「うわぁ……ボロボロだ」
 一日の授業が終わり、部屋に戻ってきて制服を脱ぎ、不意にそれをまじまじと見て思わず呟いてしまう。一応演習用には別な戦闘用の服を着ているのだが、もちろんそっちもボロボロなのだけれども、普段着ている制服のシャツももうすでに2年は着古したような具合になってしまっていた。袖は擦り切れているし、ボタンも取れかけ、あちこちに血の染みらしき汚れもポツポツと。
 買い時か、と思ったが意外と高いこの制服。来月にならないとそんなお金は入ってこない。
 そういえば、クラスメイトがとれかけたボタンを自分で縫っていた光景を見たことがある。自分もそうするべきかと、机の奥のほうに入っていたソーイングセットを取り出した。何故かこのソーイングセットだけは軍から無料で配布されていたのだが、その理由は今でもよく解からない。
 とりあえず、何ヶ所か取れかけているボタンだけでも直しておこうと針を摘み上げた時、背後で扉が開いた音がする。
「お。克己お帰り」
 ルームメイトも帰ってきたようで、くるりと振り返れば、ネクタイを外しにかかっている彼がそこにいた。
「……ああ」
「あれ。克己、お前のシャツもボタン取れかかってるなー」
 ネクタイを外したその下で、糸が弛んで垂れ下がっている濃いカーキ色のボタンを指差すと、克己も初めて気付いたらしい。「そうだな……」と呟きながらそのシャツを脱いでいる。
「買い時か」
 ふぅ、とため息を吐きながら言うが、彼のシャツは他に汚れているところがあるというわけでもなく、破れているというわけでもなく、むしろボタンの事を気にしなければ新品同様だ。
「それくらいで買うなよ!この高給取りが!」
「しかし壊れているなら買うしか」
「それくらいなら直せるだろ!丁度良い、俺もこれから直すつもりだったからやってやるよ」
 克己からシャツを奪い、まずそれから作業に取り掛かることにした。放っておいたら克己がさっさと新しい服を買ってきてしまいそうだ。
 さっさと針に糸を通し始める翔に克己は止める間もなく。
 その時久々に思い出した事なのだが、そのシャツの本来の持ち主は大志なのだ。以前怪我をして血に濡れたシャツをどうしようかと思っていたところ、治療をしてくれた遠也が同室の大志のシャツを貸してくれた。そう昔の話ではないのだが、すっかり忘れていた。そのうち返さないと。
 翔もまぁ、彼の料理の腕なら裁縫もそれなりに出来るのだろう。そのボタン付けが終わったら返しに行くか。
 そんな事を考えながら着替えを済ませていると、背後から「いだっ!」という声が聞こえてきた。
「……翔?」
「あ、いや何でもない!」
 訝しげに声をかけてきた友人ににへらっと笑ってやり過ごしてから、翔は再び手元に視線を落とす。
 ……裁縫って意外と難しいもんだな。
 実は、針を握ったのは初めてだった。いや、厳密には初めてというわけではない。一応、小中学校の家庭科の時間に少しだけ扱った事がある。だが、少しだけだ。小学校の頃の家庭科など遊びのようなものだったし、中学校の時は家庭科と技術に分かれて、自分は技術を選択し、呑気に巣箱を作っていた覚えがある。
 思わぬ場所から突き出た針で刺してしまった指からは血が滲み始めている。特殊な布で出来ているシャツは硬く、なかなか針が通らないので力任せに押し込んでみれば、軌道がずれて指に刺さってしまったのだ。
 次はこんな失敗しないぞ、と気合を入れて全神経を手元に集中させた。が
「いてっ」
 再び左手の指先に似たような痛みが走る。いや、これくらいでへこたれて堪るか。
「っつ!」
 無理矢理針を進めたらまた違う指に痛みを感じた。
「……おい、翔?」
「なんだよ、克己!今あんま話かけるな」
「分かった、なら一つだけ答えてくれ。お前、もしかして裁縫したことないのか?」
