべて見せた。
「何ですか?」
「・・・・・・っお願いします!俺が一人で外に出ていたこと、誰にも言わないで下さい!」
今にも土下座をしかねない陸の剣幕には流石の夕日も呆気にとられた。
「陸様?」
「お、俺、本当は一人で外に出ちゃいけないんです。でも、久々のお祭りで、俺も見てみたくて・・・・・・」
「お祭り?」
ああ、武道大会の事か、と夕日は彼の言葉を解釈した。確かに街はお祭り騒ぎ。ここは街から離れているからか、騒ぎは聞こえてこないけれど。
「お願いします。王さまにも、翔にも迷惑かけちゃうんだ・・・・・・知られたら」
ぎゅ、と自分の服を強く握り締めながら陸はようやく自分の望みを口にした。こっそり抜けてきたのがばれたら怒られる。自分だけじゃない、自分の護衛を公式に任されている翔にも火の粉は飛ぶ。でも、それでも外に出たかった。
陸の言葉の意味を夕日がすべて理解出来るまで数秒はかかった。どうしてその程度で怒られるんだ、と心の中で呟いてから、思い出す。神子は教会の外にはあまり出ないという情報を。
こんな少年が、国の為に教会に自由を奪われ、縛り付けられているという事実を。
「・・・・・・解りました」
「え?」
ぱっと顔を上げた陸に、夕日はにこりと笑った。
「国王に俺から頼んでみましょう。祭り見物が出来るように」
「え、克己様・・・・・・?」
彼の笑顔と言葉の意味を察するまで陸はしばらくぽかんとしていた。でも、彼の申し出にすぐに慌てた。
「そんなことしたら、克己様が怒られますよ!」
「大丈夫ですよ。おまかせ下さい。それとも、俺にはそれくらいの願いを叶えるほどの力がないと?」
「そういうわけじゃないけど・・・・・・・でも」
「でもじゃない。外に好きな時に出て遊びたいってのは、陸様くらいの年齢だったら普通のことだ」
夕日の力強い言葉と笑顔に、陸は今まで感じた事のない感情を覚える。
どきどきするけれど、あたたかい。
「有難う、克己様」
陸の満面の笑みは、今までの洗練された神聖な笑みとは違い、年相応の少年の笑顔だった。
口にされた名前が自分の本名じゃないことが少し残念だったけれど、この笑顔が見れただけいいか、と夕日は思った。
「一体、どういうことなんだ」
深夜、虫の声しか聞こえない森の中で、克己はため息を吐くと、背を預けた木の上から声が降ってきた。
「そんなの俺に聞くなよ。ウチの王様が破天荒なのは前からだろ?」
確かにそうだ。そしてその気質は彼の息子3兄弟全員に受け継がれていると言われているが、その自覚は無い。だが、まさかこんなことを父がするとは思わなかった。これでは、自国の戦力が大方この国に集まったという事になる。
「俺に王子に夕日さんに、夕日さんなら星夜さんも連れてきてるかもな。が、イルに集まった。まぁ、まだ国にはいずるも空くんも他大勢いるから魔族が攻めてきても大丈夫だとは思うけど」
むしろ、ソレが狙いだったのかもしれない、イル王は。彼は老いが進み、若い頃は最強を誇っていた魔力も衰え始めているのを克己はこの国に来てからずっと感じていた。初めて会った時には溢れんばかりだったイル王の力が、今はあまり感じない。イルを守る結界もそれに影響されてか脆くなっているようだ。魔族が、そこを狙わないはずがない。
「この間叩きのめして来たから、そうそう攻めてこれないだろう」
自国の方は大丈夫だ。だが、イルは少々危ないところだ。
彼もそう感じていのか、木の上からため息が聞こえてきた。
「・・・・・・魔族はイルとガーズが仲良くなったのをあまり良く思ってないぞ、王子。ここで何か仕掛けてくるかもしれない」
「ああ、気をつける。篠田、夕日にも言っておけ」
木の上に居た青年は了承の意としてガサリと葉を鳴らした。
「そいや、あの一緒に行動していた可愛い子は誰だ?」
「ああ・・・・・・武芸者らしい。それなりの腕はあるようだ。絡まれているところを助けたら懐かれた」
「まさか、お前がガーズの王子ってバラしてないだろうな」
「まさか。もしかしたらアイツも俺を狙っている刺客かもしれないしな」
「・・・・・・それは、無いと思うけど」
敵意とかそういう気配に、魔族と戦っているうちに自分達は敏感になっていた。だが、あの少年からはそういった気配は感じられない。
だから克己の方も黙って側につかせているのだろう。
「に、しても克己様が見知らぬ人間助けるとはねぇ」
「・・・・・・何が言いたい、篠田」
「いんや。後でいずるに話したら面白くなりそうだなーっと思っただけ。じゃーな克己様」
笑いを含んだ声を残し、彼は持ち場へと帰っていく。篠田正紀は克己と長い付き合いのある騎士だ。闘士ではあるが、それなりの腕と魔術師であるいずるとの連係プレーは克己一人以上の力を発揮する。一応、腹心の一人ではあるが、だからこそ時々自分でも気付いていないこと自分の本心を先に悟られることもしばしば。厄介な部下ばかりだ。
「そうだ、克己様」
突然、上から木の葉と共に正紀の顔が降ってきた。去ったと思ったのにまだ居たのか。
「何だ、篠田」
「西の方にちょこっと歩いてくと、いーもの見れるぜ」
「・・・・・・いいもの?」
正紀はフフンと人の悪い笑みを浮かべて姿を消した。
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