※5の続き。
6.キス後の沈黙
彼がこんな空気を苦手と思っていることは何となく気付いていた。
別にそんな空気を作った覚えは無く、自然とそんな雰囲気になったというのに、翔がそれに流される事無く硬直するのを克己はただ見つめていた。流されれば楽だろうに、そうして我に返るから恥ずかしくなるんだぞ、と言ってやりたいが、そんな反応を見るのも楽しいので言わずにいる。言わずにただ、その空気を保ったままで相手を観察するこの時間は一興だった。
意地が悪いとたまに言われるが、恐らく今の自分の選択は正に意地が悪い。自覚はある。それでも、愛のあるイジメなら良いじゃないかと自分の中で言い訳をしていた。愛があれば、この程度なら許されるはず。まず、相手に気付かれていないのだから根本的に“イジメ”とは言わないはずだ。イジメは相手がイジメと思ったらイジメだというのは、一時期苛めが社会問題になった時に広まった標語だ。それは何とも曖昧で個人の判断に委ねられ過ぎている基準だが、今の自分達の場合その“愛”でイジメと判断されずにいるのだろう。だが、その“愛”を過信して“イジメ”を許しすぎたのが所謂DVというものになる。
“イジメ”より“愛”の方が曖昧で個人の判断に委ねられ過ぎている表現かも知れない。そんな事を考えながら、未だ戸惑ったような表情をしている愛あるイジメの標的を観察し続けた。一瞬の表情も見逃したくない、という思いもあり、まぁ、そんな事はまず物理的に無理な話なのだが、許される限りは見ていたいと思うくらいは彼の顔は好きだった。どことなく困惑と気難しい表情を混ぜた表情に、何か無駄な事を考えていそうだ、と思い、何を考えているのか少し気になった。ようやく苛められていると気付いただろうか?しかし、それならば彼の気性なら容赦なく異論を口にするはず。
まぁ、単純にこの体勢に困惑しているのだろう、と思ったところで考えすぎて疲れたのか、翔の口から細いため息が漏れる。どうにかして緊張を紛らわそうとしているのが可愛くて、つい先ほど自分が額に貼ってやった絆創膏に軽くキスをすると、その体が硬直し、驚いたように目を見開いて克己を見上げる翔の目と視線が合う。その目に、小さく笑って見せた。
「で、そろそろキスしても?」
待ちくたびれたように言うと、翔の大きな目が更に見開かれる。前々から思っていたが、彼の目の色は一般より薄い茶色のようだ。おかげで黒に近い丸い瞳がくっきりと見える。
「で、って何だ!で、って!つか、い、今しただろ、キス!」
緊張と驚きでガチガチになった声で、それでもしっかりと異論を口にする彼はこんな状況でも彼らしかった。しかし、額のキス程度を“キス”に括られてはたまらない。この程度、一般的に恋人でもない相手に出来る程度なのだから。そんなキスでも顔を赤らめるのは可愛いことこの上ないが。
「いや、何か考えているようだったからな……別のことに気をやってる相手に手を出すのは若干ルール違反だ」
特に、自分の事を必死に考えてくれている時間を邪魔するのは自分にとってもマイナスになるような気がする。と、いうかもっと自分のことを考えてほしいものだ。
「変なところで硬いな、お前」
翔の方はそんな克己の下心には全く気付く事無く、少し違う解釈をしたらしい。微苦笑を浮かべ、少し緊張が解けた彼にすかさず言葉を口にする。
「……単にこういう時は俺の事を考えていて欲しいというだけだが」
緊張が解けたところで、こんな事を言う辺り、自分も本当に意地が悪い。ただ折角の空気は逃したくなかっただけだったが、翔の方は白い肌が耳まで一瞬にして朱に染まり、俯いた。可愛い朱だと思う。彼の白い肌がこの国の人間の基準とは離れている、つまりは他国の血が混じっている可能性には早々に気付いていたが、彼自身はその可能性を知らないらしかった。言う必要もないだろうし、彼と自分の関係にそれは全く関係の無い事だ。だが、どの程度の割合かは解からないが、真っ白とも違うその肌の色に朱が混じるこの色は彼しか持ち得ない色だろう。
