一瞬、何が起きたのか解からなかった。
ナイフを取り落とした自分を見下す黒い瞳は何の感情も映していない。
「それまで」
教官の静かな声と共に彼は構えの体制を解いて、背を向けて周りに集まっているクラスメイトの中に戻って行った。
そんな彼を皆驚愕と戦慄の視線でむかえている。
彼は大して気に止める風も無く、部屋の白い壁に背をもたれさせていた。
茫然とするしかない。
「あっはっは、さわむー負けちゃったねぇ」
世間一般的には友人という関係らしい加藤がいつもの笑顔で戻ってきた自分をむかえる。
労いにも聞こえない彼の口調を目の端で捕らえつつ、密かに拳を握った。
「・・・・・・アレは何だ」
斬られて血が落ち始めた手の甲を庇うより先に、今の相手の事が気になる。
今まで、特にナイフでは上司にも負けたことが無かったのに、まさか同学年のクラスメイトに全く
歯が立たないなんて。
屈辱とか怒りとかそんな感情は持ち合わせていないと思っていたが、今のこの腹部が熱くなる
感覚がそれに当てはまるのだろうか。
人間なんかに、負けるはずが無いと思っていたのに。
「あっれぇ、沢村まだ覚えてないの?甲賀克己君だよー」
加藤の言った彼の名前を呟きながら、彼を視界に入れる。
自分を見下した彼の黒い瞳が眼に焼きついて離れない。
「こうが、かつみ・・・・・・?」
今まで圧倒的な強さを誇っていた沢村を初めて打ち負かした相手、しかもただの人間。
戦闘用に色々な薬剤を投入して能力を最大値まで上げられている自分を、負かした。
つまりは彼もかなりの強さを持つ、ということ。
退屈だと思っていたこの馬鹿みたいな学校生活に、初めて期待というものを感じた。
「甲賀克己、ね・・・・・・」
「それまで」
また、教官の冷たい声が響く。
床に硬質な音を立てて落ちたナイフを見ることなく沢村は顔を上げた。
そこには初めて手合わせした時と変わらない彼の黒い眼。
あれから何度か彼と試合をすることがあったが、彼にかすり傷を負わせる事はあっても一度も勝った事が無い。
何の変化も無い周りの彼への戦慄と驚愕の視線と、自分を見下すあの漆黒の眼。
でも
「大丈夫か?あ、やっぱり手ぇ怪我してる」
彼を恐怖の目で迎えない人間が現れた。
「・・・・・・かすり傷程度だ。ほっとけば治る」
ずっと聞いたことの無かった彼の声がこっちにまで届いてくる。最近、教室に居ても時々聞こえてくるようになった声だ。
「ちゃんと手入れした方が治り早いだろー?別に消毒薬足りないとか無いとかいう状況じゃ無いんだから
こういう時こそちゃんと治しとけって」
彼に説教をする人間なんて、滅多に居ないだろうに。
その明るい声が妙に耳障りで、思わず眉を寄せていた。
「さわむーってば、また負けちゃったねぇ」
試合をするフィールドから出てきた沢村を相変わらずの声のトーンで迎える加藤に目をやることなく、口を開いた。
「・・・・・・アレは何だ」
どこかで言われたことがあるような台詞に加藤は一瞬黙って、思い当たることがあったのか「あぁ」と笑った。
「やだなぁ、いっちゃん最初に教えたじゃーん。甲賀克己君だよぉ」
「違う。甲賀の近くにいる奴だ」
「あ、日向翔君ね」
さらっと名前を言えるだけ加藤はクラスの内部の事を把握出来ているらしい。自分とは大違いだ。
「可愛いよなぁ。日向君って見てると、ものすっげぇ虐めたくなるよね。ナイフでザクザクやって痛みに
泣き叫ぶトコとか絶対可愛いと思うしー。血とかジュースみたいに甘そうだし、肉も柔らかいんだろうなぁ、堪んない」
ニヤニヤ笑いながら口元に手をやる加藤は主食を生肉とする虎の遺伝子を持った合成人間。その言動には
