そこで何となく気になったのは、いずるだった。確か彼は甘党で、チョコレートやケーキの類が結構好きだったと記憶している。
「な、矢吹は?」
「いずる?チョコ狩りでチョコ持ってかれたから、へこんで弓道場にいっちまった」
やっぱり。
予想通りの話に翔は苦笑するしかない。
「じゃ、これは矢吹にあげるか。俺弓道場行ってくる」
嫌いではないが、そこまで好きではないチョコレートを自分は持っている。これをあげるのが友情だろうと笑えば、正紀も「頼む」と頭まで下げてきた。どうやら、よっぽどだったらしい。部屋に戻るのは止めて、翔は再び寮から出た。
意外と言えば意外だ。いずるが甘党というのは。前にケーキを1ホールあっさりと食べきった彼の姿を見て唖然とした事を思い出す。意外だったが、何だか彼のそんな一面を見れて嬉しかった。
あまり、いずると二人きりで話す機会もなかったので、これは良いチャンスかも知れない。
弓道場を覗き込むと、一人矢を射るいずるがいた。その横顔は女子が騒ぐのが納得出来るほどに凛々しい。思わず、声をかけようとしていた口を閉じていた。
格好良い。
克己や遠也、正紀も格好良いと思うが、いずるはまた違う格好良さ持つ友人だ。穏やかで落ち着いていて、品がある。それは彼の家柄の所為かもしれないが、何となく恐縮してしまう空気があった。
こういう友達、今までいなかったからなぁ。
矢吹家という名前は翔でも聞いたことがある名家だ。名家というのは、外国でいう貴族に当てはまる。確か、いずるの祖父は爵位を持っていて、彼が死ねばいずるがその爵位を継ぐ事になるのだ。
普通ならば出会うことのなかった相手ナンバーワンか。
「……あれ、日向?」
声を掛け損なっていた翔に、いずるが気付く。黙って立っていたことが気まずくて、慌てて笑顔を作って手を振った。
「よ、矢吹」
「どうしたんだ、珍しいな」
穏やかに微笑むいずるに翔は何となくホッとして、手に持っていたチョコレートを差し出す。
「これ、矢吹に渡そうと思って」
「日向が、俺に?」
目を大きくして驚くいずるの態度にハッとする。これではまるで自分が彼に告白しているようなものではないか。
「あ、い、いや……!違うから!そんなんじゃないから!篠田に、矢吹がチョコ盗られてへこんでるって聞いて、それで……これも貰い物で!」
慌てて首を横に振り必死に言い訳すれば、いずるが小さく笑った。
「大丈夫、分かってるから。ありがとな、日向」
「お、おう!」
そうか、分かってもらえたか。
受け取ってもらった事に安堵して翔は息を吐く。
いずるの方はさっそく袋を開けて、中身を口に入れていた。しばらく無言で咀嚼していたが
「あー……この甘さ、生き返る……!」
食べ終わった瞬間、そんな呟きを吐き出したいずるには内心驚かされた。そこまで甘い物好きだったのか。でも、あまり彼が甘いものを食べているところは見たことがない。ケーキワンホール以来。
「いや、あんまり糖分摂ると太るし、体に良くないから、自粛してるんだよ」
「成程な」
「日向も食べる?誰から貰ったのか知らないけど、高級品だよ。多分、こういう機会じゃないと食べれない一品だから」
差し出され、翔も遠慮なくそれを手に取った。彼が言うなら間違いなく高級品だろう。
「マジで?一登瀬先輩から貰ったんだけど」
確かに彼は生徒会役員だし、彼の周りにはそんな地位の人間が多いだろうから、自然と貰い物は高級品だろう。これはちょっと得をしたかもしれない。
「ひととせ、先輩?」
いずるはその名を知らないらしく、軽く首を傾げていた。
「保健委員長の一登瀬先輩。知らないか?」
「へぇ、日向、意外と顔広いな。でも良いのか?その人、日向のことが好きでこれくれたのかも知れないのに」
「ゴフッ」
