蒼い月が森を冷たく照らす夜だった。
 その日、紬は気持ちのいい夜の森を上機嫌で歩いていた。満月の夜は月の魔力が最大限になる所為か、体の調子が良い。
 紬は人狼族という魔族の一族だ。魔族と言っても人間を襲うような一族ではなく、比較的人間とは友好関係を築いていた一族で人間とは自分達の聖域を侵さないという約束をしているから、目立った争いはしてこなかった。
 この森は紬たち一族の縄張りで、この森があるイル国とガーズ国とも協定を結んでいる。イルとガーズの国境に広がるこの森は、イルとガーズが仲が悪かった昔は戦火に巻き込まれたものだったが、今では二つの国は友好関係にあり、人間の喧騒に巻き込まれること無く紬たち一族も平和に暮らしている。
 こんな気持ちのいい月の夜に散歩をするのが紬の日課だ。
 今日も広い森をガーズの国境まで歩き、戻るつもりだった。だが、今日の森の雰囲気はいつもとどこか違う。
 それを怪訝に思いながらも慣れた道を歩いていると、どこからか泣き声のような音が僅かに聞こえてくる。そして、異質な匂いも紬の鋭い嗅覚は捕らえていた。
 この匂いは、野生の獣でも他の魔族でもなく、人間だ。
 協定を破って誰かがここまで入ってきたのか、と紬は自分の嗅覚と聴覚を辿りそれに向かって茂みを掻き分けた。時々、森の管理をする神官や騎士が入ってくるが、彼らはこんな森の奥までは入ってこないし、こんな危険な時間に入ってくるような馬鹿じゃない。
 となると、密入国者あたりか。
 正規のルートでイルに入れない人間が時々夜中にこの森を抜けようとするのだ。この森を夜に抜ける事がどれほど危険なことかも知らずに。
「どこのどいつだ」
 紬は爪と犬歯を剥き出しにしながらその匂いに向かって森を駆け抜けた。
 匂いが段々鮮明になってきて、さらに泣き声もはっきりとしてくる。すぐそこまでという距離になって紬はある違和感に気付く。
 この、頼りない高音の泣き声はまさか。
 ガサリ。
 茂みを掻き分けたところにあった小さな背に紬は眼を見開いた。
「・・・・・・あ?」
 相手は音に気付いて涙を溜めた大きな眼を紬に向ける。そして、紬の牙と爪に気付いたのか、更に表情を歪めた。
「こ・・・・・・子ども?」
「う・・・・・・っ」
 全身土まみれな上あちこちに擦り傷を作っている子どもは、今にも泣き出しそうだ。
「うあ、ちょ、泣くな!男だろ!」
 紬の姿はすでに青年期に入っていて、16歳くらいの姿になっている。相手の子どもは6歳くらいだろうか。傍から見ていれば、紬がその子どもを苛めている様に見えるだろう。
 あまり人間とは仲良くしたことが無い紬だったが、流石に弟くらいの少年を目の前にして牙を向けることは出来ない。
「あー、もう」
 いつまでも泣き止まない少年の眼はすっかり紅く腫れていて、痛そうだ。そんな彼の頬を、泣き止めという意味で舐め上げる。いつも親兄弟とやる動作で親愛の意味を込めたものだ。
 そうすると少年の泣き声が止んだ。
 その事にほっとしつつ、紬は彼の傷にも舌を這わせた。何てことない、いつも親兄弟とやることだ。人間もそうするのだと信じて疑わなかった。
 頬を一舐めすると、少年が流した涙の味がした。
「泣き止んだか?」
「・・・・・・貴方は誰ですか?」
 少年らしくない敬語で問われ、紬は思わず苦笑してしまう。
「むしろ、お前が誰だ。こんな夜中に、こんなところで何をしているんだよ?」
「道に、迷ったんだ・・・・・・家に帰りたい」
「家はどこだ?」
「森の、近く」
「・・・・・・お前、名前は?」
「さらしな、ゆーせい」
 更科、という名前には紬は聴き覚えがあった。森の近くに屋敷を持つ更科家は、森を守る騎士一族だ。一気に肩の力が抜けた。
「お前、更科家の人間か・・・・・・何でこんなところまで来たんだ」
「父上を迎えにいこうと思ったんだ」
 森を守る騎士である父の仕事が終わる時間に森に迎えに行ったら、迷ってしまったらしい。
 なんとも単純で子どもらしい理由に紬はため息を吐いた。
「仕方ない、家まで俺が送ってやるよ」
「・・・・・・え?」
 子どもは驚いたように紬を見上げ、何度か大きな眼を瞬かせた。
「貴方は、誰ですか?まさか密入国者じゃ」
 きっと眉が上がり厳しい表情になった子どもに、思わず紬は笑ってしまった。彼はまだ子供だというのに、森を守る騎士の気質をちゃんと持っている。
「違う。俺はここに住んでいるんだ」
「・・・・・・住んでいる?」
 少年の眼はまた驚きで瞬かれた。そりゃあ、驚くだろう。
「俺は、人狼族の紬だ」
 目線を彼の高さに合わせて教えてやると、彼の表情が怪訝なものになる。
「嘘だ、だって、人間の姿してる・・・・・・」
 どうやら、森を守る騎士の息子であるというのに人狼族が人間の姿でいるところを見たことが無いようだ。
 何も知らない子供が妙に微笑ましくて、紬の中に悪戯心が生まれる。
「人狼族はな、人間の姿になれるんだよ」
 そう言いながら紬は月を見上げて眼を閉じた。月の冷たい光に全身を包まれる感覚を感じながら、そっと眼を開けると、少年の驚く顔が待っていた。今の自分の姿は、狼の姿だ。
 どうだ、と鼻を鳴らすと少年はおっかなびっくりに紬の頭を撫でてくる。
「・・・・・・狼じゃなくて、犬じゃないですか」
 だけど、少年の呟きには思わず吠えてしまう。紬はまだ長い時を生きていない若い人狼で、人間体は16歳だが、まだまだ狼の姿は子犬のような大きさだった。
「犬じゃねぇ!狼だ!」
 プライドを傷つけられた紬はムキィと声を上げたが、相手は目をキラキラとさせて聞いていない。
「可愛い・・・・・・」
 少年は細腕で紬の身体を抱き上げ、もふっと柔らかい毛並みに頬を埋める。
「コラーッ!」
「道順、教えて。このまま歩きたい」
「って、お前な・・・・・・」
 腕に抱かれたまま少年は歩き出し、このまま人間体に戻ってやろうかと思ったが、彼の腕が細かく震えているのを感じ、止めた。
 そうだ、今は夜だ。イルは温暖な気候ではあるが、こちらはガーズ寄りの森だ。そして夜だから気温も低い。少年には寒い空気だろう。だから、毛の塊である自分を抱いていた方が暖かいわけだ。
 仕方ないなぁ。
 すり、と少年の首元に鼻を摺り寄せると、彼の肩に入っていた力が僅かに抜けたような気がした。

