「最近、どこか怪我でもしましたか」
もうすぐ冬休みというところで、遠也にそんなことを聞かれた。え?と首を傾げると「消毒薬の匂いが時々します」と言われる。遠也の家は病院をやっている所為か、そういう匂いには敏感なのだろう。
思い当たることは、ただ一つ。毎日彼の病院へ行っているからだ。
「いや……どこも怪我してないよ」
探るような目で見られ、翔は慌てて笑顔を取り繕う。遠也は勘が良い。ちょっとでも妙な態度をとれば、すぐにバレてしまう。
けれど、彼には色々と心配をかけてしまっているから、そろそろ今の自分の事を話しておいた方が良いかも知れない。
「日向、ちょっといーか?」
そんな時に呼びかけてきたのは、珍しいことに木戸だった。
木戸とは小学校から同じクラスで、それなりに仲が良いが、中学に入ってからはお互い部活が違ったり気の合う友人が違ったりと、徐々に会話も少なくなっていたのだが。
「どうしたんだ、珍しいなぁ」
呼ばれて適当な空き教室に向かうと、彼は少し心配げな顔で口を開く。
「お前、最近毎日放課後どこに行ってるんだ?」
「え?」
「お前を、掛川で見たっていうヤツがいて」
掛川とは父親がいる病院に行く時に降りる駅名だ。それを出され、心臓が低く鳴るのが分かる。
「ほら、最近ちょっと物騒だろ?隣町じゃ、薬物の一斉摘発があったり、色々あるし……お前の場合、色々と……」
小学校からの付き合いということは、木戸は翔の事情をこの学校で誰よりも知っている。その分、心配もしてくれているらしい。言い難そうにする彼の様子に、翔は笑みを作った。
「大丈夫だ。掛川に穂高さんの知り合いがいて、そこで今少し稽古みてもらってるだけ」
「それ、嘘だろ」
そして、長年の付き合いで木戸は翔の嘘を見破れる目を持っていた。
嘘だとばれて、あぁ、と肩の力を抜く。彼には嘘がつけないと悟り、翔は目を伏せる。
「遠也にも、そのうち話すつもりだけど……」
父親が目を覚ましたこと。
自分が彼の見舞いに行っていること。
その二点だけ説明すると、木戸もようやく納得してくれたらしい。「そうか」とだけ感想を言ってくれた。
「……悪いな、無理矢理聞いたみたいで」
「いーって。別に隠すことでもないし」
「最初、隠そうとしてただろ?」
「まぁ、そうだった」
「日向!木戸!」
そこでガラリと扉が開き、顔を出したのは柊だった。その妙に真剣で慌てた顔に翔は驚いてしまう。
「何だ、どうしたんだ」
「日向!よかった!無事か!」
よかったーともう一度言いながら彼は肩の力を抜き、安心したような笑みを浮かべる。
「ってコラ。無事か、ってどういう意味だよ、柊」
突然の介入者に木戸は何の意図もなくただそう言ったのだが、柊はそんな木戸を鋭く睨み付けた。その眼の意味は、一体何なんだろうか。
「なぁ、日向、今日部活に顔ださねぇ?」
にこりと翔には笑みを向け、その柊の分かりやすい態度に木戸は何かに気付き、一瞬眉を寄せる。
けれど、翔の方がそれに気付くことはなく。
「あ、悪ぃ……俺、今日は用事が」
すまなそうに答える翔は、今日も多分父親の元へと足を運ぶのだろう。不満を言いそうだった柊の腕を掴み、木戸は彼を引っ張っていく。
「ちょ!?おい、木戸!?何」
「なら、俺がお前の部活に行ってやるよ」
「はぁ!?お前部活ちげーだろ!コラーっ!」
喚く柊に「はいはい」と適当に対処しておいて、木戸はこっそり、茫然としている翔に手を振った。じゃあな、と、頑張れよ、という意味で。
それに気付いた翔は頷き、笑顔を返した。
「……騒がしいですね」
「あ、遠也」
廊下に出ると遠也が本を片手に不快げに呟いた。図書室へと向かう途中だったらしい。彼は喧騒を嫌う。いまだにギャイギャイ騒いでいる柊を射殺さんばかりの眼で見ていた。
「な、遠也」
ちょっと良いか?
