爆音と共に、世界が消えた。
一瞬真っ白になった世界は、次の瞬間には真っ暗になり、突然の闇に怯える間もなく顔面に激痛が走った。
痛い。痛い。
手でそこを覆うと、どろりとした生暖かい液体が手の平を塗らした。
それが血だと気がつくまでには、そう時間はかからなかった。怪我をしたのだ。戦場ではよくあることだ。早く、傷の手当をしないといけない。いや、その前に傷の具合を見て、撤退かまだ戦えるか判断しないといけない。
そうしないといけないのに。
真っ暗で、何も見えない。
どこを怪我したのだ、どこが痛いのだ。真っ暗闇で、何がどうなっているのか全く解からない。解かるのは、肌を焼く炎の熱と硝煙と血の匂いだけ。
「日向!」
聞き覚えのある声と共に両腕を掴まれる。あぁ、という嘆きがすぐそこで聞こえた。
「まほろ、か……?何故違う部隊のお前がここにいる?」
戦友である彼は今回は控えの部隊に配属されていたはずだ。爆発で耳がおかしくなって、違う人間を彼の声と聞き間違えたのかと思ったが、恐る恐る伸ばした手をしっかりと掴んだその手の感触に直感した。目の前にいるのは間違いなく、良く知る友人だ。
正直、安心した。わけのわからない闇の中を独りで彷徨うのは流石に恐ろしい。
「なぁ、まほろ、ここはどこだ。気が付いたら真っ暗だ。今は夜なのか?俺の部隊はどうなった。それと、俺は顔に怪我を負ったようなんだ。お前、見えるか?」
相手のハッと息を呑む音が聞こえ、怪我の具合が酷いのだと察し、心の中で舌打ちする。
「……まだ、戦える傷か?」
例え暗闇でも人の気配を察する事は長年の訓練で培ってきた技量でどうにかなる。このままでも戦える自信は充分にあった。片手にはまだ剣の重さを感じる。まだ、自分は剣を握っている。剣を振るえる。
「もう、良い、日向」
けれど、まほろの声は震えていて、彼の手が剣を握っている自分の手に重なったら、矢張り震えていた。
「もう戦わなくて良い、日向」
「まほろ?」
「帰ろう、日向」
背中に感じる腕の力と、硝煙の臭いに混じったまほろの匂いに彼の腕に抱き締められている事を感じた。だが、彼の言っている意味は良く解からない。
「帰れるわけがない。俺はこの部隊の責任者だ。部下を残して帰れない。お前だって、その事は」
同じ地位を持つ彼ならそれくらい良く知っているはずだ。だが、彼は自分を抱く腕に力を込めるだけ。
「……お前の部隊は、お前以外もう……」
耳元で言われた言葉に、愕然とする。
「嘘だ」
「日向、落ち着け。ここはもう駄目だ。碓井准将はお前を、お前の部隊を捨て駒として使ったんだ。元々勝機のない場所だったんだ、ここは」
「嘘だ」
「日向」
「俺は、何も見えないぞ……俺には、何も見えない!死体なんかどこにもない!誰も死んでいない!暗闇しかな……」
「日向」
まほろの手が何も握っていない自分の片手を取り、そっと顔の一部分に触れさせる。自分の手がそこに触れたのを感じた瞬間、あの激痛が走った。
「ここが、何か解かるか?」
手には濡れた感触。そう、ここが傷を負った場所なのだ。
すっと指を走らせ鈍い痛みを感じていたが、急に何も感じなくなった。ただ、背筋に冷たいものが走る。
「ま、ほろ」
眼が、見えない。
眼が、見えなくなった。
この闇は、一生自分に付きまとう闇だと知った瞬間、恐怖に叫んだ。
いっそ、ここで全てを終わらせた方が楽なのかもしれない。
血と硝煙の香り、爆薬で土はだが剥きだしになった荒野に倒れるのはさっきまで笑い合っていた自分の仲間達の死体。天涯孤独の身だった自分にはおあつらえ向きの墓場だ。
一度落とした剣を手探りで握り、立ち上がる。
「日向……?」
「こんな無様な姿を、あの方に晒せるわけがない……!」
「日向!お前!」
「あの方が俺にここで死ねと仰られたのなら、それに従うまでだ。捨て駒なら、その務めを果たさなければ」
この傷のまま帰ったら、もう戦線に立つ日は二度と無いだろう。
戦場しか生きる場所も死に場所も無いと察したのはもう何年前だ。自分には、ここから帰ったとしても迎えてくれる相手は誰もいない。父の顔も母の顔も知らない自分は孤独しか知らなかった。
