5.緊張しすぎて
雰囲気を作られるのは、物凄く苦手だ。
俗世間で言う、ムードたっぷりとか、雰囲気作りとか、可愛い女の子相手になら多少は頑張っても良いと思う。女の子はむしろそういう空気が好きだ。ムードさえ上手く作ってもらえると、結構安易に体を許しがちらしい。そこで我に返って拒否するのは、いわゆるKY、って事になってしまうんだろうけど。
でも俺はそんな雰囲気を作られるのが物凄く苦手で、でも俺の恋人はそういう雰囲気を作るのが物凄く上手かったりする。ここで流されたら楽なんだろうけどな、と思いながら額のキスを受けた。
さっきまで、単なるじゃれあいみたいなキスだったんだ。そういうのは、好きだ。抱き締められたり抱き締めたり、顔に軽いキスなら全然緊張なんてしない。そういうのは、多分まだ親愛や友愛の域を超えていないからだと思う。でも気付いたら、さっきまでの笑い声や会話が止まった。止めてしまった。
しまった。
今から笑ってもおかしくないだろうか、いや、確実におかしいんだけど、でもここで笑わないと何か良い雰囲気が出来上がっちまう!っていうか既に出来かけている!!
そう自覚して一気に駆け上がっていくのが俺の緊張メーターだ。そんなものがあるとしたら、きっと今は最高まで昇っていったに違いない。
どうしよう。
この状況、ベッドに押し倒されて上から相手に見下ろされている状態でそんな雰囲気になってしまったら本当に大人な時間に突入するしか選択がないじゃないか。大体なんでこんな体位になってしまっているんだ、俺が柔道の技の話題を選んだからだちくしょー!
部屋に帰ってきてからの話題は、今日の実技テストだった。それがよりによって柔道だ。剣道や合気道だったらこんな話題にはなっても、こんな体位にはならなかったはずなのに……!しょうがないだろ、だってフローリングの上で技かけたらお互い怪我する確率高いし!
そんな、どうでも良い事を思い出しながらどうにか緊張で熱くなりかけている体を冷まそうとした。きっと、俺の顔すっげぇ真っ赤なんだろうなー……って、それじゃあ俺自身ムード作りに手を貸してしまっているじゃねぇか!
「……翔」
名前を呼ばれ、思わず肩を揺らし、目を強く瞑る。恥ずかしくてもう克己の顔なんて見てられない。いや、別に俺何かしてるわけでもないけど、これから起こる事を予想すると恥ずかしすぎる。
思わず唇を噛んだ時に額に克己の指先を感じた。それがスッと横に動いたその感触だけで声が上がりそうになる。俺の体は空気読みすぎだ。普段ならそんな程度でそんな変な感覚感じないのに。わずかに震えた肌に、克己の指の動きが止まり、そして
「お前、ここ擦り傷出来ているな」
……へ?
普通の声でそう言われ、はっと目を開けるともう俺の目の前に克己はいなかった。机の方に行き、救急箱を片手に戻ってきて再び俺の前に鎮座し、テキパキと手馴れた動作で手入れを始めた。茫然としている俺の額に消毒薬で湿らせた脱脂綿が触れ、確かに僅かな痛みがあったが、その程度の痛みなら大して重症では無いことはすぐ解かる。つーか、俺としては無視して欲しかった程度の傷だった。
急な雰囲気の展開についていけず、ただぽかんとするしかない俺の額に絆創膏を貼り、克己は満足そうに「よし」と小さく呟いている。気付けば、俺は壁に背をもたれ、もうベッドに寝かされてはいなかった。
……一体、どうすれば良いんだろう。
今度はさっきとは違う困惑に眉を下げた。このまま、何事も無かったように礼を言い、何事も無かったかのようにおやすみ!と言って終わらせるか、それとも、それともあのむず痒い空気に戻すか。選択肢に加えてみたが、後者は方法が解からない。
俺は、そういうムードを作るのが苦手だった。
一度、それくらいのスキルは持っていた方が良いと、確か篠田か矢吹辺りに口頭でそんな方法を聞いたことがある。断じて、俺から聞いたわけじゃないんだけど。何て言うんだろう、その、さ……誘い方?昔観た映画では、女の人がベッドに裸になって待ってたりとか多分そんな感じの方向で間違っちゃいないんだろうけど。でもそんな事したらぶっちゃけ引くだろ!俺だって引く!大体ああいうのは、肉欲的で蠱惑的な肉体を持つ女性だからこそ良いはずだ。多分、薄いシーツごしでも解かるあのむちむち感が魅力的なんだろう。男の、しかもその中でも痩せっぽちな俺には胸もないし、むちむちは無理だ。頑張ってムキムキだろ。でも絶対克己の好みはムキムキではないはずだ。それが好みだったら俺なんて多分選んでない。もっと「兄貴と呼べ!」的ムキムキが周りには沢山いる。軍だから、銃弾跳ね返す勢いの筋肉は珍しくない。だから、そんな自信はあるんだけど……何か情けない自信だ……。
