「日向くん、私日向くんのことが好きなの」
「へ?」
名も知らない女子生徒から呼び出されたと思えば、真っ赤に頬を染める彼女の口から出たのは思いがけない告白の言葉。
好き、って何だ?
そんな疑問が脳裏を過ぎるが、彼女は涙を滲ませ自分を縋るような眼で見てくる。
「何、で俺?」
ただただ茫然と出た言葉に彼女は俯き
「ずっと見てたの。明るくて優しいし、それに、陸上頑張ってたのも、知ってる。日向くんと一緒にいられたらきっと楽しいな、って」
楽しい。
中学生の恋愛なんてきっとそんなものなのだろう。楽しければそれで良い。誰か異性を意識してその先にあるものを期待して、自分が大人になったと勘違いして高鳴る鼓動に憧れを抱く。
恋に恋する女の子の妄想にはついていけない。
「悪いけど」
だとしたら、自分は彼女にとっては役不足だ。
でも失恋も彼女達にとっては一種のゲームの結末。頭の良い男は彼女達の無意識のゲームに乗ってその体を頂く人間もいるらしいが。
「今受験の時期だし、ごめんな。君のことは可愛いと思うけど、そんな風には見れないや」
彼女はどうやら自分に明るくて優しくて楽しい日向翔でいて欲しいらしい。その願いを聞き届けてなるべく彼女の理想にかなった返事をする。
告白をされると、他の友人達と違い浮き足立つ事も浮かれる事もなかった。胸に残るのは苦い思いだけ。
彼女を見送った後、授業に出る気が失せて翔は足を違う方向へと向けた。


遠くで始業のチャイムが鳴るのが聞こえる。
サボりスポットとなっている西校舎の小教室で翔はぼんやり外を眺めていた。ここは人通りが少なくて教師の目にも付きにくい。夕方になるとカップルの逢瀬の場所となるらしいが、今はまだ昼間だから関係ない。
胸ポケットの中には、昨日叔父からようやく聞きだした父親の居る病院の住所と病室番号が書いてあるメモ用紙がある。転寝をしていて眼を覚ました自分に彼はそれを手渡した。
何となく、あの軍からの召集令状より重い気分になるのは何故だろう。
やっと楽になれるはずなのに。
「また中一の時に逆戻りですか?」
ドアが開く音と共に聞き覚えのある冷静な声が静かな教室内に響く。
「遠也・・・・・・」
驚く翔の顔を確認した彼は呆れたような表情でため息を吐き、一歩中に入ってすぐに扉を閉めた。
「よく、解かったな・・・・・・ここだって」
天才といわれる彼がどこまで天才なのか翔には計り知れない。例え遠也が何か一つ動作をするにしても、それが全て細かい計算の上なのではないかと思ってしまう程だ。
けれど、そんな翔の驚きを彼は一笑した。
「前からサボるのならここか屋上でしたからね。今は寒いからここだと思ったんです」
説明された理由は至極当然と思われる解釈。
笑うしかなかった。
「・・・・・・何かあったんですか」
どこか疲れたような翔の笑みに遠也は眼を細めて問う。
相変わらず、鋭い。
「何も無いよ」
でも、言うわけにはいかないだろう。遠也はこの学校で出来た大切な友人だ。彼には色々とお世話になっているのだから。
自分が考えている事を言ってしまったら、きっと彼は自分を軽蔑する。
「・・・・・・受験前なのに、良いんですか授業に出なくて」
引きの良さは彼の良いところの一つだと思う。
違う事を話題にされて、ほっとしながら翔は頷く。きっと、これ以上このことを聞かれたら聡い遠也のことだ、何かには気付く。
「ちょっと位はいいだろ?ずっと勉強勉強で疲れてるんだ。遠也こそ」
「・・・・・・俺は良いんですよ」
「遠也くらいの頭なら、どこでも行けそうだけど」
羨ましいなぁ。
にこにこ笑いながら呟かれたその言葉に遠也は一瞬何か言いたげな顔になったけれど、すぐに何か思いとどまったように眼を伏せる。
翔はそれに気付くことなく言葉を続けた。
「高校は別々だな」
「そうですね」
「楽しいといいなぁ」
「日向は西・・・・・・ですか?」
当初行くつもりだった高校の名を言われ、翔は頷くしかなかった。
「まぁ、な」
「柊が張り切ってましたよ、異常に」
「へぇ?何でだろ・・・・・・アイツが勉強に熱中するなんて珍しいよな」
「・・・・・・さぁ、何ででしょう」
そっちから振ってきた話題なのに、遠也はどこか興味なさげな態度だ。でも、その理由を知っているような空気。それを知った上で興味が無いのかも知れない。
首を傾げて見せると、遠也はいつもの冷静な笑みを浮かべた。
「楽しいと良いですね、高校」
「ああ・・・・・・遠也もな。同じとこ行けないのは残念だけど、時々連絡とろう」
無理かも知れないけど、と心の中で翔が呟いていた事に遠也は気付くことなく同意する。
「そうですね」
でもそれがお互い様だったのだと知るのはもう少し先の話。
「・・・・・・なぁ、遠也」
「何ですか?」
「今まで、ありがとな?」
まるで今生の別れのような翔の台詞に遠也は密かに自分の行き先を気付かれているのでは無いかと思い瞠目した。けれど翔の眼は窓の外に広がる蒼い空を漂っていて、そうではないことを察す。
「何か、ありました?」
「何も無いよ」
ちょっと疲れたような翔の笑みは初めて会った頃に彼が見せていたものと同じだった。
中学に少し遅れて入学した彼は人当たりも良くていつも笑顔で、自分とはまったく違う世界の人間だというのが遠也の、翔の第一印象。何でこんなに仲が良くなったのか、切っ掛けはあまり覚えていない。
確か、何かがあって中一当時保健委員だった自分が翔のあの傷だらけの体を目撃して、それからだ。
大病院の息子だった遠也は翔の傷痕を見ても大して動じず、それが翔にとっては青天の霹靂だったらしい。それから、気付けば自分は彼の隣りにいて、彼が自分の隣りにいた。
自分と彼の友情が確実に築かれていたこの3年、今思えば長いようで短かった。
「例を言うのは、俺の方ですよ」
「遠也?」
「貴方に出会えて良かったと思っています」
「・・・・・・俺もだよ、遠也」
その言葉だけで今まで生きてきた甲斐があった。
この3年の猶予はきっと自分の人生において一番幸せな時だった。翔はそう思いながらぼんやりと青い空を眺めた。