「無いってぇ!」
 また刺した。
 制服を直すのは良いが、自分の手がボロボロになりそうだ。小指以外の指全部に針を刺してしまい、指先が真っ赤になってしまった。
「……翔」
「止めねえぞ、俺は」
 呆れたような克己の言葉の先手を取ってみれば、彼はため息を吐いた。
「……分かってる。だが絆創膏くらいは貼れ」
「血はまだそんなに出てないから大丈夫だ」
「……無理なら、止めても良いんだぞ?」
「さっき止めないって言った」
「……明日も授業があるんだぞ」
「だから?」
「変なことで、無駄な怪我はするな」
「別に、変なことじゃないだろ!いってぇー!」
 思わず手に力を入れてしまい、その所為でまた針で指を突く。結構深く突いてしまったらしく血が指先から零れた。慌てて傷口を舐め、その痛みを堪えていれば目の前に絆創膏を差し出される。
「克己」
「血が出たぞ」
「……分かってるよ」
 大人しくそれを受け取り、じんわりとまた血が滲み始めた指先に貼る。ついでに、今まで突いた指にも。
 指4本に貼るとまるで漫画で見たような光景だった。というか、漫画や創作物でしかみないような状態だった。現実でこんな光景を見ることになるとは。しかも、自分の手で。
 おかしい、初めて料理を作った時だって包丁で手を切らなかったのに。
 むぅ、とその指を睨みつけていれば克己のため息が聞こえる。
「小意地になるな。別にボタンの一つ無くても死ぬわけじゃない」
「そりゃ、そうだけど」
 眼を上げれば、まだちゃんと着替えを済ませていない克己の剥き出しの腕が視界に入る。随分と綺麗に筋肉がついてるもんだと感心してしまいそうになるが、その腕には白い湿布が貼り付けられていた。真新しいそれの個所は覚えがある。
「……今日も、克己に助けてもらったしなぁ」
 演習の時に、相手の攻撃を避けそこなった自分を助けてくれたその腕には、青黒い痣があるはず。こちらの呟きに気付いた克己がくるりとこっちを振り返る。
「何?」
 全然気にしていないというようなその顔が、何だかたまらない気分にさせる。
「……俺って、そりゃ多少腕に自信はあるけど、克己ほど強くねぇし。つーか多分てか絶対克己が強すぎるのが悪いんじゃないかと思うんだけどさ」
「何だ、いきなり」
 ブツブツと褒められているのか愚痴られているのかわからない翔の呟きには克己も困惑するが
「なんつーか、俺、結構授業中克己の足引っ張ってる自覚あるんだ」
 指に貼った絆創膏の感触を確かめると、出来たばかりの傷が小さく痛む。
「そりゃ、俺もっと強くなるように努力するし、足引っ張んないように頑張るけど」
 でも、克己腕の傷の方がずっと酷いと考えれば胸が痛むわけで。
「今は、俺が克己にしてやれる事があるならそれを精一杯するしか、方法がみつかんねぇから」
 これくらいで謝罪と謝礼になるとは思っていないけれど、これくらいで彼の役に立てるならそれも良い。
「だから、これは俺がやる」
 よし、と再び針を持ちボタン付けに集中する。自分の服はとりあえず後回しだ。
 作業を開始したルームメイトの真剣な顔を確認してから、克己は立ち上がり、ドアの方へと足を向ける。
「どっか行くのか」
 夕飯までに帰って来いよ、と続けようとしたが、克己の返事に遮られた。
「それが出来るまで出る。どうも近くにいると気になって止めにかかりそうだからな」
「……はは。悪ぃ」
 確かに傍目からも危なっかしい手付きだ、自分でもわかる。思わず乾いた笑いを漏らし、これからの痛みに身構えた。でも、頑張ると決めたのだから、引く気は無い。
 よし、と気合を入れなおしている翔に、克己は眼を細めた。
「……でも俺は、お前に足を引っ張られたと思ったことは一度もないからな」
「へ……いってぇ!」