はぁ、とため息を吐いたところで、待ち構えていたように克己がさっき自分で貼っていた絆創膏の上に軽くキスをした。そして
「で、そろそろキスしても?」
え。
「で、って何だ!で、って!つか、い、今しただろ、キス!」
何かもうこれで終わりかと思っていたのに、予想外の展開に俺は思わず声を上げていた。それに、今額にしたばかりでその問いはない。
けれど、克己の方は平然としている。ここら辺が経験の差ってやつだ、といつもいつも思わされる。
「いや、何か考えているようだったからな……別のことに気をやってる相手に手を出すのは若干ルール違反だ」
「変なところで硬いな、お前」
何事においてもきちんと分別を弁えている彼にはいつも感心、といおうか、驚かされる。規律に厳しい軍育ちだから、なんだろうか……。でも多分その規律基準が彼自身ではなく、相手基準な辺りが愛されてるな、と思ってしまう瞬間だ。
「……単にこういう時は俺の事を考えていて欲しいというだけだが」
そういう事をさらりと言える辺りで、俺は完全に負けてる。
カッと顔が熱くなり、また何も言えなくなってしまった。またあの良い雰囲気に戻ってしまったような気がする。苦手だけど、嫌いじゃないこの雰囲気。
「……考えてるよ」
さっき、色々考えていた原因も目の前にいる彼なわけだし、例えそれで思考が四方八方に散っていたとしても。
目の前にある黒い髪を両手で撫でながら、静かに息を吐いた。いつもいつも、緊張しすぎて本当にどうにかなりそうだ。
「考えてる。ほんと、マジで、考えすぎて緊張しすぎて、どうしていいのか、解からなくなるくらい」
恋愛は勢いだと、昔誰かが言っていたけど、目の前にいる相手はそんなものは与えてくれなかった。恋愛に慣れていない俺に恋とか愛とかを丁寧に教え込み、ゆっくり、でも確実に心にも体にも隅々まで浸透させるようなやり方で。いっそ勢いに任せられれば、ここまで緊張したり悩んだり困惑したりしなかったんじゃないか?でも、勢いに任せていたら、ここまで、ここまで……。
助けを求めるように彼を見上げると、小さく笑われた。嬉しそうな、それでいてどことなくホッとしているような顔だ。それに何だか俺もホッとしていた。もしかしたら、こいつもそれなりに緊張してるのかな、と。
こいつが、俺に?
克己は頭もいいし強いし顔も良い。どこをとっても俺以上である彼が、俺に対して緊張しているという事実が何だか妙に嬉しかった。緊張は好きの証し、か。
すぐ上にある相手の顔を改めて眺めてみる。モンゴロイドならではの黄褐色の肌と、直毛の真っ黒い髪と同じ色の目。それにじっと観られていることに気付き、思わず唇を結ぶ。観るのはいいけど、観られるのはやっぱり少し恥ずかしい。思わず目を伏せたけれど、それに合わせる様に克己も俺の顔を覗き込んできた。
って、この体勢は……!
ひゃあ、と心の中で悲鳴を上げながら目を瞑っても解かる。相手が更に近寄ってくる温度が。ぐっと噛んだ唇に、違う温度が触れて、離れる。少し止めていた息を吐き出す為に弛緩した口に、また。
目尻に少し硬い髪の毛先が触れた。
少し長いキスの時は鼻で息をするのだと教えてくれたのも目の前にいる彼だった。それでも息苦しいのは変わらないんだけど、鼻から意識して息をするといつもはあまり感じない克己の匂いがする。薄い煙草の残り香と、彼が使うシャンプーかそこら辺の匂いだろうか。どことなく大人を感じさせるその匂いは、多分俺みたいなのには似合わない香りだし、今まで俺の周りには無かった香りだった。それなのに、今では一番安心する匂い。本当に、人生何が起こるかわかったもんじゃない、としみじみと思ってしまう。
「っん、は……」
長いようで短かったキスが終わり、まだ慣れない俺は自然と胸を上下させていた。体も、何だか思うように動かない。そんな俺を労わるように俺の頭を撫でる手は優しい。
彼は色んな意味でどこまでも大人で、俺は色んな意味でどこまでも子どもだ。強く抱き締められた腕の中、肩口に擦寄る事くらいしか出来ない。でも
「……っつみ」
強く抱き返して、というか、縋りつくと言った方がいいかもしれない、俺の場合。背に回した手と腕に精一杯の気持ちを込める。少し密着具合が増して、頬に黒髪が触れた。身じろぎすると、髪が揺れ、その下に隠れてた耳が露わになる。
「すき」
その耳にさえ届けば良い程度の目標で出した声は本当に囁き程度のものでしかなかったけど、ちゃんと届いていたらしい。それが嬉しいのと恥ずかしいので頭が少しクラクラした。
でも、この眩暈も緊張も全部、幸せというヤツなんだろうと思うと、やっぱり頭がクラクラした。
ああ、どうしよう、姉さん。俺、幸せになっちゃうかも知れない。
観ているこっちが恥ずかしくなるくらいのラブラブが好き |