ナイフは少し前に街中で絡んできた不良を叩きのめした時に彼らが忘れて行ったもの。バタフライナイフというらしい。大して使われていなかったのか銀色に刃が光る。恐らく脅しの道具にしかなったことがないのだろう。
制服を血で汚したくはなかったからあまり着ていなかった黒いコートを引っ張り出す。黒なら汚れても目立たないと思ったから。
穂高と会わないようにこっそりと家から抜け出して、彼から聞き出した住所を頼りに電車に飛び込む。同じ車両に乗っていた幸せそうな親子の姿が妙に眩しかった。
父が入院していたのは矢張り少し遠いところにある病院で、電車に30分ほど揺られて降りたのは翔もあまり聞いた事の無い名の駅だった。
人通りは少なく、これだったら楽に逃走出来そうだ、と思わず苦笑していた。逃走なんてする気は無い。したところで、自分が犯人だとすぐにバレるだろうし。
それならいっそ、全てを終わらせた方がいいじゃないか。
昔自分でつけた傷痕を指でなぞってから、白い建物の中に踏み込んだ。瞬間、あのアルコールの嫌な臭いがして心臓が重く鳴る。正直なところ、病院という空間にいい思い出は無く、今まで成るべく関わろうとしなかったこの消毒薬の香りに体が硬直してしまう。
ばたばたと忙しそうに走り回っている看護士や医師達はロビーに突っ立っている自分になど眼もくれずにいる。それが幸いだった。
時間が経った事件のことなどきっと誰一人として記憶していないだろうから、当時は自分の動きに警戒していた医師達もここにはいない。
薬の臭いに鼻がなれ、階段へと足を向ける。彼の病室は恐らく2階。
階段を一段一段登るたびに気持ちが重くなる。まるで13階段を登らせられているような。似たようなものかもしれないけれど。
足が震えてきた。これが恐怖から来る震えだと思いたくない。
それでもどうにか有馬蒼一郎と書かれた扉の前に来て、翔は深呼吸をした。
この扉の向こうには、長年憎み続けてきた男がいる。
もう疲れた。誰かを憎むのも、怖がるのも。
だから全てを終わりにしよう。
コートのポケットに入ったナイフを強く握り締め、一気に扉を開け放つ。
冷たい風が顔を撫ぜた。
あの不快なアルコールの臭いはしない空気の中に、ベッドが一つあるだけで。
「え・・・・・・?」
真っ白いその部屋には誰も居なかった。
「あのっ!すみません!」
自分でも信じられないくらい取り乱していたと思う。声をかけた通りがかりの看護士が驚いた眼で翔を見てから「何ですか」と柔らかい口調で対応してきた。
「あの、この部屋の人は」
一体、どこに。
言い知れない恐怖に足が震えた。まさか、自分の計画に気付いて逃げたのではないか。そして、どこかで自分を狙っているのではないかと過ぎた不安が全身を支配する。だが
「ああ、有馬さんならこの時間は中庭のベンチに座っているわ」
彼女は翔の質問にどこかほっとしたように答えてくれた。そして、ほら、と窓の外を指差す。
綺麗に整えられた中庭はレンガで造られた花壇が点在していて、その中央に噴水がある。冬だからか水は出ていなかったが、これがもし春か夏であったのであれば、花が咲誇りとても綺麗な風景となるだろう。
そんな噴水の近くに、大人3人は座れるような大きさの緑色のベンチがあった。そこに一人座る男性の背はどこか淋しげで、小さい。灰色の空の下、彼は一人でどこか遠くを眺めていた。
「毎日リハビリの後はあそこに座っているんですよ」
看護士の説明なんてもう耳に入らなかった。翔は窓のサンに手を置いて、ただ茫然と彼の背を見つめる。
色素の薄い髪の色は確かに自分の血縁者である事を示していた。けれど、纏う雰囲気が、違う。
「誰・・・・・・?」
ぼそりと呟いた言葉に看護婦が「え?」と聞き返してきた。
「あれは、誰」
あれは、父じゃない。
自分が殺そうとしている父じゃない。
自分が怯えていた父じゃない。
こちらの視線に気付いたのか、彼がくるりと振り返る。その眼の色は蒼く、その優しい色に翔は悲鳴を上げそうだった。
彼の眼が大きくなり、薄い唇が開く。



そう、自分の名前の形に動いたのを見て、気付いたら走り出していた。




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