 出際に言われたその台詞に顔を上げた瞬間、また指に痛みが走る。絆創膏を貼っていたおかげで、さっきよりは深く刺さらなかったが。
 



「……煙草は喫煙所でお願いしたいですね」
 足早に廊下を歩きながら、煙草を咥えれば正面からやってきた遠也があからさまに不快気に表情を歪めていた。
「……ああ、悪い」
「悪いと思ってるんですか、その謝罪……まぁ良いですけど」
 ふっと笑うその表情は、お前が肺ガンでさっさと死のうがどうでもいいというような顔だった。確実にそう思っているだろうが。
「お前から声をかけてくるなんて珍しいな、何か用か」
「大志のシャツの事で」
 あ。
「……忘れていたんですか」
 克己が一瞬動きを止めた理由をそう解釈した遠也は呆れたように言うが、それは誤解だ。
「忘れては、いない」
「じゃあ、さっさと返して下さい。洗濯くらいはこっちでやっておきますから」
 手を伸ばされ、視線を思わず遠也から逸らした。
「いや………後で、買って返す」
「はい?………早速破きましたか?」
「あぁ……まぁ、そんなところだ」
 けれど、遠也は克己が制服を破くような行動をあれからしていないことは知っていた。遠也にとっても友人である翔と行動を共にする事が多い克己とは、必然的に顔を合わせる回数が多い。今日もほぼ行動を共にしていたが、戦闘服はともかく、制服が破けるような事はなかったはず。
 訝しげな表情になった遠也の考えていることを見抜いた克己はただ煙草に火をつける事に専念する。だが、こういう時に限って愛用のジッポに火がつかない。
 仕方がないので、火のついていない煙草を口から離した。
「……佐木は、翔と中学が一緒だったな」
「何ですか、いきなり……そうですけど」
「アイツは……誰相手にもああなのか?」
「ああ……とは?」
 遠也の黒い眼が探るように克己の顔を覗き込む。それから目を逸らしつつ、再び火のついていない煙草を銜えた。
「いや……ああ、は、ああだ。お前も付き合いが長いなら分かるだろう」
「はい、分かります。日向は大方、どんな相手にも“ああ”ですよ」
 人の悪い笑みを浮かべながらの遠也の言葉に、軽い敗北感を覚える。恐らくは、頭の良い彼なら最初からこちらの言いたい事に気付いていたはずだ。それでいてここまでこちらの言葉を引っ張ってくるのは、人が悪いとしか言いようがない。
「アレに勘違いする人間は多かったので」
 くすりと遠也は笑い、大きな釘を刺してくる。
「彼は、どんな相手にも一生懸命なだけですよ。くれぐれも、誤解しないよう」
「誤解、以前に……困る」
「はい?」
 困る、といった感想は初めてで、遠也は眉間を寄せた。その反応に、克己は肺に溜まっていた二酸化炭素を吐き出した。
「俺が、アイツに本気になりそうで困ると言ったらお前どうする?」
 しばしの沈黙の後、遠也は満面の笑みを克己に向けた。
「………アドバイスを、あげましょう」
「どんな?」
「なるべく早いうちに告白すればいい、と」
「………その心は?」
 克己が口元を歪めつつ、さらに問うと、遠也の黒い眼が細くなった。
「さっさと振られろ」
 にこにこと、遠也は今まで見た事のないくらいの満面の笑みで。克己も、それに答えるように笑顔を返す。
 奇妙な空間だった。目に見える場面は少年と青年が仲良く笑い合っている微笑ましい構図なのに、その近くに行くと重苦しい空気に身に緊張が走るのだ。
 うっかりそんなところを通りがかってしまった正紀は、しばらく廊下の曲がり角で立ち往生となる。
 



翔が裁縫をするところと、なんか可愛いところと、克己と遠也の冷戦を書きたかったのと、最近ちょっとスランプ気味なののリハビリ。
ブログの正紀との煙草話を意識して読むと少し面白いかもしれません。

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