帰りたくない。
この闇の中で、これから独りで一生を過ごせと言う方が酷だ。
剣を引きずり闇の中をただ一人、歩き始めた。
最後に聞こえたのは、爆音と銃声。それと――――
「穂高さん、朝だよ」
けたたましい目覚ましの音と共に聞こえてきた声に、穂高は意識が浮上するのが解かった。眼を開けたつもりになっても今日も視界は闇。もう慣れた。
「翔か?」
手を伸ばすと自分より小さい手が触れ、彼がいる方向が鮮明に解かる。
「うん、おはよー。穂高さん、今日は曇だよ」
眼が見えない穂高に朝一番に天気を告げるのが翔の日課だ。穂高も「おはよう」と見えない眼の端を擦り、軽い欠伸をする。
「今何時だ?」
「6時ちょっと過ぎ。道場行ってて良いよ。俺も、朝食用意したら行くから」
たたっと走る音と翔の気配が遠ざかるのを感じ、彼が部屋から出て行ったのを察す。翔がこの家に来てからは毎朝こんな感じだ。昔は、友人がくれた介護ロボットがしてくれた事を翔がやってくれている。おかげ様で、そのロボットは今では倉庫の置物だ。
穂高は数年前に行った戦争で両目の光を失ってから軍を離れ、今では軍で培った武道を生かし、小さな道場を経営していた。
軍を離れてからはやさぐれた期間を過ごし、その間は色々なところへ行って色々な流派と手合わせをし、格闘の技術を身につけていった。それまで得意としていた剣は捨てて。
盲目の格闘家だからと弟子は少ないが、時々賞金狙いでどこかの大会に出て優勝を掻っ攫えば何人か弟子が増える。そうして今は何とか道場の運営だけでやっていけるくらいにはなった。
翔と出会ってそろそろ4年になるのか。眼が見えず、カレンダーで日にちをカウント出来ない分だけ体内時間に頼るしかないのだが、長かったような短かったような、不思議な期間だ。
部屋から出て最初に感じたのは、視覚を失ってから敏感になった嗅覚だ。朝食の香りがする。翔が来てから、彼が率先して家事をやってくれるおかげで大分良い生活を送れるようになった。それまではロクに髭も剃れず、翔には初対面の日に「熊さん?」と首を傾げられた。今は顎に手をやってもごわついた感触はない。突然家にやってきたあの子が面倒を見てくれるから。
今思えば、翔が来るまでは投げやりな日々しか送ってこなかった。盲目の身で修行の旅なんてものをして、いつどこで死のうとも構わないと思っていたから。それが、翔が来てから少し光が見えてきたような気がする。今まで常に自分を取り囲んできた孤独感が無い。
絶望を感じたあの日には、こんな穏やかな日が来ることなんて想像もしなかった。と、いうよりもこんな世界があること自体知らなかった。
久々にあの時の夢を見た。この眼が最後に見た景色は絶望的な光景で、除隊後手術すれば少しは見えるかも知れないと言われたが、再び何かを見る気にはならなかった。この眼は自分の弱さの証。そしてこの世への絶望の証でもある。
今は眼が見えない生活にも慣れ、大方の事は一人でもやりこなす事も出来る。それどころか、視覚以外の五感が研ぎ澄まされ、眼が見えていた頃より格段に強くなっていた。
冬の冷たい空気が肌を刺す。家の隣に作った道場に入ると翔の気配を感じた。毎朝の稽古は3年間欠かしたことが無い。翔は穂高の弟子の中でも一番優秀で、勤勉な弟子だった。
「やるか」
「お願いします!」
「ところで今日は何日だ?」
床に倒れて荒い息をついている翔に穂高は聞いた。毎朝ニュースを聞いて日付を確認するのだが、聞き逃す日も結構ある。ここ3日程朝にニュースを見ていなかったので、日にちもそろそろ曖昧になってきていた。
「12月…・・・6日?」
翔は疑問系で答え、身を起こした。普段ならそろそろ学校へ行く準備をしないと間に合わない時間だが、今日は日曜日。まだまだ、時間はある。
「穂高さん」
「何だ?」
「俺、穂高さんには感謝してるし、穂高さんに迷惑がかかるような事は絶対にしない。だから」
「……ああ、だから?」
