開けてはいけないパンドラの箱がこんなに身近にあるなんて。
 詞生は自分の取った行動を心底後悔していた。





「にーちゃん、辞書貸して」



 と、実兄の部屋を開けたら誰も居ない。
 
 出直そうかなぁと思ったときに彼の机の上にノートが置かれているのに気が付いた。
 
 ご丁寧に綺麗な字で『日記』と書かれて。


 あの兄が日記なんてつけていたのか!


 好奇心にまけて震える手でそのノートを取った。

 詞生と実兄恣広は8歳の歳の差はあったが仲の良い兄弟だ。大学四年の兄は今公務員試験の勉強中。

 今日も幼馴染で親友でもある佐伯一貴と共にどこかの図書館で勉強しているだろうから、当分帰ってこないだろう。

 ちょっとぐらいならいいだろう。

 詞生は悪戯心半分好奇心半分で大学ノートを開いた。

 日記にしては日付が飛び飛びだなぁ、と思いながら文章をなぞる。



6月23日 アイツの顔を見るたび妙な気分になる。俺もどうかしている。



 おお、あの兄貴の恋愛話か。

 ちょっとウキウキしながら一字一句逃さないように綺麗な字を見つめた。

 多分、観月泉という兄の彼女のことなのだろうけれど、何だかドキドキしてきた。



6月30日 アイツのことを思い出すと胸が苦しい。俺は本気なんだろうか。



 本気だよ、本気だってアンタ!!

