「……これ、篠田にやるよ」
翔は苦笑しながら青いバックを正紀の前に突き出した。自分はそれほどチョコレートに固執していないから、残念がっている彼に渡すのが一番かもしれない。
けれど、正紀は驚いたように目を大きくし、首を横に振る。
「いーって。だってコレお前が貰ったんだろ?」
「貰ったっていうか、貰い物の貰い物だ。コレ貰った人が、もう彼女いるから受け取れないからって俺にくれた。それだけ」
「うへー、でも悪いな……俺も別にチョコが欲しいってわけでもねーんだけど……」
がりがりと茶色い頭を掻きながら正紀はしばらく考え、手を止めた。
「そんじゃあ、一緒に喰おうぜ。俺の部屋来いよ、今いずるいなくて暇してたんだ。茶ぁくらいは出すぞ?」
後ろの部屋を指しながら正紀は笑う。箱の大きさからしてそんな大した量はなさそうなのだが、誘いには乗ることにする。何だかんだ言って、正紀の部屋に入るのは始めてかもしれない。
「おじゃましまーす……っておいおい」
思わず突っ込みを入れてしまったのは、部屋が荒れ果てていたからだ。足の踏み場もない位に。それに気付いた正紀も苦笑した。
「さっき言ったろ?トリックオアトリート。俺は別に良かったんだけど、いずるのヤツが甘党でさ、好きなんだよ、チョコ。瞬間始まるスゲー攻防戦」
いやぁ、凄かった。
何がって、いずるの剣幕が凄かった。まさかあの矢吹いずるがここまで抵抗するとはチョコ狩りをやっていたクラスメイトも予想外だったに違いない。しかし、抵抗虚しくチョコレートは全て彼らに持って位かれてしまい、傷心のいずるは一人弓道場へ行ってしまった。
翔はその現場を見ていないが、この部屋の惨状を見れば何となく分かる。
ドアの前で唖然としていると、背中から声がかかった。
「日向?」
この低くともどこか幼い声は
「遠也」
「何をして……って、何ですかこの汚部屋」
潔癖症のケがある遠也にとって、目の前の部屋は今現在踏み込みたくない部屋ナンバーワンだろう。
「汚部屋っつーな!てか、いっつもこんなんじゃねぇからな!」
物を掻き分けて戻ってきた正紀の一言に遠也は眉間を寄せる。
「そうですか。じゃあ俺はこれで」
関わりたくないと判断したらしい遠也はそのまま部屋の前を通り過ぎようとしたが、それを止めたのは意外にも正紀だった。
「ちょい待ち。お前も茶ぁ飲んでけよ、天才」
お?
翔は思わず心の中で声を上げていた。遠也と正紀の仲は悪くなくとも良いとも思っていなかったので、彼の誘いは意外だが、何となく嬉しい。遠也に友達が出来るのは翔も嬉しい事だったのだが
「お断りします」
対する遠也は素っ気無い。
「いや、飲んで行こうよ、遠也!俺も行くし!」
このチャンスを物にしないわけにはいかない、と翔は遠也の背を押した。ここで二人が親交を深めてくれれば遠也にもまた違う友達が出来る。
翔に誘われてしまった遠也は、それは流石に無碍に出来なかったようで、渋々と部屋の中に入った。が、足の踏み場もない状況に再び眉間に力が入る。
知り合いの早良の部屋も惨状だが、ここもそれに負けず劣らず惨状だった。
「ほい、コーヒー」
缶コーヒーを投げられ、それを受け取っていると、部屋に入ろうとしていた翔の動きが止まったのが視界の端に入る。
「日向?」
「あー……悪い、やっぱ俺部屋戻るわ」
突然のキャンセルに一番驚かされたのは遠也だ。
「日向?」
「悪い、チョコは適当に喰ってくれてかまわねぇから!」
そう言って翔は自室の方へと行ってしまう。
「ちょ!日向、待……」
行っても良いが、自分を一人残して行かないで欲しい。
「まぁ待て、天才」
慌てる遠也の肩を掴んだのは、正紀だった。
「な……離して下さい!」
「落ち着けって。ほら、あーん」
「ぐ!」
無理矢理口の中にチョコレートを突っ込まれてようやく遠也は動きを止めた。いや、早く咀嚼して文句を言おうとしているのだろう。そのどこか必死な様子に正紀は苦笑し、部屋を出た。
文句を言う相手が部屋から出て行ってしまい、遠也はその扉に手をついた、その時。
「よう、甲賀。随分男前になって」
正紀のそんな声に遠也は扉を殴ろうとしていた手を止める。甲賀、とはあの甲賀だろう。あのいけ好かない、翔のルームメイト。
「……篠田?お前、こんなところで何をしている」
「別に、何も。俺も部屋に戻ってきたところなんだ。日向も帰って来てるっぽいぞ」
「……そうか」
そんな会話がドア越しに聞こえてきて、遠也は眉間を寄せた。何故、正紀が自分をここに留めておいたのかよく分からなかったのもあり、いけ好かない相手がこれから翔と会うというのも何だか腹ただしいものがある。