丁度チョコレートを口に入れた瞬間に言われたので、翔はその高級な味を味わうことも出来ないままにチョコレートを丸呑みしてしまった。硬い感触が喉をゆっくり降りていく感触に、思わず咽る。
「な……そんなわけないっての。あの人、彼女いるしな!」
一登瀬の幼い顔立ちを思い出し、翔は首を横に振った。それは絶対に無いと言い切れる。
「ふーん。日向は彼女いるのか?」
「いない、かな……今は」
最後の付け足しはちょっとした強がりだった。まさか初恋もまだなんて口が裂けても言えない、というか言いたくない。正紀の話ではいずるはかなりのやり手らしい。恋人はいなくともすでに経験済みだと聞く。
そして、そんな既に一歩大人の階段を登っている男というのは、どこか鋭い。
「そう。今はいないの」
にやにやと笑いながら言ういずるは恐らくその強がりを見抜いている。
「……何だよ、ったく」
「いや?ちょっと安心しただけ」
「矢吹もいないのか。でも矢吹ならすぐに作れるだろー……」
たまに弓道場前に女の子が集まっているのを、遠目から何度も見ていた翔は小さく舌打ちしてみせた。さっき食べたチョコレートは大分アルコールが入っていたらしく、甘いより苦かった。高級の味というのは慣れない。これなら、まだ普通の板チョコの方が美味い。そう思ってしまう自分の舌は多分貧相なのだろう。
「ああ、いや、そうじゃなくて」
「え?」
考えごとをしていたところで、突然いずるが何かを否定した。それが何の否定だか分からず、顔を上げると、口元に温かいものが軽く触れた。
……え?
さらりと目の前でいずるの眺めの茶色い髪が流れる。茫然とそれが綺麗だと思っている間に、温度が離れた。
「それなら、俺にもチャンスがあるってことだろ?」
にこりといつもの穏やかな笑みを見せた彼に、唖然とするしかなかった。
「な……え、え、えぇ?」
「何だ、結構俺脈アリかと思ってたけど。バレンタインにチョコレートくれるしな」
「こ、これは……だって、矢吹が甘いもの好きって、それにチョコ盗られてへこんでるって聞いたし」
「ほら、脈アリだろ」
「どこがだよ!」
「俺の好きな物知ってるし、俺の事気にかけてくれてる」
「それは……!」
友達だから、なんて続ける事は出来なかった。続けようとしたのだが、硬い床の上に押し倒されていたからだ。
「そんなに早い結論出さないで、ちょっと考えてみてくれよ。俺、結構格好良いよ?それに、ほら」
「ちょ、矢吹……!」
制止しようと声を上げるが、それも彼の唇に塞がれ、邪魔される。口の中にチョコレートの苦さを感じ、体が熱くなるのを感じた。それだけでも死にそうなくらい恥ずかしいのに、大きな手が腰に触れた瞬間、頭の中が真っ白になった。
おかしい。何でこんなに体が熱いんだろう。
散々弄ばれた後に唇が離される。
「……キスも、巧い」
はぁ、と熱いため息を落とされ、混乱するしかなかった。
「や……お前、なんで」
「さぁ……何でだろう、何でかな?」
本人ものはっきりとした理由が解からないようで、首をかしげながらも唇を落としてくる。
「これは、二人だけの秘密だよ、日向」
体に力が入らず、ただぼんやりと道場の天井を見上げていると、首元に僅かな痛みを感じた。何をされたのかは、解からない。確かめようとすればいずるの目に邪魔された。
「正紀にも、甲賀にも内緒。分かった?もし、誰かに言ったらもっと酷い事しちゃうからな」
「もっと、酷い……こと?」
「そう。日向がもっと泣いちゃう事」
目尻に柔らかい感触が触れ、そこにキスをされたのだとぼんやり思う。自分が泣いていることも、その時知った。
「これ、消えるまでに返事、な?」
先程痛みを感じたところに指がすべり、思わず目を閉じる。それが肯定に見えたのだろう、彼はそんな自分にまた唇を落としてきた。
お終い。
いずるは怖い。でも一番怖いのは実はいずるが翔に惚れる設定を作りかけていた自分自身です。