あの日から一週間とちょっと。まだまだ傷は完治しません。


おかしいなぁ、口の中って傷、治りやすいんじゃなかったっけ?

舌先で多少小さくなったような傷口をなぞり、その痛みを確認してから毎日ため息を吐く。
もう一週間になるのに、なかなか傷は治らなかった。
遠也に勧められてビタミンの多い食べ物もきちんと食べているのに。
苦手なレバーも食べているのに。
苺も好きだし、ビタミンCを摂るのに良いと聞いたからここ一週間ほぼ毎日食べている。
なのになかなか治らない。
「日向元気ないなぁー」
事情を知っている正紀といずるがむすっとしている翔の様子に苦笑する。
この原因を作った張本人は、現在多分射撃場で腕を磨いているだろう。人の気も知らないで。
「にしても、甲賀も厳しいなぁ。傷が治るまでキスしない、なんて」
意外、と言いたげないずるの言葉には思わず頷いてしまう。翔としても意外だったから。
前々から、洗った髪はちゃんと乾かしてから寝ろとか、傷の手入れはすぐすることとか、母親のようなことは何度も言われてきたが、今回もそれだろう。
「俺だったらむしろその傷責めて痛がる顔楽しむけど」
さらりといずるが言ったことはとりあえず無視しておいた。
「で、傷は治りそうか?」
正紀の質問にもう一度その傷に舌で触れて首を横に振る。
「治ってきてはいるんだけど・・・・・・」
気が付いたら塞がりかけていた傷が開いていることが何度かあり、そのたびにがっくりした。
まだまだ克己の言う“治る”には程遠い。
しゅんとする翔の様子に見かねたいずるが軽い口調で
「あ、なら日向から誘っちゃえばいいんじゃないか?」
「へ?」
「いずる!?」
正紀のぎょっとしたような声にも怯むことなく、いずるは笑顔で続けた。
「だって、日向だって男なわけだし?日向が甲賀を押し倒しても良いだろ?」
「おい、いずるお前無責任に変な事日向に教えるなよ。日向、お前も本気にしなくてい・・・・・・」
日頃、良い雰囲気を邪魔して顔に辞書を投げられている正紀は、いずるより克己の恐ろしさを知っている。だからこそ止めたのだけれど、遅かった。翔の顔がきらきらと輝き始めている。
「そうだよな、俺からキスしても良いよな!」
「そうそう。誘ってしまえ」
「んでも、俺誘うとかそういうのよくわからないんだけど・・・・・・」
翔の言葉にキラリといずるの眼が光ったのを正紀は見てしまった。
ヤバイ、と思いつつもいずるの笑顔が怖かった。口を出したら多分自分の身が危ない。
「じゃあ日向、お兄さんが色々と教えてあげよう」
ぽん、と肩を叩いてきたいずるの姿は翔からみたら天使だったけれど、正紀から見れば悪魔以外の何物でもなかった。
けれど、所詮自分の身が一番大事なわけで。
悪い、甲賀・・・・・・俺には怖くて止められない。
何も知らない克己に、正紀は思わず合掌してしまった。
「まずは初級かなー。日向、今から教える言葉を二人っきりの時に言ってみなよ」
「よし、わかった!」
俺は何も見ていないし、何も知らない。
正紀はひたすら二人の会話を聞かないようにしていた。


