09 正直な唇
目を開けたら知らない天井だった。
ここは、どこだ。
ぼんやりとした思考の中、サリサリと聞き覚えのある音と、オレンジ色の光が天井に映っているのに顔を上げる。
そう広くはない部屋にはパソコンと、机。ただの机ではない。デザインや図を描くために斜めになっている特殊な机の前に誰かが座り、また見たことのない長い定規で線を引いている。
「……あ、起きたか?少し熱もあったようだったから、無理はしない方が良い」
こちらを振り返った顔は見覚えがあったが、眼鏡をかけている。何か作業中だったらしい。
「熱……?」
そういえば、心なしか体が重く、怠い。ついでに熱い。体が丈夫なのが取り得だったのに、船酔い程度でここまで体調が崩れるとは誤算だった。
「何か、食べるか。一応粥みたいなのもあるけど」
「……いい。気にするな」
一人分のベッドを貸してもらえているだけでも有り難い。答えた声は何とも弱々しいもので、これが自分の声かと少々驚いた。
熱を出すなんて何年ぶりかわからない。恐らく4年ほど前に訓練中につくった傷が原因で発熱したのが一番最近だろう。
「それより、何かタオル貸してくれないか。体を拭きたい」
身を起こして、靴は脱がされていたものの、服は倒れた時と同じものだと知る。まぁ、彼もそこまで世話を焼かなかったということだ。汗で湿ったシャツを脱ぐと、相手は身を揺らし、慌てて顔を逸らす。随分と変な反応をしてくれる。自分も彼も男で、何も照れることはないだろうに。
まぁ、人それぞれか。
「これ、使って。てか、ここの隣の部屋にシャワールームあるから使ってもいい。あと、これ、喉渇いてるだろ。後、薬も」
蒸しタオルとペットボトルに入った水を渡され、和泉も礼を言いながら受け取った。随分と準備が良い。
だが、彼は自分の方を見ようとはしなかった。まぁ、男の体なんて見たところで面白くはないだろうが。
水を口に含んでから、思っていたより喉が渇いていた事を知る。一気に半分くらい飲んでから、そういえば海の生活では水が貴重なものではなかったかと思い出した。
「良いのか。シャワー……」
「ん?ああ……シャワーの水は海水ろ過したヤツだから気にしなくて良い」
別にただ聞いただけなのに、タオルと着替えまで渡され、すっかりシャワーへと行くものだと思われたらしい。
……まぁ、いいか。
じゃあ、と部屋から出ると、驚いたことに廊下の作りは普通の廊下だった。てっきり、艦の内部の方のパイプやらなにやらが剥きだしになっている廊下だと思ったのだが、窓から見える光景は海面よりずっと上だった。恐らく、総司令部室が近いところにある。
とりあえず隣りのドアへ手をかけると、そこにはシャワールームと書かれていた。鍵はかかってなかったから、迷うことなく中に入って鍵をかけた。
内部は脱衣所と一人がようやく入れるくらいのシャワールームに区切られており、必要なのか疑問だが、鏡もあった。その鏡の中の自分の肩にある蒼いタトゥの存在に今更気付いて、和泉は自分の失敗に目を見開いた。
あの男に、これを見られてはいないだろうな。
だが、大丈夫だろう。何故か彼は自分を見ようとしていなかったし、恐らくは気づかれていない。ほっとしたところでコックを捻り、降り注いできた湯はなるほど、確かに若干潮臭かった。
和泉が出て行ってしばらく経ってようやく落ち着いて海図と向き合う事が出来た。ほっと藤浪は息を吐く。
陸なんて土臭い、と仲間達は嘲笑っていたが、気を失った彼を抱き上げた時上質な香のような香りが鼻に届いた。海では絶対に嗅げないような香りで、それだけで少し頭が熱くなったのを思い出す。
きっと、陸は自分たちを潮臭いと言っているのだろうという予想も過ぎり、それは否定出来ずがっくりと肩を落とすしかない。当然だ。毎日潮風にさらされているのだから、そんな匂いが身に染み付くのは避けようがない。統吾は嗜みと言って女性と共にいる時は香水をつけていた。
自分はそんなこと考えた事もなかった。女性と付き合ったことは何度かあるが、長い航海が続きそうそう会えないからか、いつも相手から断わられる。淋しい、と泣く相手に謝るのが常で。かといって、統吾のようにセフレを大量に作る気にもなれず、志賀のように艦内だけの恋人を作る気にもなれず、海に入ったからには男を相手にする機会があるかも知れないという先輩の言葉通り何度か男を相手にしたこともあるが、残るのは後悔だけ。
お前は変なところで頭が固い、と統吾や志賀に言われた事があるが、それが悪いとは言われた事は無かった。どうせ、将来は親に決められた相手と結婚する。その相手は政略結婚に近いのだから、航海が多い自分に淋しいとは泣きついては来ないだろう。
だから、恋なんて面倒なものはしないに限る。自分には海があればそれでいい。そう思い始めていた矢先だった。
「……何だ、これ。海図?」
いきなり耳元で聞こえた声に藤浪は心臓が口から出るかと本気で思った。ぎくりと身を揺らしたのに相手も気付いてようですまなそうに目を横へと動かしていた。
「驚かせたか。すまない」
「いや……えっと……ああ、そう、これは海図だ」
自分が今まで長定規で線を引いていたものに目をやり、心の動揺を落ち着かせようとした。
和泉は海図、と呟いてそれをじっと見つめた。あまり見ないそれはきっと珍しく彼の目に映ったのだろう。藤浪は毎日これとにらめっこしているが。