そう言えば彼もこちらを振り返り、静かに頷く。彼もきっと何かに気付き、翔から話を始めるのを待っていてくれていたのだろう。
僅かな緊張をはぐらかすつもりで、翔は深呼吸をし、口を開いた。
「実は」
今日も曇り空だった。午後から雪が降ると、朝のニュースで言っていた。
病院までの道を急いでいる時に、頬に冷たさを感じた。多分、雨か雪かが降ってきたのだ。
走っていた所為で落ちかけていたマフラーを巻き直し、翔は白い息を吐き出した。途中、ランドセルを背負った子どもと擦れ違う。帰宅時間らしい、小学校も。
大丈夫ですよ。
ある程度のことを話した翔に遠也はそう言った。
「今の貴方なら、大丈夫ですよ。方やずっと眠っていた人間でしょう。どんなに体格が違っても、貴方を殴れるほどの体力はないでしょう。罵声だって浴びせられるかどうか」
むしろ、こちらの思うがままだろうと、遠也は続けた。
「ずっと、苦しんできたんだ。貴方の体に残る傷の量くらいは殴っても相手は文句も言えないでしょう。思う存分、怒鳴ってくればいい」
遠也の一言は翔を勇気付けると共に、僅かな躊躇いも浮き彫りにした。
「そう、考えていたんだけど」
殺そうとまで考えていたなんて流石に言えず、翔は苦笑してしまう。そして、その気を失いつつあることも。
「なんか、なかなか話しかけられなくて」
勇気が足りない。
こういうのは勢いに任せた方がいいのだろうに、その勢いもなかなか起きない。一体自分はどうしてしまったのだろう。
そんな翔の戸惑いに気付いた遠也は目を細めた。
「……もしかしたら、それは」
貴方があの人を許しかけているからかもしれませんね。
そう、遠也は言った。
もしかしたら、どこかでその自覚があったのかもしれない。そう言われても、翔は肯定も否定も出来ず、ただ紅くなりつつある空を見つめた。
その空が灰色になってきた時、病院に足を踏み入れた。そして、あのベンチに目をやると……やはり彼はそこにいた。白い入院着を着ている彼は全体的に色素が薄く、そのまま冬の冷気に溶け込んでしまいそうだった。
自分の髪の色が父親似だと知ったのは最近だ。それと、容姿も。
何の感情も表していない横顔はやはりどこかをぼんやりと見つめていて、そんな彼の茶色い髪の上に白い雪が降りた。
また、雪だ。
それに気付いた周りの入院患者たちが看護婦に促されるがままに建物内へと入っていく。だが、やはり彼は動こうとしない。マフラーも巻かない首元が寒そうだ。
まるで雪が降っていることにも気付いていないような、その雰囲気に自然と足が前へと進んでいた。
一歩一歩確実に縮まっていく距離に心臓の鼓動が早くなる。本当は逃げ出したかったが、何だか彼に負けてしまうような気がして出来なかった。
大丈夫。
遠也の言葉が蘇る。自分は大丈夫だ、この3年間ずっと穂高から武術を習い、強くなった、強くなっているはずだ。
ベンチのすぐ側まで来て足を止め、その位置を踏みしめる。まだ雪の積もっていない地肌がざり、と鳴った。その音に気付いたのだろう、ゆるりと男はこちらを振り返り………その目を大きく見開いた。
その反応に翔は唇を引き締め、少し悔しげに眉を寄せた。本来なら、彼から自分に声を掛けるのがならいだろう。あれだけの事をしてきたのだから、彼から謝ってくるのが道理だ。
それでも
「……雪、降ってますよ」
何故譲歩してしまったのかは、自分でも分からない。雪にまみれても微動だにしない彼に哀れみでも感じたのだろうか。そう言ってから、マフラーに口を埋めていた。
ベンチの端に腰掛け、彼との距離をとったまま、翔も背もたれに背を預け、灰色の空を見上げる。
「中、入んないんですか」
息を吐くと白くなっている。相当気温が低くなってしまっているのだろう。思わず身を縮めるとマフラーの毛が頬に触れて少し温かかった。