次の演習は森でペアでの行動だから、そこでまず挑戦だ、日向。


と、言われたはいいものの。
現在演習時間で広い森に放り込まれ、多分クラスの誰かと遭遇という展開は滅多にない。
けれど、一応授業時間なのに、そんなことしちゃいけないんじゃないか?
そうは思うけれど・・・・・・。
「翔、足場悪いから気を付けろ」
「あ、はーい」
木の根で歩きにくい地点で先を歩いていた克己から声がかかる。
事務的な注意だとは思うけれど、それも嬉しく思う辺り重症だ。
やばい、少し緊張してきた。
演習中に変な感情を入れるとロクなことにならない。だから緊張をほぐすために歩きながら空を見上げて気を紛らわしてみた。
緑色の葉が青い空を覆い隠している光景に、思わず感嘆の息を吐いてしまう。
「にしても凄い森だなぁ・・・・・・」
ぐに。
ぐに?
上を見上げていたら足の下で地面や木の根ではない何かを踏んだ柔らかい感触が。
なんだろう。
何の覚悟もしないで下を見て、そこでうねうねと苦しげに動いている細長い生き物を視界に入れてしまい頭の中が真っ白になった。
蛇、だ。
「っだぁぁぁぁぁ!」
「翔!?」
いきなり背後で悲鳴を上げられたら誰だって驚く。
「蛇―!ヘビー!中村がー!!」
銃を片手に構えて振り返ると、蛇を踏みつけたままパニックになっている翔がいた。
「おい、翔落ち着け・・・・・・毒は無い種類だ」
「そういう問題じゃない!」
一度蛇で痛い目にあっている翔はどうやら数あるトラウマの中に蛇も追加されてしまったようだった。
「昔は蛇振り回して遊んだ事だってあるのにー・・・・・・」
「・・・・・・なかなかな経験だな」
小さい頃は何が怖くて何が危険かわからなかったから、その尻尾をつかまえてはぶんぶん振り回してどこまで遠くに飛ばせるかなんて遊びもやった事がある。
そんな遊び道具がこの歳になって怖くなるとは。
「こんなんじゃ、森での任務は出来ないな。どうするんだ」
逃げていく蛇を見送りながら克己はため息を吐く。呆れられたような気がして、更に自分が情けなくなった。
「どうするって言われても・・・・・・どうしようも」
悔しげに表情を歪めた翔に、何を思ったか斜面になっているところから突き出した太い木の根に克己は腰掛けて手招きをしてきた。
何だろ。
足元に蛇が居ないか確認してから彼の近くに行くと、その胸に抱き寄せられた。
「っな!な、ななな何だぁ!?」
突然の事に大声を出すと手で口を塞がれる。
「静かに。授業中だ」
授業中は静かに。
普通の学校とこの学校ではその理由が違ってくる。更にその重要度も違ってくるけれど。
この状況で静かにというのは無理に近い。
「そうだ、授業中なんだよ!」
さっきまでいずるに言われてきたことを実行しようとしていた自分を棚に上げて翔は顔を紅くする。
小声で抗議しながら腕から抜け出そうとしたけれど、はたりとその動きを止めた。
多分この状況は今まで自分が望んでいたものだ。
そう自覚してからさらに顔が熱くなるのが解かる。何だか自分が色々な意味で恥ずかしい。
「男相手より蛇の方が怖いというのも不思議な話だな」
「悪かったな・・・・・・」
「お前、他のヤツと森での任務の時はこんな事させるなよ」
「当たり前だろ・・・・・・」
何馬鹿な事言ってるんだ。
久々の接触に強く抱きつき返すと頭を撫でられ、ついでに額に柔らかい感触が。
「へ・・・・・・」
「そろそろ行くぞ。時間が無い」
何?と思った瞬間にぱっと体を離されて、何をされたのか確認する時間はなかったけれど。
もしかして、この雰囲気でいずるに教えてもらった台詞を言えば。
「か、克己!」
「ん、何だ?」
「熱い!」
「・・・・・・そうだな、日差しが少し強くなったな」
・・・・・・あ、あれ?
何だか反応が期待していたものと違う。
めげずにもう一つ、別な台詞を思い出し、曖昧な記憶に首を傾げながら
「えーと、えーと、イく?」
「あぁ。行くぞ。後30分でも目標地点に行かないといけないからな」
・・・・・・あれぇー。
確か、カタカナ表記なところがミソなんだ、と言われた台詞でも駄目だった。
あんなにいずるが「これで駄目な男はいない」と熱弁していた台詞なのに。
何故だ。
「おい、翔、集中しないと怪我するぞ」
考え込みながら歩いていたら克己に怒られた。