「今は、ここら辺だな。風も波も安定しているから、今はそんなに気持ち悪くないだろ」
「……そう、いえば」
鉛筆で地図の一点を指しながら、藤浪は窓から海の状態を確認する。これからしばらくは海も落ち着いているから、船酔いの被害も収まるはずだ。和泉は確かに気分の悪さがなくなっている自分の胸を擦り、ほっと息を吐いた。
「でも、5日目は少し天気崩れるから、酔い止め後であげるから飲んでおくと良い」
「ああ。悪いな」
「……興味、あるのか?」
海図をじっと見つめる和泉の様子に藤浪は少し驚いた。陸の彼がこんなに熱心に海図を見るとは思わなかった。彼も少し驚いたように自分を振り返り、しばし逡巡する様子を見せたが
「少し」
照れたように笑うその顔に藤浪は慌てて目を逸らした。
「何で?その……陸、なのに」
「地図とか見るのは嫌いじゃない」
「そう、なのか」
「そう……あんたはこの船の航海士なのか」
「見習いに近いけど、一応」
自分の事を問われ、藤浪は慌てて答えた。見習いと付け足したが、きっとそれなりに有能なのだろうということくらい、和泉もこの部屋の位置から察していた。海が見え、すぐに司令室へと飛んでいける距離に部屋があるのだから。
「和泉さんは?」
「俺?」
そこで突然自分の事に話を振られ、正直驚かされた。
「俺は、一般の生徒だ」
「そうなんだ。南?」
「……まぁ、な。あんたもだろ」
「一応な」
ふっと笑った藤浪の髪になんとなく触れると潮風に晒されているにしては綺麗に流れた。
「和泉さん?」
「親が外国の人間なのか?」
「親、じゃなくて祖母が……」
「隔世遺伝か」
銀色の髪は、少し彼に似て見えた。真っ白い髪を持つ彼。思い出せばキリがない。
会いたい、なんて思うのは今自分の体が弱っている証拠だった。
「……和泉さん?」
藤浪が突然哀しげな表情になった彼の顔を覗き込もうとすると、動くなと言うように頭を固定される。
「どうかした?」
すぐ近くにシャワーで温まった肌があった。これは思った以上に緊張する。
「眠い」
「え、ちょ!」
突然糸が切れたように倒れ掛かってきた相手の体を慌てて抱きとめると、すぐに耳元で寝息が聞こえてきた。
「……警戒が強いのか無防備なのか良く解からない人だな」
多分、飲ませた薬の所為だろうとは思う。酔い止めは眠気を催すものが多いから、飲み慣れない彼の体はあっさりとそれに陥落したのだ。
「……が、……から……で」
「和泉さん、寝惚けてる?」
あまりにも無防備すぎていっそ笑えた。
「……蒼龍様、まだお休みになられていないのですか」
雑務を終え、自分の部屋に戻ろうとした途中にある蒼龍の寝所から光が漏れているのを見て、和泉は呆れてその扉を開けた。オレンジ色の室内灯を一つだけつけてなにやら覗き込んでいる彼はすぐに顔を上げ、自分を見て柔らかく微笑んだ。
「ああ……ついつい夢中になって」
「今日中の仕事は執務中に終わらせたはずですよね?お体に障ります」
眉間を寄せて夜更かしを諌めると、彼は苦笑し、手に持っていたものを机の上に置いた。
「それは?」
青一色の紙面を覗き込むと「海図」という答えを貰う。彼はその海図を再び手に取り、和泉の目の前に広げた。
「海の地図だ。見てたら意外と面白くて」
「……これのどこが面白いんですか?」
和泉から見れば奇妙な記号が書き込まれた紙切れだ。パッと見て理解出来るわけもなく、こんなものを面白いと言う彼の頭の中が解からない。
和泉の冷たい視線に気付いたのか、彼は地図を片手にベッドに寝転んだが、再びその地図を広げる。
「もしかしたら海底に超古代文明が沈んでいるかも知れない」
「そんなのあったらとっくに見つけられています」
「なんだ、お前は夢が無いな」
むぅ、とむくれた彼は身を起こして苦情を言うが、またすぐにベッドに寝転び天井を見上げながら笑った。
「俺にはあるぞ、夢」
手に持っていた海図を目の前に広げ、光に透かし薄くなった青の向こうに、本物の青を見る。
「お前と二人で世界を回ることだ」
一般人から見ればそんなこと、と笑われそうな内容ではあるが、彼の立場でそれは本当に夢物語に近いことだった。まず、彼は病弱で一日に一度必ず医師の検診を受けなければならない。そして、けして一人での行動は許されていない。移動する時はかならず、二三人のSPがつく。
自由なんて言葉からは程遠いところに彼は身を置いていた。
「存じて、おります」
「本当か?俺に、ついて来てくれる?」
不安気に眉を下げた彼に、頷いた。
「私の夢はいつでも貴方の夢と共にあります」
自由を知らない彼の夢を叶えてやりたい。ずっとそう思ってきた。
彼はほっとしたように表情を緩め、嬉しげに「そうか」と何度も呟いた。和泉の長い髪を弄り、肩を引き寄せ、抱き締める。幼い頃からずっと共にいた間柄での抱擁は、親子のような兄弟のような、そんな意味合いを常に持たせていた。
「愛しいなぁ、お前は」
彼からしたら、もしかしたら自分は愛玩動物のようなものだったのかもしれない。そうでなければいけないと常々思ってはいたが、こんな愛しげに抱き締められては思い上がりそうだった。
「蒼龍さま……」
病弱でもしっかりとした肩に手を回し、目を閉じた。
絶対にその夢を叶えてみせますから、どうか。
どうかそれまで、死なないで。
貴方の願いは俺が叶えてみせるから。
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