困惑に震える睫毛も長めの髪も色素が薄く、全体的に放っておいたら消えてしまいそうな儚さを感じさせる瞬間がある。彼の中性的な容貌と、思春期という危うい年齢もそれを増長させているのだ。男と女、青年と少年、どちらでもあり、どちらでもない、そんな線引きのしにくい状態は鮮烈な美しさを放つ事がある。成長と共にまた変わってくるだろう彼の姿はまた自分を楽しませてくれるのだろうな、と歳が近いというのに、恋人の成長を楽しもうとする自分はまるで古典時代の色男だ。
「……考えてるよ」
克己の方は下らない事を考えて心の内でにやついていたというのに、唐突に聞こえた翔の声は真剣だった。静かで、音量もそう大きなものではなかったが、どこか揺ぎ無い音だ。
「考えてる。ほんと、マジで、考えすぎて緊張しすぎて、どうしていいのか、解からなくなるくらい」
一つ一つしっかりと言葉を口にする彼からは先ほどまでの儚さとは正反対の強さを感じた。こんな時にそんなものを感じるのはおかしいかも知れないが。
それでも、言い終わってからなにやら助けを求めるように見上げられ、それに何となくホッとしていた。
まだ、自身が持つ強さと気高さに気付かず自分を頼ってくれる彼に。
確かに、今はまだ彼は克己より戦闘能力も知識の面でも劣るところがある。が、そんなものは別に彼自身が備えていなくてもいいのだ。彼の周りの人間にそれを備える者が居れば、それは彼の力になる。知識の面ではすでに佐木遠也という最強の友がいる。沢山の友に囲まれれば、様々な知恵や行動を近くで学べ、自身の力になり、成長する。友人の多い翔は今後飛躍的に成長する可能性が高いのだ。その成長の手助けを自分もしているという点は、別に良い。が、順調に成長した彼に魅かれる人間は多いだろうという予感には眉を顰めてしまう。今はまだ、克己のことを尊敬すらしていてくれるようだが、自分以上の知識や戦闘能力を持っている人間はこの世には沢山いる。そんな人間と出会い、翔の目がそちらに行く可能性も無いとは言い切れない。
だから、今のうちに他の事を考えられないくらいに、自分の事を考えさせたい。そんな予防線を張っていることに、きっと翔は気付けていないだろう。
今でさえ、少しでも目を離したらどこかへ行ってしまいそうだという不安があるのに。
じっと見つめると、それに気恥ずかしさでも感じたのか翔の眉が下がり、唇が引き結ばれた。戸惑うように降りた目蓋と僅かに震える睫毛はもう犯罪的だった。誘われているわけでないというのは解かっている。彼にそんなスキルがあるわけがないし、そんな方法を自分はまだ教えていない。たまに余計な知識を得てくる時はあるが、それは大方隣室の悪友達の仕業だ。仕業、というよりも悪戯もしくは嫌がらせだろうが、そんなものに簡単に引っ掛かるほど柔な理性でも経験不足でもない。それより、翔の無自覚行動の方がよっぽど破壊力があるのだから。
強く閉じられた目に、翔がある程度これから起こる事に構えたことを察し、遠慮なく緊張で硬くなっている唇に触れた。ぴくりと震えたそれから一度離れ、もう一度触れると今度は少し緊張が解け、柔らかい唇に迎えられた。
太陽の匂いがする。
彼を抱き締めたり近距離まで接近するといつも鼻を優しくなでるこの香りが好きだった。たまに駆け巡る激しい衝動を押し止めるのはいつもこの香りだ。この匂いはとにかく自分を落ち着かせる。けれど、逆に意識的に沈めている熱い欲望をかき乱す要素を持つのもこの匂いだった。
優しくしたいのは山々だが。
ふっと鼻から漏れる呼吸が僅かに聞こえ、徐々に翔の体から緊張が解けていくのを感じる。薄く目を開けると、重ねた時は寄っていた眉間からすでに皺が消えていた。チャンスと言えばチャンスだ。