まだ彼を直視するのは難しく、視線を逸らしたままそう話しかけてきた少年を、彼は見上げ、そっと目を細めた。
「……君こそ、濡れるよ」
久々に聞いた彼の声は穏やかで……初めて聞くような気がした、こんな声は。
「俺は平気です。若いんで」
「……中学生、か」
学生服に身を包んだ翔を見て、彼は何の感慨も無くそう呟いていた。
「来年は高校です」
「……そうか」
彼がため息を吐いたのが聞こえた。
「……寒くないんですか」
その息が白かったのに、思わず聞いてしまう。しかし、彼は思いもかけない質問をされたというように眼を大きくし、ぼんやりと灰色の空を見上げた。
「ああ、雪が、降っているのか……」
今気付いた、というような一言に、あまりにも長い間意識が飛んでいた所為でちょっと頭おかしくなっているのではないかと思ってしまう。確かに、この気の抜けたというか、むしろ魂が抜けているような父なんて記憶には無かった。
いや、こんな人間、自分の記憶にはない。これではまるで別人のようで、今まで妙に構えていた自分が馬鹿らしくなり、思わずため息を吐いていた。
それに反応した相手がこっちを不思議そうに振り返ったのが分かる。けれど、その動作もゆっくりで、何だか段々人間を相手にしているとは思えなくなってきた。遠也の言うとおりだ。恐らく、今なら簡単にこの男を殴り飛ばせる。けれど、なんだかそんな気も削がれてしまった。
「何しているんですか、ここで」
青いプラスチックで出来ているベンチに手を置くと冷え切っているのが分かる。雪が降らなくても気温は低かったようだ。その中で、彼は入院着に白いカーディガン一枚羽織っただけでとても寒そうだが、もしかしたら彼はその寒さを感じていないのかもしれない。
廃人、というのだろうか。蒼い瞳はどこか暗く、光りがない。本当に人形のようだった。
その横顔に何だか心臓が重くなるのが分かる。憎い相手のこんな姿、見たら胸がすくのが普通だろう。罵倒して嘲笑って、気の済むまで殴って、それきり二度と会わない。そうしようと思っていたのに。
「人を……待っていたんだ」
少しの沈黙の後、彼はぽつりと呟くように答えた。
「人……?」
そう問い返せば、彼はゆっくりと頷き、目を伏せる。
「本当は俺が会いに行かないといけないのに、会いに来てくれるわけがないのに、な」
哀しげな彼の瞳は一体誰を想っているのだろう。翔はまさかと思う気持ちをどうにか堪え、ポケットの中拳を握った。
「大切な人に酷い事をしてしまった。殺されても、仕方無いくらい」
自嘲の笑みに口元を歪め、彼はぽつりぽつりと話し始める。あまり声は大きくなかったが、静か過ぎる周りのおかげでしっかりと翔のところまでそれは届いていた。
静かな声だったけれど、翔は彼の言葉に心臓を鷲掴みされたような気分だった。確かに、始めはナイフを持ってきていたけれど、今翔のポケットの中には何も無い。
「俺には、あの子に会う資格さえも、無い」
ばたん。
駅の自動改札が開く音を翔はどこか遠くで聴きながらそこを通った。
体は動いているが意識は遠くへと飛んでいた翔は、ようやく地元の風景を目にして今自分が現実にいる事を実感した。
今自分の中にあるのは、怒りでも悲しみでもましてや喜びでもなく、虚脱感だった。何故か、妙に虚しい。彼との会話はあれ以上続かず、すぐに逃げてきてしまった。どんなに罵声を浴びせようと思っても、殴りつけようと思っても、あんな弱々しいところを見せられてはそんな気にはならなかった。穂高に、素人には手を出してはいけないと教育されていた所為もある。
どうすれば良いんだろう。
今の父の姿は、彼への憎しみが原動力となっていた部分もあった翔に困惑しか与えなかった。この、何となく空虚に感じる部分は、彼への憎しみがあった部分なのだろうか。
