翔は一人、教室で克己を待っていた。
夕焼けで紅くなった教室で一人待つというのは何だか物寂しい気分になるもので、早く帰って来ないかと、椅子を軽く蹴りつけた。
窓の外をちらりと見ると、下には、何人かの女の子に囲まれている克己がいた。
まさか、ここから見えるとは彼も気付いていないだろうな、と人の悪い笑みを浮かべてしまう。
その時だ。
「あれぇー?日向くん、一人ぃ?」
笑いを含んだその声に、身を竦ませる。
「加藤……と、沢村?」
一番一人で会いたくないクラスメイトと、遭遇してしまった事に背筋に悪寒が走った。
加藤はにこにこと悪意のない笑顔を向けてくるが、その裏なかなかに凄惨な性格であることは翔も知っている。演習の時に、敵となった相手を必要以上に痛めつける彼の戦い方は、直視出来ない程だった。
沢村は普段どおり、冷めた目でこちらを見るが、彼も警戒すべき相手と認識している。早くこの教室から逃げ出さないといけない。頭の中で警報が鳴り響いていた。
「あ、そっか。今日はバレンタインだっけ?甲賀くんモテモテなんだー?妬けるなぁ。さっきも教室前でうろうろしてる子いたよ」
加藤は確実にこちらに足を進めていて、ワケの解からない恐怖が増幅する、彼らは、ただのクラスメイトなのに、どうしてここまで恐ろしいのか、翔自身わからなかった。
「チョコレートなんて貰ってないよ、俺も、さわむーも。羨ましいよなぁ、モテる子って」
「……別に俺は羨ましくない」
沢村がぼそりと呟くが、黒い瞳は光を映すことなく俯いたまま。
そんな彼の主張を気にすることなく、加藤は翔の肩を掴み、眉を上げる。
「ほっそいなぁー……折れちゃいそう……折っちゃおうか?」
「っ止めろ!」
物騒な言葉に翔は慌てて彼の手を叩き落とした。その抵抗が面白かったのか、加藤は肩を竦めて口を歪める。
「やだなぁー。本気にしないでよ。でも、よく折れないよね、加減難しそう。こう、ぎゅーっと抱き締めたらボキボキってイっちゃいそうなのに」
楽しげに、愉快気に言う彼の怖い言葉に、翔は一歩後ずさる。いや、ここで負けていては駄目だ。平常心を保たないと。
「そこまで、弱くねぇよ」
強気な声を出した翔に加藤はニコリと笑い、
「じゃあ、試してもいい?」
抵抗する間もなく、彼の腕に捕らえられてしまった。
息が出来無い程に強く抱き締められ、痛みと苦しみに呻くしかない。一度巻き付いたら対象が死ぬまで離さない、という大蛇に捕まった時は、きっとこんな感覚だ。
「はな、せ……っ!加藤!」
本当に骨が折れてしまいそうなくらいの力に、声で抵抗するのも危うい。
「あー、本当だ。これくらいじゃ骨って折れないんだ。意外と丈夫だね、人間の体って」
まだ腕に力を入れているのか、骨が軋む音が聞こえてくる。このまま力を込め続ければ、本当に骨が折れてしまうだろう。
「骨なんて折ったところでつまらないから、折らないけど……」
耳元で聞こえた加藤の言葉に少しだけ安心した。だが、首元に走った激痛に、眼を見開くことになる。少し広くなった視界の端に入った沢村は、矢張り冷めた眼をしていた。
「痛って……ぇ」
加藤の歯が首元の皮膚を食い破り、噴出した血を舐めている音が不気味に響く。
「日向くんの血は甘いなぁ……さわむーも舐めてみなよ、美味しいよ?」
「……断る」
「ってめ、ざけんな、加藤!」
渾身の力で彼を突き飛ばしたが、自由になった体にはもう力が入らず、かくりとその場に膝をついてしまう。どれくらい出血したのか解からないが、頭がクラクラする。気分が悪い。
「弱いな……」
ふら付く翔の姿に、沢村は不快気に眉を寄せる。初めて見せた彼の感情の波に触れ、その奇妙な空気に翔は吐き気を感じた。
これは、殺気だ。
「お前、弱いのに何故甲賀克己と共にいる?」
「ん?どしたの、さわむー」