心の中で小さく謝罪の言葉を呟いてからすっかり警戒を解いた唇を浅く舐め、驚きに開かれたそこからどうにか侵入を果たす。驚きに開かれたのは何も唇だけではない。彼の大きな目もまた大きく見開かれた。優しいキスに薄紅くなっていた目元は真っ赤になる。それでも、唐突な事に驚いた体はすぐに力が抜け、再び目蓋は閉じられた。自分の暴挙が許されたことにホッとして翔の舌を絡め取り、口内での熱い侵略とは正反対なくらい穏やかに翔の手を握る。握り返された手は熱かった。
可愛いな、本当に。
必死に答えようとする健気な姿に口元が歪みそうになった。本当に、愛しくてしょうがないんだがどうすればいい?と誰かに無性に相談したい気分だ。相談したところで、解決方法が見つかるわけでもないのだが。
貪りつくしたい衝動をどうにか堪え、翔からしてみれば散々貪りつくされた唇を解放しゆっくりと腕の力だけで離れる。この時目を開けるのには一種の覚悟が必要だ。
「はぅ……ぁ」
長いキスで足りなくなっていた酸素を求め喘ぐ声だけでもなかなか官能的であるというのに、目を開けるとそこには慣れない快感ですっかり出来上がってしまっている翔が、焦点の合っていない涙の溜まった目で克己を見上げているのだから。
薄紅くなった顔と、濡れた真っ赤な唇にぐらりと理性が揺れるが、その頭を撫でて自分の精神も落ち着かせる。それだけでは揺らぐ心は平常に戻らなかったので、ついでに怒りに光る天才の眼鏡を思い浮かべてみた。
抱き締めた体は細く、小さい。女性のそれとは違うことは容易にわかるが、女性のそれよりずっと抱き心地が良い。肩口に擦寄られた拍子にまた、太陽の香りがした。
「……つみ」
そろそろと背に腕を伸ばされたのが解かる。必死にしがみ付こうとする手が克己のシャツに皺を作り、それに答えるように僅かに克己も腕に力を入れた。その時だ。
「すき」
どことなく幼い声で、何の抵抗も無いようにすらりと言われてしまった。
思わぬ音に思わず硬直してしまう程度には、自分は彼に惚れているのだろう。今時、「好き」なんて言葉くらいで動揺なんて、小学生でもしないだろうに。普段、見知らぬ女子にそんな事を言われたくらいでは心は全く動かないのだ。なのに、同じ言葉だというのに、何故、こんなに。
思わず彼を引き剥がしてしまい、そんな自分の反応に翔がきょとんとした目で見上げてくる。
「……克己?」
どうした、という問いを投げかけられる前にその唇を塞いで言わせなかった。聞かれたら答えなければいけなくなる。しかし、唇を離した後の沈黙が、痛い。
「……もしかして、照れてたり、すんのか」
呆気に取られたような翔の言葉は的を射ているようで、少し外している。
「そうじゃない」
「じゃあ、」
「俺も、どうしていいか解からなくなる時くらい、ある」
これが照れから来るものなのか、それとも驚喜から来るものなのかは問題ではない。問題は、色々なことがギリギリな状態で、訳が解からなくなり頭が真っ白い状態になることだった。つまりは、理性がその一瞬消え去るということだ。そうなったら、自分がこの細い体に何をしてしまうか自分でも予測しきれない。一度外れたタガを元に戻すのも相当難しいのだ。
常に己を保っていたい身としては、自我や理性を失う瞬間が最も恐ろしい瞬間で、愛しい相手には最も見せたくない姿だ。
「だから、あまり言うな」
「……言われたくないのか?」
どことなく哀しげに問われ、克己はゆるりと首を横に振る。
「嬉しすぎてお前に何をするか解からない」
瞬間、翔の目が見開かれたと思えば、その顔は枕に半分埋められた。
「いや、つーか何、えー?えぇー?俺の方がどーすればいいの……」
「翔?どうしたんだ」
「照れていますっつーか!あぁ、もう!」
ぐぃ、と襟元を掴まれ、引き寄せるその力はなかなか強い。彼も武術をやっていたんだった、と改めて思わされる。こんな細い腕にどこからそんな力が。そう思った時すでに、翔の顔が真正面にあった。目が合うと、ほんのりその目元が紅くなり、困惑するように薄茶の瞳が動く。そして
「……俺は、克己なら何されても、いい……ぞ」
最も恐れ、一番求めていた言葉をとうとう言われてしまった。
(*´∀`*) |