「・・・・・・いずる、お前なぁ・・・・・・何であんな時と場所と状況限定な台詞を教えたんだ。って何笑い死んでるんだよ」
こっそりと様子を伺っていた正紀は、翔達が居なくなったのを見計らって隠れていた茂みから顔を出す。
けれど友人は笑いが止まらないらしく痙攣している。
「い、いや・・・・・・てゆーか・・・・・・プフー!!」
「無理に喋らなくていいぞ、いいからな」
「いや、でもこれでまた次の作戦を考える楽し・・・・・じゃなくて次の作戦を考えないといけないな」
今、楽しみって言おうとしたな、コイツ。
冷たい眼でみたところでいずるが止めるわけではないので放っておくけれど。
「日向もなぁ・・・・・・男前すぎるんだよな」
熱い、だなんてあんな力いっぱい言う事じゃないのに。
いや、むしろ力いっぱい言ったから誤解されたのか。
それに、いずるに変な知識を入れられないほうが、スムーズに事が済んだような気がする。
「いずる・・・・・・」
「何?」
「お前、最悪」
「正紀にそう言って頂けると楽しいよ」
日向、悪い。俺にはコイツを止められない。
そうは思いつつも正紀も結構楽しんでいるから、止める気も無いというのが本音のところだ。
「さーて、次は男心を掴む王道、コスプレかなー。一緒にAV鑑賞とどっちがいいだろう?な、正紀」
「俺は前者かな。甲賀に理性の限界に挑戦してもらいたいし」
「よし。じゃあ次はナースで」
「え、俺はセーラーの方が」
「それはお前の趣味だろ?今回は甲賀の趣味を突かないと」
「あーそっか。んでもアイツナースなのか?」
「さぁ?とりあえず事前に聞いて・・・・・・」
「・・・・・・何の話をしているんですか?」
硬質で冷たい、まるで氷のような声に二人は凍らされた。
克己と同じくらい恐ろしい人物が、自分達の背後に仁王立ちで存在していた事に気付かずに話をしていたから。
「よ、よぉ、天才」
代表で正紀が遠也に挨拶をすると、彼は冷たい視線で正紀を一瞥し、スタスタと何も言わず大志と共に歩き去った。
怖い。何も言われなかったあたりが物凄く怖い。
「・・・・・・コスプレは止めとくか、正紀」
「・・・・・・そうだな」





悪戯大好き親友コンビがちょっかいを出すのを諦めたその後日。

「口内炎の原因の多くはストレスだって知っていました?」
夕食時に遠也がそう言った。一体何の意図があったのかはわからなかったけれど、突然それだけ言って自室に戻っていった。
翔は特にその言葉を気に留めず、もそもそ苺を食べていたら正面に座っている克己の視線を感じる。
「・・・・・・お前、最近苺好きだな」
「元から嫌いじゃないけど?」
それでも、最近はお菓子を食べるにしてもいちご味を無意識に選んでいた気がする。
まぁ、それは
「それに遠也に苺食べれば早く口の傷治るかもって聞いたしなー」
ビタミン摂取をすれば、治ると聞いたから。
笑いながら苺を食べようと硝子の器に伸ばした手を、突然克己に掴まれる。
「へ・・・・・・ちょ、克己?」
「部屋に帰るぞ」
克己が椅子から立ち上がり、手を繋いでいる状態だからそれにあわせて翔も立ち上がると出口の方に腕を引かれた。
「あ、あ?え?ちょっと待てよ、俺苺全部喰ってないのにー」
ばたばたばた。
二人分の足音が消えて行ってから、その場に居た正紀といずるは重いため息を吐いた。
二人がほぼ同時に思ったことはただ一つ。
流石天才と天然。
特に前者の方は、計画を途中で断念して良かった、と心底思った。
「てか、甲賀って、緩急というか、飴と鞭というか・・・・・・上手いよな」
「は?」
いずるの言葉の意味がよく解からず、正紀は首を傾げると優しい親友は解説をしてくれた。
「何て言うか、恋人の扱い方だよ。甘くされたり厳しくされたり、でもその厳しさは自分の為だってわかる程度。上手く使いわけされたら、俺だったら相当はまって抜け出せなくなるね」
「はぁ・・・・・・そういうもんなのか」
「日向も厄介なヤツに惚れられたっていうか、惚れたっていうか・・・・・・」
「ま、長く続く為の努力なんじゃね?」
成程、そういう方面で気を使っていれば男役とか女役とかどうでも良くなるかもしれない。
それにどうせ色々教え込んでいるのは克己の方だろうし。
自分のスタンスも守れて、恋愛も長く続いて一石二鳥、か?
「・・・・・・いずる」
「何?」
「甲賀って、俺が考えてた以上に頭良いのかもな」
ついでに、考えていた以上に恋人を大切にしているようで。
やっぱりそんな二人の邪魔はしないようにしようと心に固く誓った。
辞書を投げつけられない為にも。



「大丈夫ですか、日向」
その次の日、ぐったりしている翔に遠也は何があったのか想定の範囲内だったのだろう。「どうした」ではなく「大丈夫か」と聞いてきた。
「も・・・・・・しばらくキスしなくていい」
「それはそれは。口の中の傷の方はどうですか?」
遠也もいくつか色々とアドバイスしたので、彼の傷の経過は少し気になるところで。
すると翔は机に投げ出していた身を起こして、ちょいちょいと遠也を手招きする。
それに従って、翔に顔を近づけると
「・・・・・・朝起きたら治ってた」
小声での完治報告だった。


終。




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