 紬のナビで森の入り口にたどり着くと、彼の両親が血なまこになって探していた。紬が人間体に戻ると彼の父が何度も頭を下げて礼を言ってきた。人間に礼を言われた事のない紬にとっては少々気恥ずかしいものだったが、悪くはなかった。
「守ってくれてありがとう」
 小さな子供がようやく笑みを浮かべた顔も、悪くはなかった。
「お前はもう一人で森に入るなよ」
「俺が今度は紬ちゃんを守るから」
「・・・・・・は?」
 しかし、突然の子どもの台詞には流石の紬も声を上げる。彼の両親も同じだっただろう、表情がオロオロと慌てていた。
「・・・・・・あ、騎士になるってことか?」
 紬は少年の台詞を、父の仕事を継ぐという意味だと慌てて解釈した。けれど、少年はふるふると首を横に振る。
「貴方を、守る為に騎士になる。そしたら俺を貴方の恋人にしてください」
「・・・・・・こい、びと?」
「はい!」
「いや、俺人狼族だし」
「そんなの関係ない」
 ・・・・・・この子ども。
 はぁ、と首を縦に折った紬の後で彼の父親が小さい声で「すみません」と謝るのが聞こえた。
 まぁ、子どもだしこんな一時的な感情すぐに忘れてしまうだろう。
「そうだなぁ、お前が王宮付きの騎士くらいになるまでの実力をつけたら、その時に考えてやるよ」
 王宮に使えることの出来る騎士は、騎士採用試験に合格し、ついでに剣術も相当使えないといけない。森の管理は世襲制だが、王宮付きの騎士の資格を取るのは相当な努力が必要だ。
 絶対無理だろう。
 そう確信しての条件だったが、少年は力いっぱい頷いた。きっと大きくなってまだその気があったとしても、その試験の難関さに諦める。
 森に戻った時には、紬は今あった事をすっかり忘れていた。

「ってのが、俺と紬ちゃんの出会いの話なんだ」
「へぇー・・・・・・」
 部下である更科の惚気話に付き合わされた翔は疲れた自分の肩を揉みながら適当な相づちを打っていた。更科は、紬のことになると言っちゃ悪いがウザい。
 更科は見事に王宮の難しい試験をトップの成績でパスし、久々の良い素材を見付けたと喜ぶ翔の父王が「どこに配属したい?」と聞かれて「森の守護に」と予想外の願いを申し出た人間だった。
 父としては、王宮の警護や王子の側近にしてもいいとまで考えていたのに。
 取り敢えず、彼の願いも聞き入れたが、翔の側近の地位にもついて貰った。だから、こうして時々森で剣術の修行の相手になって貰っているのだけれど。
「何だよ、王子。俺の幸せ分けてやってるってのに、つまんない反応だな」
「他人の惚気聞いたところで面白くねぇっつーの」
 こんな側近いらねぇ。
 翔はこの時心の底から思った。まぁ、良いお友達だけれど。
「もー可愛いったら可愛いったら」
「ハイハイ紬くんが可愛いのは解ったから」
 本当に恥ずかしいヤツ過ぎて、紬が可哀想になってきた。
「一番可愛いのは夜の紬ちゃんだけどねー」
「ってコラァ!黙って聞いてりゃお前なに言い始める!!」
 ガサッと茂みを掻き分けて紬が顔を出した。さっきから気配を感じてはいたが、とうとう耐えきれなくなったらしい。顔が真っ赤だ。
 けれど、彼がそこにいることを知っていて更科は翔相手に惚気ているのだから始末が悪い。
「紬ちゃん、今日も可愛いな」
 待っていましたと彼を抱きしめる更科と、それに驚く紬のやりとりを見るのはこれで何度目だろう。
「離せ、更科っ!」
「やだ。紬ちゃん抱き心地良いし」
「更科!」
「・・・・・・俺、帰っていい?」
 翔はため息を吐きながら思わず鳥が飛ぶ青い空を見上げていた。
 克己様に会いたいなぁ。
 そんな事を考えながらもう一度目の前の現実バカップルを見て、もう一つため息を吐いた。

 終。
  
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紬と更科出会いです。楽しかったです(゚∀゚)


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