「お疲れー、天才」
扉が開き、正紀の笑顔が視界の上の方に入り、遠也はため息を吐いて見せた。
「何のつもりですか」
「別に、深い意味はねぇけど……まぁ、天才には悪いことしたかなって。お前、甲賀嫌いっぽいから」
「嫌いっぽいじゃなくて、嫌いなんです。全く……俺は部屋に帰ります」
ああ、苛々する。
正直、正紀と話すのは苦手だ。今まで出会った事のないタイプで、どう対処すれば良いのか解からない。彼と二人きりにされるのなら、克己と二人きりの方がまだマシだ。
遠也が帰ろうとするところを、正紀も止めずに見送ろうとした。が
「……天才?」
遠也の背が止まり、いつまで立っても扉を開ける気配がない。もしや、何か怒らせたのだろうか。いや、もしやも何も確実に怒らせただろう。遠也は翔の事を大切な友人と思っていて、どこか謎な空気を持つ克己を警戒している。そんな二人を取り持った……というのは少し語弊があるかもしれないが、そんな役目を果たしてしまった自分に、彼が怒りを覚えるのは当然の事だ。
「あー……何だ、天才……悪かっ」
「……ださい」
「へ?」
小さい声でよく聞こえなかったので、正紀は思わず聞き返していた。すると遠也は振り返り、そして
「篠田、やらせてください!」
眼鏡の下にある大きな目いっぱいに正紀の姿を映して、遠也は言い切った。
「…………え?」
頭の中が真っ白になるというのは、比喩表現だとばかり思っていたが、この時の正紀の頭の中は正に頭の中が真っ白になっていた。
それと同時に笑顔を凍りつかせていた正紀が動かないことを良い事に、遠也はその体を押し倒し、馬乗りになる。その重みにさらに正紀は凍りつく。この状況の意味が解からない。
ただ茫然としているしかない正紀に、遠也は小さく笑った。
「緊張しているんですか?まぁ、人体のことは貴方より詳しいので安心して下さい」
遠也の笑みを見るのは恐らく始めてだったのだが、そんな事に感動する間もなく、するりと頬を撫でられ、悲鳴を上げそうになった。
「って!何のお話でございましょうか天才様!!てか、何この超展開!突っ込みどころは色々あるけど取り合えず言わせろ、俺が下!?」
よくよく見れば遠也の目が据わっている。何をやらかすか解からない目だ。
「貴方が下でないと意味がないでしょうが。多少は痛いでしょうが、我慢すれば気持ちが良いと思いますので……」
服を捲りあげて素肌に手を置いた遠也に、いよいよ危ないと正紀も血の気が下がる。
「ちょ!や、止めろって、天さ……佐木!!」
しかし、振り払おうとしても体が小さいのに力がなかなか強い。いや、振り払おうとすれば恐らく簡単に遠也くらいならどかせる事が出来るのだ。それが出来ずにいるのは、下手に力を振るい、彼を傷つけたらどうしようという恐れが根底にあるからだろう。
「……暴れると、痛いですよ?」
そして、遠也の据わっている目が心底怖い。
元不良頭であるはずの篠田正紀は、自分より身長が30センチ近く低い相手に白旗を上げてしまった。
「ひ……!佐木、痛、痛い……!もう無理だって!!」
「痛いだけじゃないでしょう。少し我慢してください」
「ぐほぁ……!!今ゴキっていった、ゴキっていった!!」
矢吹いずるは目の前の状況に呆気に取られていた。部屋の惨状は覚悟していたが、まさか親友と友人のそんな光景を目にするとは思っても見なかった。
「……何をしているんだ?」
恐る恐る問いかければ、正紀の涙目がいずるを見上げる。
「おー、お帰り、いずる」
「あ、矢吹、お邪魔しています」
ベッドの上でもつれ合う二人……といっても、性的なもつれ合いではなく、パッと見たところ、正紀が遠也にプロレス技をかけられているような図だった。
「整体マッサージですよ。前に本で読んだんですが、やる相手がなかなか見つからなくて……」
そこで見つけたのは正紀だった、と説明しながら遠也は腕に力を込める。瞬間、正紀が声を上げた。
「いってぇぇぇ!あー……でも何か気持ち良い……」
「……あ、そう……。まぁ、ゆっくりしていってくれ」
いずるは外に出てもらえたチョコレートのおかげですっかり機嫌を直していた。自分も、特に恋愛に興味があるわけではないが、目の前の友人達の姿を見ると、お前ら今日という日をそんな風に過ごして良いのかと言いたくなる。
……まぁ、本人達が良いって言うなら、良いのか。
「天才そこイッテェ!!」
「我慢してください」
……良いのか?
お終い。