「何故、これほどまでに弱い人間を、あの甲賀克己は気にかけるんだ?」
何を聞いてきてるのか、翔には理解出来なかった。ただ、息苦しいほどの殺気に、床についた手が震えた。
だが、加藤の方もこんなに何かを知りたがる沢村を見るのは初めてのようで、少し驚いている。
「ひゅーがくんが、可愛いからじゃない?」
「……可愛い?可愛いとは、何だ?」
「うーん、俺もよくそこらへん解かんないんだよねぇ。博士とか、そんな事教えてくんないし。ねー、日向くん、可愛いって、なぁに?」
知るか、阿呆。
熱を持った首元からは血が溢れ、まだ出血が止まらない。恐怖で声を出すのもままならない自分にそんな事を聞く方が間違っている。
ぱたた、と腕から血が伝って、白い床を汚した。
「あー、でも俺、日向くんの苦しんだり泣いたりする顔はちょっとゾクゾクする。もしかしてさぁ、可愛いってそういうこと?」
ぜってぇ違ぇ。
そう言いたくても首が痛んで言えない。
もう、何でもいいから早く彼らにいなくなって欲しかった。恐怖で身が竦むなんて久々で、息をするのさえ苦しい。
目の前で笑う加藤の口元が自分の紅い血でべっとりと汚れているのを見てしまい、悲鳴を上げそうだった。
克己。
克己、頼むから早く来い。
そう念じながら、彼らに意図を察せられないよう慎重に、後退する。きっと、傍から見たらただ怯えて後ずさっているだけだと思われるに違いない。
「やだなー、そんなに怯えないでよ、可愛いから」
覚えたての単語を使い、彼はつかつかとこちらに歩み寄ってくる。
慌てて窓枠に手をかけて立ち上がろうとしたが、遅かった。彼の手が首元に伸び、ネクタイをまず引き抜き、シャツを引き裂いた。
びりっと繊維が破れる音に翔は眼を見張る。力任せに手で引き裂いたのではなく、加藤は爪で服を破っていた。
「動かないでね。怪我したくなかったら」
そして、下に着ていた黒いTシャツも、同じように爪でボロボロにされる。ぱさりと布の切れ端が床に落ちた時、加藤が眼を細めた。
「何か、キレイだなぁー……真っ白ー……ゆき?っていうんだっけ、こういうの」
白い肌を興味深げに撫で回し、彼はまたワケの解からない事を言った。
「何、する気だ……」
男相手に肌を晒すことに普段は抵抗が無いが、こうした状況でこんな目に合わされると流石に恐怖を覚え、自然と体が震える。
「え。わかんない?これから君をね、」
食べるんだよ。
にこりと微笑む加藤に、絶望の底へと叩き落された。
「どこから食べよっか?こことか美味しそうだよなぁ」
紅い舌が空気に晒されていた乳頭を舐め、もう片方は指で撫でられた。どこか性交の愛撫にも似た行為に、頭の中が真っ白になる。
「ぃやだ、齧るな……っ」
彼の犬歯がそこに触れ、恐怖に囚われ体が細かく震え始める。抵抗することもままならない震えた腕で加藤の肩を押すが、加虐心を増長させる効果しかない。
「可愛いなぁ、日向くん」
外からは楽しそうな女の高い声。まるで、現実からここだけ切り離されたような恐怖に、翔は眉を寄せる。怖がっているだけじゃ、どうにもならない。
「っらぁ!」
加藤の猫目が細められた時、その顔に翔は思い切り頭突きを食らわせた。
ゴッという物凄い音に、流石の加藤もそんな攻撃をされると思わなかったのか、ぐらりと体が揺れ、後ろに倒れていた。ハッとしたような沢村と目が合ったが、彼は少し遠い位置に立っている。ここまで来るのには、流石の彼でも数秒かかる。
座っていたおかげでさっきの貧血は少し和らいでいた。開いていた窓の窓枠に足をかけ、くるりと振り返り二人を鼻で笑う。
「お前らの餌になるくらいだったら、こっから飛び降りた方がマシなんだよ」
何の躊躇いも無く窓枠から足を離すと、下の方から女の悲鳴が聞こえる。
彼が、気付いてくれていれば良いのだけれど。全ては運を天に任せるしかない。