いささか躊躇いを感じる時がある。
「甲賀君には虐められたいなぁー。あの眼、ゾクゾクするよね。総毛立つってゆーの?あ、俺さわむーの眼も好きだよ。
多分君がアンドロイドじゃなかったら飛び掛ってる」
「俺はお前が同族じゃなかったら殺している」
余計な事を話し始めた加藤の首元にナイフの切っ先を当ててやると彼の金色の瞳が半月型になった。
「さわむーも、好きでしょ。甲賀君のあの眼」
どこか見透かすような物言いに、これ以上余計な事を言うのなら本気でナイフを滑らせるつもりだった。
「強い者に惹かれるのは、動物の本能。弱い者を追い詰めたいのも、動物の本能。でしょ?」
けれど穏やかに微笑む加藤の顔にナイフを下した。
彼は普通の人間より本能で動いているだけなのかも知れない。そうなるように作られたのだろうし、
それは彼の責任ではない。
「・・・・・・教官」
彼に背を向けて、次の対戦相手を誰にしようかと生徒をジロジロ見ている教官に視線を移す。
まさか沢村が声を出すとは思わなかったのだろう、一瞬だけ周りがざわついた。
「何だ、沢村」
「俺、やりたい相手が居るんですが」
沢村がそんな事を言い出すとは思わなかったらしく、教官の目が興味深そうに細められる。恐らくこの事は
研究カルテに特記されるだろう。
「誰だ?」
この声色だったら、自分の願いは簡単に受け入れて貰えそうだ。
「日向翔」
先ほど聞いたばかりの単語を口にすると再び周りがざわついた。
あまりにも静かな声だったから、何故沢村が翔を指名したのかわからないのだろう。
一番不思議に思うのは恐らく指名された本人だ。
「へ・・・・・・俺?」
思いがけない事に戸惑いを隠せない声色だった。
そんな感情を表に簡単に見せる彼に負けるとは思えない。
・・・・・・だからこそ、苛立ちが募る。
教官が顎でフィールド内に行け、と指示をすると翔もナイフを片手に困ったような顔をしながら移動していた。
フィールドの真ん中に立ち、初めて翔と向き合った。
今まで特に気に止めていた相手でも無いから、初めて見る翔の顔の印象は“弱そう”。
試合を始める前から気合負けしている相手に、本気で殺してやろうと密かにナイフを強く握っていた。
テニスや野球等のスポーツと同じ。自分が打ったり投げたりしたボールが相手に当たって怪我をしたとしても
こちらは責任を問われない。
こんな殺し合いの仕方を学ぶところなら尚更だ。相手を殺したって罪には問われない。
テキスト通りの構えをする翔に冷たい視線をやり、沢村も一番やりやすい構えの姿勢を取る。
不意に、あの射るような視線を感じた。
普段は他人の試合になんて興味を持たない彼がじっとこちらを見ている。
コイツがそんなに気になるのか、と翔を視界に入れた時号令が出た。
「始め」
すぐさま踏み込んできた沢村のスピードに翔は大きく目を見開いたが、慌てて身を低くして対応する。
ガキン、と刃がぶつかり合う音が緊迫した空気を振るわせた。
一発目は受け止められた。でも、そうでないと面白くない。
こちらの力を受け止めるのが精一杯と見える相手の刃はカチカチと揺れていた。少し押し切ったら簡単に刃を
弾く事が出来そうだ。
そう思って更に力を加えてみたが、意外にも相手はそれにも耐えていた。代わりに、こちらを睨む目が少し
苦しげに細められる。
力は、中の下。
筋力だけを重視して作られた人造人間を相手にしたら一瞬にしてひねり潰されるだろう。自分がそのタイプで
無かった事に感謝して欲しい。
キィッと金属が擦れる嫌な音と共に翔の視界から沢村が姿を消した。
気配を感じたのかすぐに翔は後ろを振り返り、沢村の刃を受け止める。