 心の中で絶叫してしまった。

 下手な恋愛小説よりドキドキするなぁ、と思いつつ次のページをめくる。
 


7月4日 あんな無垢な笑顔を見せられると自分が凄く汚い人間だと思う。
      でも、アイツをこの腕に抱きしめたいと思う。無理に決まってるのに。



 最初ッから諦めるなよなー。

 恣広に会ったらさり気無くアドバイスしてやろうか。うん、そうしよう。

 そう思いながら次の文を見て硬直した。



   詞生が好きだ。



「って俺かよ!!」


 それはもうキレのいい突っ込みだった。観客が居ないのが残念だ。

 思いがけない事に詞生はパニックになっていた。

 
 あの兄が、自分を、好きだと。


 気が付かなかった。そんな素振りは全然見せなかったし。

 いつも明るい能天気な兄貴だとばかり。

 文章からは切ない恋心が溢れていて、正直どんな顔で兄に接すればいいのかわからない。
 
「あれー?詞生なにしてんの?」

 タイミングがいいのか悪いのか、恣広が帰ってきた。

 その時の詞生の驚きを察せる人は少ないだろう。

 心臓が口から飛び出すという表現を詞生は身を持って知った。

「ににににににににににーちゃん!!」

「おー、ただいま。何してんの?」

 ノートを慌てて恣広に気付かれないように元の位置に戻し、笑顔を取り繕う。

「英語の辞書、貸して」
「勉強か?偉いな」

 自分と同じ色素の薄い髪を持つ詞生の頭を撫で、恣広は本棚に置いてあった辞書を渡してくる。

 優しい兄。

 気付かなかった振りをしよう、と詞生は心に決めた。








「なぁ・・・・・・一貴」

 恣広はいつものように幼馴染の佐伯一貴と大学の図書館で勉強をしていた。

「何だ、恣広」

 佐伯は本から目を上げずに返事をする。

 彼と恣広は見た目も性格は全く違うが、それが良いバランスを作っているのか幼馴染兼親友と長い間友情関係を作っていた。それはこれからも変わらないだろう。

 そんな気心の知れた相手だから、ついでに弟の存在を知っているから話せることだ。

「最近、詞生の様子が変なんだ」

「変?」

 ぴくりと佐伯が反応する。

「どういうことだ。お前、アイツに何か言ったのか」

 彼の機嫌が下降しつつあるのを恣広は素早く察し慌てて首を横に振った。

「言ってねぇよ!っていうか誰が言うか馬鹿!」

 思わず声を荒げてしまった恣広を咎めるようにどこからともなく「しーッ」という声が聞こえてくる。

 ここは図書館だ。

 思わず口を押さえる恣広に佐伯は呆れたようにため息をつく。

「じゃあどういう風に変なんだ?」

「それが、どっかよそよそしいんだよな」

 気を取り直して彼は思いつく限りの事を言ってみた。

 一緒に風呂に入ろうかーと冗談で言ったら過剰な反応をされた。

 可愛いなぁといつものように抱きついたら硬直された。今まではそんなことなかったのに。

「お前アイツに今までそんな事をしていたのか・・・・・・ッ!」

 堪らず佐伯はブラコン男の首元を掴み上げていた。その手が怒りに震えていたのは多分気のせいではないだろう。

 普段、クールだとか硬派だとか言われている男が怒っているところは結構怖いが、幼馴染の恣広には対して恐怖を与えられなかった。

「だって兄弟だもーん」

 意地の悪い笑みが憎らしい。

「悪いけど俺は邪魔させてもらうぜ、一貴。詞生は可愛い弟だ。無愛想で可愛いとはお世辞にも言えないお前になんかやれるか」

 これは返す、とばかりに恣広はノートを机の上に置いた。

 日記、と書かれた大学ノート。

 見覚えのあるそれに佐伯は手を伸ばす。

「・・・・・・正直に言えと言ったのはお前だ」

 お前、俺の弟が好きなんだろう?答えろ。

 そう言って佐伯の答えを求めたのは恣広だった。で、その返答として時々書いていた日記を渡したのだ。

 恣広の弟である詞生に、佐伯は好意を抱いていた。

 幼い頃から顔なじみで、初めて会った時は女の子かと思った詞生は成長した今でも充分に可愛い顔立ちだ。

 色素の薄い髪にくりくりした目は小動物を思わせる。兄がブラコンになっても仕方が無い。

 しかも、幼い頃からヴァイオリンを奏で、今ではその業界では知らないものは居ないという腕前。

 高校も有名音楽校に進学が決定しているとか。

 そんな高嶺の花に手を出せるわけが無い。告白なんて考えても居なかった。

 柄じゃないが忍ぶ恋で満足していたのだ。

「まぁ、近付くなとは言わないからさ」

 突然お願いモードの目になった恣広に佐伯は眉を寄せていた。

「詞生にさぁ、それとなーく何で俺を避けるのか聞いてみてよ」
 









「あれ?佐伯さん?」

 チャイムが鳴って玄関を開けると顔なじみの長身の男が立っていた。

 短めの黒い髪に鋭い黒い目。

 彼は自分を見るといつものように意地悪い笑みを浮かべた。

「恣広にノートを渡しに来た。お前は随分暇そうだな」

 引っかかる物言いはいつもの事。

「暇じゃないもん!新しい曲だって始まったんだから」

 次の新しいヴァイオリンの曲はオーケストラをバックにした独奏だ。

 母親の影響で始めたヴァイオリンが自分でもまさかここまで成長するとは思わなかったのだけれど。

「そりゃ良かったな」

 リビングのソファに座る佐伯はいつものように無関心な返事をしてくれる。

 いつものことだから慣れたものだけれど、やっぱり何となく悔しい。

 ストイックなイメージを持たせる佐伯は幼い頃から大人びた雰囲気を持っていた。自分は今中学3年だが、彼が中3の時より子供っぽいことは自覚している。因みに身長も無い事を。

「相変わらずチビだな」

 かなり丁度いいタイミングの佐伯の一言に本気でショックを受けた。

「お、俺はこれから伸びるタイプなの!」

 ヴァイオリンを弾いている立ち姿も長身のほうが見栄えがいい。だから佐伯に言えば無駄だと言われるだろう努力もしている。

 そんなことも知らずにこの人は!