ぐっと眼を閉じて、浮遊感に身を任せてすぐだ。軽い衝撃の後に浮遊感は無くなった。ここで、コンクリートや茂みに落ちたのであればもっと衝撃は酷かったのだろうが。
「翔、お前……!」
ああ、やっぱり。
眼を開ければ、心配そうな克己の顔が真上にあった。
「克己なら助けてくれると思った」
にへ、と笑顔で彼を見上げ、体を起こしたかったがそんな体力は残っていなかった。わずかな動きでも痛む首の傷に、自分の体を抱きとめてくれた克己も気付いたようで、眉を顰めて自分達の教室の方、つまりは今翔が落ちてきた教室を見上げた。
「甲賀くーん!日向くん、だいじょうぶー?」
厚顔無恥とはこのことだ。何の躊躇いも無く加藤が手を振っている。しかも、笑顔で。
それを眉を寄せた顔で見上げると、克己の方も何かを察したらしく、怒りで声を震わせた。
「あいつ」
「駄目だ、克己!行くな!」
今すぐ教室へと走って行きそうだった克己を翔は慌てて止めた。今、教室には沢村と加藤がいる。克己一人であの二人を相手にするのは、危険すぎる。
「だが」
「ダメだ、アイツ等、おかしいって……ほんと、おかしい……ダメだ、克己だって、怪我するかもしれない」
人間を食べるなんて、正気の沙汰じゃない。その理由で噛み付かれた首元を押さえ、翔は首を横に振った。血は止まりかけていたが、まだ手を紅く汚している。
「……大丈夫か、傷は」
「加藤のヤツ、ほんと、おかしいんだ、俺の血、舐めて……甘い、とか美味しいとか」
「翔、落ち着け」
その時の恐怖を思い出したのか、翔の声が震え、顔がくしゃりと歪んだ。
「お前が遅いのが悪いんだ、このばか……!」
本当は、そこが原因ではない事は解かっている。別に教室で待っていなくても良かった。先に帰っても良かった。
それでも、「すまない」と謝ってくる克己に安心し、嗚咽を噛み殺した。
「あー、甲賀くんと日向くんがらぶらぶしてるー。な、さわむー、俺ってもしかして愛のキューピッドってヤツ?」
教室の窓から身を乗り出して二人の様子を眺めている加藤に、沢村は何も答えず教室から出ようとした。だが、自分が扉を開けるより先にドアが開き、冷たい眼と視線が合った。
「……和泉」
「あー、きょーくんじゃん、丁度良いや、興くん一緒に遊ぼ……」
加藤の能天気な声はそこで止まり、代わりに物が激しくぶつかり合う騒音が響いた。和泉が近くにあった椅子を片手で持ち上げ、彼に向かって投げつけたのだ。
「俺に近寄るな」
椅子を投げ付けられた加藤は足が折れ曲がってしまったそれを眼の端で捕らえ、肩を竦めてみせる。
「興くんコワーイ」
しかし、椅子が当たったらしい腕側の肩は動かせず、ぶらりと垂れ下がっていた。骨が折れているようだが、彼は痛みを表情に出すことなく、むしろ楽しそうに笑う。
痛みを感じていないのか。
ち、と軽い舌打ちをしてから、和泉は教室から去った。
二人はそれを見送ってから、お互いの顔を見合わせる。
「ねーねー、興くんってば、何しに来たのかな?」
「……俺が知るか」
「もしかして、俺が日向くんに怪我させたの、怒って?」
偶然なのか、加藤の骨が折れているのは、さっき翔に噛み付いたと同じ右側。まぁ、偶然である確率の方が高いだろうが。
どちらにしろ自分には関係ない。沢村が一人教室から出ようとすると、背中から加藤の声が追ってきた。
「あー、待ってよ、さわむー」
「……お前は椅子と机を直してから来い」
終
ちょっと怖めなED。
あ、そういえばこの二人出してなかった……!と思ってこんな事に。
苦手系な方すみません……。
オマケはコレの続きです。ラブラブな主人公ズが見たい方だけどうぞ。
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