これは少し意外。反射神経とスピードは共に中の上、といったところか。
でも総合判断的には下だ。
「お前、本気かよ」
容赦ない攻撃に翔が思わず呟いた言葉が耳に入る。
本気で自分を殺す気なのか、と彼は聞いてきているのだ。
攻撃を受け止めるのが精一杯で、防御にしか回れない彼に口角を上げて見せる。
「解からない」
自分に感情というものがあるのかないのか・・・・・・それは今更どうでも良い事だから、彼の言う“本気”という事がどういう
感情なのかも解からない。
ただ、殺してやろう、と思う。
出来るだけいたぶって出来るだけ惨く。
そうする事で快楽を味わえるわけでは無いが、今もこの身に感じる視線の存在がそうしろと自分に判断させている。
もし自分がこの弱い相手を彼の目の前で惨殺したら、あの自分を見下した黒い眼はどう変化するのだろう。
怒りか、憎しみか、哀しみか。
そして恐らく彼は自分にその感情を込めた刃を向けてくるだろう。
人間は、感情に左右される生き物だと聞いている。
その時、彼がどれくらい強くなるのか、それだけが気になった。
それは純粋な強さへの興味。
これが、加藤の言う本能なのだろうか。
こちらの返事に相手は不快気に眉を寄せ、初めて攻撃の刃を向けてきた。けれどそれもゆっくりで弱い一撃。
あっさり受け止める事が出来る。
子供の遊びを相手にするような感覚は、彼を相手にした後では生温すぎた。
「・・・・・・つまらん」
そのまま慣れた手付きで相手のナイフを弾き飛ばすと、思ったより高く遠く飛んで行く。
武器を失った翔の目が大きく見開かれた。
時間制の試合はどちらかの武器が無くなろうとどうなろうと、フィールドアウトするか時間になるまで号令はかからない。
試合時間は6分、残り3分。
充分すぎる時間だった。
フィールドアウトをさせる隙も与えるつもりはなく。
殺すつもりで心臓を狙ったら流石にこちらの意図に気が付いたのか、相手は動揺しつつも慌てて避けていた。
それでも手に肉を切り裂く感触があったのは、相手の二の腕を刃が掠ったから。
もう少しスピードがあれば完全に避けられたはずだけれど、彼の実力はこの程度。
彼が痛みに表情を歪めた時、あの視線の温度が少し変わったような気がして口元が自然と歪む。
これからは捕食者と被食者の時間だ。
「あー、いいなぁ、沢村ぁ」
どこからか加藤の羨ましげな声が聞こえてくる。
一緒にするなと積み上げてきたプライドが心の中で吐き捨てた。
後でアイツにからかわれるのも癪なので、とっとと終わらせるか。
傷口を押さえながら睨んでくる相手を見据え、ナイフを振って付いたばかりの邪魔な血を飛ばした。
まだ恐れを表情に出さないだけマシかもしれないが、本当に解からない。
「どうしてお前みたいな弱いヤツが・・・・・・」
小さく呟いたはずなのに翔の耳には届いていたらしい。睨んでいた目が少しだけ怪訝な色を持つ。
自分の手元に集中する観客の視線。
どれもこれも気に止めるものではないけれど、一つだけ痛いほどに感じるものがある。
それを意識しつつ翔に一歩一歩近付いた。
何をしても時間内なら止められない。ならいっそ犯してみるか?と考える程には自分も狂っているらしい。
コツ、と一歩踏み出すたびに軍靴が硬質な音を立てる。
悔しげに睨んでくる相手は武器も無いのに傷口から手を離してファイティングポーズになった。
その度胸だけは褒めてもいい。
でも度胸があるならそれに見合うくらいの強さを手に入れないことには。
振り上げたナイフが照明を反射させた。
その瞬間、背筋が凍る。
振り下ろそうとした手が反射的に固まり、どうしても動かない。
何だ?