「詞生、お前、最近恣広に冷たいんだって?」

「ほぇ?」

 佐伯への怒りを燃やしていた時にいきなり話題を変えられ、変な声を上げてしまった。

 それに恥ずかしさを感じたけれど、その内容にも顔を紅くする。

 気付かない振りをしようとは決意したけれど、そんな器用なこと中学生の詞生がこなせるわけが無い。

「冷たくしてるつもりはないけど・・・・・・」

 どうしても接触してしまうと意識してしまう。

 顔を可愛く紅く染めて俯く詞生に佐伯は眉を顰めていた。

 まさか、あのヤロウ言っていた以上の事をやったんじゃないだろうな。

 出された麦茶の入ったグラスを割れそうなくらい握り締め、ブラックなオーラを漂わせた。

 けれど詞生はそれに気付かず何だか落ち着かない気分になっていた。

「あ、あのさ、佐伯さん・・・・・・」

 相談できるのは多分この人しか居ない。

「にーちゃんがね、お、俺のことす、す、好き・・・・・・なんだって」

 次の瞬間、佐伯が思い切り咳き込んだ。






「恣広―――!!」

 待ち合わせの喫茶店に殴りこむ勢いでやってきた佐伯に恣広は何も知らない笑顔で手を振った。

「おお、一貴。どうだった?」

「どうだった?じゃない!お前、詞生に何言った!」

「はぁ?」

 なんだか判らないが佐伯はかなり怒っている。

「詞生はお前が自分を好きだと知ったから気まずかったそうだ。どういうことだ?」

「えぇぇぇ!?」

 佐伯は怒り心頭、という感じだが恣広のほうにそんな感情の心当たりが無い。

 確かにあの弟は可愛い。けれど恋愛感情まで抱いた覚えは無い。第一自分には彼女がいる。

 だから本当に間抜けだとは思うがこう聞き返すしかない。

「どういうことだ?」

「俺に聞くな!」

 取りあえず二人で話を聞こう、と詞生のいる家に帰ることにした。

 道すがら、先立って歩く佐伯の背から怒りが漂ってきて久し振りに怖いと思う。

 詞生の話次第でもしかしたら明日の太陽は拝めないかもしれないな、と沈みかけの夕日に今生の別れを密かに呟いた。

「ただいまー」

 とりあえず身に覚えがないのでいつものように敷居をまたぐがそれが気に入らなかったらしい佐伯に睨まれた。

 視線で人が殺せるのなら恣広はもう5回は死んでいる。

「あ、お帰りなさい」

 大き目のスリッパを履いている所為かぱたぱたと音を立てながら詞生が出迎える。

「詞生〜v可愛いなー」

 といつものように抱きつこうとした恣広の後頭部を佐伯が容赦なく叩いた。

 文句を言ってやろうと振り返ろうとしたが、鋭い目に「早く聞け!」と急かされる。

 仕方ない。何か佐伯の恋の手助けをしてやっているような気が。

「なぁ、詞生。俺は確かに詞生のことは好きだけど、それは兄弟愛だぞ?」

 突然の言葉に詞生は大きな目をきょとんとさせて小首を傾げた。

 その仕草は後ろの男の理性を揺るがすから止めておけ。

「恋愛感情を抱いた事は一度も無い」

 きっぱり告げると詞生はほっとしたような表情になるが、けれどすぐに戸惑いの顔に変わる。

「で、でもさ・・・・・・」

「ん?」

「あの日記・・・・・・」

「日記?」

 詞生の台詞に素早く聞き返したのは佐伯だった。

「日記?俺日記なんてつけてないぞ」

 恣広にしてはやっぱり心当たりが無いことで、身の潔白を主張してから「あ」と声を上げる。

 心当たりを恐る恐る振り返ってみると、彼も同じ可能性を思ったらしく硬直していた。

 常に無口な人間は硬直した時にそうだとは気付かれないから得だ。

「え、ごめん、にーちゃんの机の上に置いてあるヤツみちゃったんだけど・・・・・・青い大学ノートで」

「・・・・・・表紙に日記って書いてある?」

「そうそう!」

 あっは、ビンゴ☆

 詞生が力強く頷いた時、恣広は心の中で笑うしかなかった。

 もう駄目だ。自分の命は今日限りだ。

「にーちゃんじゃないなら、アレ誰の・・・・・・?」

 いろんな意味で不安そうな詞生の一言に、ここで上手い事を言わないと本気で殺されると思う。

「あ、あれな、あれ、えーと、えーと!!」

 しまったー。思いつかないー。

 成績はそんなに悪くないが、アドリブには相当弱い恣広だった。

 笑顔で誤魔化していると後ろで疲れたようなため息が聞こえる。

「詞生」

「ん、何?佐伯さん」

「あれは、俺のノート」

「・・・・・・え?」

 あまりにも冷静であまりにもあっさりした告白だった。

 突然の事に恣広はアゴが外れそうな程に口を開け、詞生は上手く理解できなかった。

 さっきまで思い切り自分をからかっていたこの相手があの日記の持ち主。

「え・・・・・・とそれって俺をからかって・・・・・・?」

「違う。本気」

 告白してる彼は冷静で、告白されている詞生の方が動揺している。

 なんて返事をしよう。なんて答えればいい?

 ぐるぐる考えてると佐伯はいつものあの意地悪い笑みを浮かべた。

「返事は要らない。と、いうか欲しくない。このことは忘れろ」

 そう言って彼は「じゃ」と手を軽く振って出て行く。

 残された兄弟は茫然としたまま父親が帰ってくるまで玄関に立ち尽くしていた。




「どうするんだよ・・・・・・詞生」

「ど、どうしようもないじゃん・・・・・・」




 その後、恣広は殺されはしなかったものの日記のあまりにもずさんな扱いにかなりの報復を受ける事になる。



一応終。




この二人くっつくまで4年くらいかかるかと思われ。