その先にどんな言葉が続くのか予想はついていたが、あえて穂高は先を促した。
「父さんと、話、してくる」
もし、眼が見えていたらこの時の翔の表情に寄っては反対をしていたかもしれない。つねに見えない視界の代わりに穂高は相手の気配の揺れで感情を探っていた。翔の場合は、気配が哀しげなのに、声は笑っているという不思議なことが時々あった。
だが、今の彼を包んでいる空気からは悲しみも怒りも憎しみも感じない。ただ、強い決意だけが穂高のところまで届いてきた。
「夕飯までは、帰ってくるんだぞ」
穂高の許しを得た翔の空気が暖かくなったのを感じた。きっと、喜んでいるのだろうと解釈した時に、活きの良い声が道場内に弾けた。
「はい!」
病院へと向かった翔がいなくなった部屋は静まり返っていて、彼が出かける前に入れてくれた煎茶はすっかり温くなっていた。それでもそれを啜ってると背に慣れた気配を感じる。
「まほろか」
気配が揺らめき、足音が近寄ってきて自分のすぐ背後に立つ。
彼が、自分に何を言いに来たのかは充分予想が出来た。
「……次、将軍閣下にお会いする時は、教えろ」
「穂高……?」
湯飲み茶碗をちゃぶ台に置き、穂高は立ち上がる。
「俺も一緒に行く」
窓まで歩き、冷たいガラスの上に手を置いて引き開ける。冬の寒気が頬に触れ、少し湿り気を帯びた空気が鼻の奥まで入ってきた。
「穂高、お前……」
安心したようなまほろの声に、色々と揃えないといけないものを頭の中で考えた。小綺麗な格好をしようにも、そう出来る服も靴もない。けれど、稽古着などで軍の司令部に行ったら門前払いが関の山だ。いっそ、昔の軍服でも出すか、とまで考えて、思わず苦笑した。
「でもな、まほろ」
昔の上司に会うのは何年振りだろうか。ずっと彼に会うのが恐ろしくて、逃げるように軍から離れ、しばらく世界中をフラフラし、生きているのか死んでいるのかも分からない状況にしていた。剣を持たせれば右に出る者無しとまで言われた日向穂高が、彼が恐ろしくて逃げ出したなどお笑い種だ。きっと、彼は自分が死んだものと考えているのかもしれない。……いや、確かに彼の部下である日向穂高は死んだ。
「翔は、お前が思っているよりずっと強いぞ」
過去から逃れたくて逃げ回ってばかりいた自分より、過去を受け入れ克服しようとしている彼の方がずっと。彼の勇気には感服する。
師である自分が、彼の手本になれずしてどうする。
「………雪が、降りそうだな」
冷気と特有の湿りを帯びた空気に、穂高はぽつりと呟いた。
雪が、降ってきた。
自分たちが住む場所は雪など滅多に降らない。降ったところで積もらない。どうせこの雪も降ったところですぐに止んでしまうのだろう。
それでも冷気は翔の肌から体温を奪い、首に巻いたマフラーに顔を埋めた。雪が、珍しく降り続く。
灰色になった世界で、彼は矢張り一人ベンチに腰掛け、どこかをぼんやりと眺めていた。周りの入院患者達はすぐに建物の中へと入っていったが、彼は移動しようというそぶりも見せずただ、天から降る白い羽をその身に受けていた。
翔もそれを少し離れた木の陰から見ていた。
彼は、その眼に誰を映したくてそこに毎日一人座っているのだろう。
話をしたいと決めてきたものの、なかなか足を踏み出すことが出来ずにいた。恐怖と不安が足を止め、前までの原動力であった怒りと憎しみがほぼ失せているからだ。
雪がとけ、しずくとなって彼の頬を伝う。それが、泣いているように見え、翔は彼に背を向けて走り出していた。
段々と雪が雨へと変わっていく。ポツポツと肌にその冷たい雨を受け、駅に入り電車へ飛び乗る。
全力疾走で電車に飛び込んだその時、すっかり雨へと変わった天候は土砂降りとなっていた。ギリギリだったと思う反面、思うことは一つ。
あの人はまだあのベンチに座っているのだろうか………?
塗れた手でほんのり温かい電車の窓ガラスに触れ、病院の方向へと視線を向けた時、発車のベルが鳴った。
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