刺されると構えた相手はなかなか衝撃が来ない事に疑問を持ったのだろう。閉じていた眼が開き、こちらの手元を
見上げようとする。
今の状態を気付かれるわけにはいかない。
瞬時に別な判断をして手の中のナイフを投げ捨てて、その勢いで視線を上げようとした相手を殴り飛ばした。
体重が軽いだろう相手は気持ちいいくらい吹っ飛んで、あっさりフィールドアウト。
時間は来ていないけれど、どの瞬間に相手の負けが決まった。
終わった試合に背を向けてフィールドに出ると加藤の意外そうな表情に迎えられる。
「何で殺さなかったのさ。殺る気だったくせに」
「・・・・・・」
「ちぇ、だんまり?」
つまらなさそうに唇を尖らせる彼を一瞥して近くの壁にもたれかかった。
あの視線を受けた背がまだ熱い。
ナイフを振り上げた瞬間、ワケのわからない感情に体が動かなくなった。
あの視線の所為、か。
吐き気がする程の殺気が自分の背を刺してきた。
「でもま、弱いものイジメはさわむーには似合わないよね」
苦笑をしながら加藤が前に立ち、手の平を差し出してくる。
「ナイフ貸して」
「・・・・・・何故?」
「日向君の血ぃついてるでしょ?舐めたい」
「殺すぞ」
不愉快だ。
目の前のこの男も不快だったが、視線ごときに怯えて目的を果たす事の出来なかった自分に苛立ちが募る。
それもこれも、全部あの眼を持つ彼の所為。
彼に密かに目をやると、怪我をした友人の応急処置をしていた。
本当に、理解出来ない。
あんな弱い人間に何故彼程の力を持つ人間が構う?
世界の人間を二種類に分けるとしたら弱者と強者。女とか男とか関係無しに。
弱者は強者に従い、強者は弱者を蔑むべきだ。
そんな世界観しか持っていない沢村には彼の行動は理解出来なかった。
自分をあんな眼で見下してきたくせに、自分より断然弱い翔にはそんな眼を向けない彼に、イライラする。
「さわむー?」
壁から背を剥がして、気が付いたら甲賀克己の前に立っていた。
「・・・・・・何だ」
どこかかったるそうに、相変わらず感情なんて読めない黒い眼で彼は自分を見てくれる。さっき彼の友人に
怪我を負わせたのだから、もう少し怒りや憎しみを見せてくれてもいいものを。
「何故お前程の人間があんな弱いヤツを構う」
目線で少し離れたところで別な友人達と談笑している翔を示し、今までずっと彼に聞いてみたかった事を口にした。
沢村の視線を辿って翔に着いた時、克己は口元を上げた。
「聞くだけ無駄だ。止めておけ」
「・・・・・・何?」
「造りモノのお前には理解出来ない話だ」
造りモノ。
直接的に人造物だとクラスメイトに指摘されたのは初めてで、思わず眉を寄せていた。
その様子に克己は何かを納得したらしい。
「・・・・・・成程、あの指名は翔の力量を測る為、か?」
「それも有ったが、途中からはアイツを殺したらお前がどれくらい強くなるか試したくなった」
さらりと目的を暴露する沢村には少々閉口したが、そのさらけ出し具合は造りモノの証拠かも知れない。
「今でも俺に勝てないくせに、か?」
嘲笑する克己の言葉に沢村は唇を引き結ぶ。
「造りモノが思い上がるな」
黒い眼がまた自分を見下す。
この、駆け上がってくる寒気は恐怖というものなのだろうか。
今まで感じた事が無い感情だ。
「必ずお前を殺してやる」
無感情な声での宣言を克己は鼻で笑った。
「造りモノが俺に勝てるわけがないだろう」
こちらのコンプレックスを的確ついてくる彼の台詞は更なる怒りを覚えた。
感情なんて自分には絶対に出来ないと思っていたけれど。
この無駄なものを自分の中から排除するには、彼をまず排除しないと。
でも、彼の黒い眼は恐らく一生忘れる事が出来ないだろう。
そんな予感。
「甲賀君、怪我してたよねー、折角だから血ぃ舐めさせてよー」
馬鹿が一匹こちらに気が付いて場の空気をブチ壊してくれたのにも苛立ちを感じた。
加藤の登場にあからさまに克己も嫌そうな顔をする。
「・・・・・・遠慮する」
「えー?駄目かー。なら日向君でもいいかな、ひゅーがくーん」
「殺すぞ」
舌打ちをしながら自分のナイフを握る克己とそれを輝く瞳で見る加藤。
まず、屠るなら加藤だろうか・・・・・・。
冷静に物事を考えている沢村が居た。
終
「屠る」と「闇雲」でし、た。
たまには彼を・・・・・・書かないと・・・・・・忘れられるから・・・・・・。
軽くだけど戦闘シーンが書けて楽しかったです。次はもっとガツガツ書きたい・・・・・・!
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