夜の街に白い雪が降りつもるのを見上げていると、そんな翔を避けて同じ電車に乗っていたサラリーマンや仕事帰りのOLが傘を開いて次々と駅から足早に去っていく。中には、小さな子どもが大きな傘を持って父親を迎えに来て、共に帰っていく家族もいた。黄色いレインコートを着た小さな少女と手を繋ぎ、大きな傘を一本さして帰るその見ず知らずの父親の姿に、不意に目の奥が熱くなった。目の前の出来事だったのに、自分には遠い世界だ。
「日向!」
俯きかけたその時、駅に響いたその声にハッと顔を上げると、そこには見覚えのある茶色い頭と小さな眼鏡を掛けた少年がいた。
木戸は翔がこっちに気付いたのに手を振り、遠也は目を細める。
どうして二人が。
「どうしてここにいるんだ」
慌てて二人に駆け寄り、木戸と遠也の顔を見比べる。二人はお互いの顔を見合わせ、肩を竦めた。
「俺は塾の帰りです」
遠也は白い息を吐きながら言い、その鼻は僅かに赤くなっている。
「俺は……あー……俺は、通りすがり?」
木戸のあまりにも見え透いた嘘に遠也は思わず腰を小突いていた。待っている時間は沢山あったのだから、少しは良い言い訳を考えてくれて欲しかった。
ため息を吐く遠也だったが、木戸は彼の作戦など全く気にせず、自分と遠也を目を大きくして見上げる翔の僅かに濡れた頭から水滴を軽く払った。
「あぁ、日向お前傘ないんだな。んじゃ、俺お前んちまで送ってやるよ。途中コンビニ寄って行こう、肉まん喰いたい。佐木も行くだろ」
「はい、途中までは」
木戸が傘を広げている間に、未だ呆けている翔に目をやり遠也は彼に手を伸ばした。
「……日向?」
ひやりとした手が自分の額に当たり、翔はようやく我に返る。その様子に気付いた遠也は、軽く微笑んだ。
「大丈夫ですか」
彼の暖かい笑みと、その手の温度に喉の奥が詰まり、上手く言葉が出てこない。ふっとようやく口から吐き出せた息は、嗚咽のようだった。
ああ。
「……大丈夫だよ」
そうか、嬉しい時も泣きたくなるのか。
話には聞いていたが、自分が体験したのは始めてのことだった。一瞬くしゃりと歪んだ翔の表情に遠也が心配そうな表情を見せたが、それに首を横に振って見せる。そういう意味ではないと。
「ありがと、な」
目の端に少し溜まった涙を親指で拭い笑ってみせると、ようやく遠也も安心した顔になった。
「早く帰りましょう。日向さんが心配していますよ」
穂高の存在も口にされ、翔はようやく満面の笑みを彼らに見せることが出来た。
あの頃はただ一人で奮闘するしかなかった。いや、もしかしたら手を差し伸べようとしてくれていた人はいたのかもしれない。しかし、あの頃はそれに気付けなかった。けれど、今はこうして冷たい手を差し出してくれる友人も、家で自分の帰りを待ってくれている人もいる。
自分は孤独では無いのだと、今は気付けるのだ。それはこの2年間で一番自分が成長した面だろう。
「そ、だな!」
「しっかし、寒いなー」
「雪降ってるんだから当然でしょう」
「ホントだよ。これ積もんのかな」
木戸の傘に入り、二人と無駄に騒ぎながら帰路につき、不意に駅を振り返った。レモン色に光るそこはもう殆ど人の出入りがない。
父は、あの後きっと看護士に促されながら病室に戻ったのだろう。誰も待たない、暗い病室へ。あの、今にも消えてしまいそうな彼が孤独の闇に堕ちる様を想像し、目を伏せていた。
恐らく今は、彼こそ孤独だ。
それは自業自得とも思えたが、彼が孤独のままか、そうでなくなるかは自分にかかっているような気がし、密かに奥歯を噛み締めていた。
彼にこの冬はきっと寒すぎるだろうな、と薄いカーディガンを羽織っただけの姿を思い出した。
憎くても、彼は自分の父親。
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