蒼い瓶の薬をこっそり持ってく。
「……お前、チョコレート菓子屋でも開く気か?」
翔が寮の部屋に戻ってきてみれば、朝とはまったく違った光景が広がっていた。
沢山の紙袋とその中に沢山詰め込まれた色とりどりの小さなプレゼント。中身は多分チョコレート。
足の踏み場もない位の量で、克己は唯一何も置いてないベッドの上に座って茫然としている……ように見える。
「開く気は無いが……開かないとどうにもならなそうだな」
「克己、お前限度ってのがあるだろ」
「俺に言われても」
「どーすんだよこの量……うぉっ!」
袋と袋の間に足を入れて部屋の中への侵入を計ったが、意外と重いチョコの袋に足を取られ、プレゼントの海にダイブしてしまう。
「翔!大丈夫か」
「だいじょぶ……」
プレゼント自体がクッションとなり、痛みは全然無かったのだが、何故だろう、虚しい気分になるのは。
「あーっ!もう!」
適当に手に取った箱の包装を破り、中に入っていたチョコレートを口の中に突っ込みながら、別な箱を克己の方に突きつけた。
「克己も喰え!三日で片付けるぞ!」
「いや、俺は甘いのはあまり……」
「克己が貰ってきたんだろ……?」
んー?と笑顔で詰め寄ると克己も何も言えなくなったようで渋々と包装を破り始める。
「今日中に3分の1片付けるぞ」
「イエス、サー」
思いっきり日本語英語発音だったのは、克己自身もグッタリしていたからだろう。
「……克己、ごめん……俺なんか気持ち悪くなってきた」
9個くらい片付けたところで、胃が何だか重くなってきた。口元を押さえながら翔は自分のベッドにもぐり込んだ。
「ごめんな、大丈夫か……?」
「大丈夫だけど……しょうゆ煎餅食べたい」
「俺もだ……明日おごる」
コーヒーで甘ったるい口の中を正常に戻しながら、克己は何個目か解からない包装を破いた。
窓の外がやや明るくなっていたのは、見なかったことにしたい。
不思議な気配に意識が浮上した。
ん?と翔が眼を開けると見覚えのある大きな眼が瞬いた。ああ、克己か……ともう一度眼を閉じかけたが、慌てて身を起こすと、上に乗っかっていた彼がびくりと小さな身体を揺らした。
そう、小さすぎる身体を。
「……克己……なのか?」
翔の膝の上に乗っていたのは、10歳くらいの小さな子どもだった。着ている服は大きすぎて、肩からずり落ちてしまっている。
彼は怪訝な顔で眉を寄せ、頷く。
その瞬間、脳裡に過ぎったのはあの小さな天才の顔。
「確かにそうだが、お前は誰だ」
しかも記憶までこの姿だった当時のものらしい。
「遠也!!」
小さな克己を引っ張って諸悪の根源だと思われる天才の部屋の扉を開けると、すでに何人かのクラスメイト達が暗い顔で彼の診察を待っていた。
「……日向…やっぱりお前もか」
「篠田?」
ふらりと立ち上がった正紀はやはりどこか暗いオーラを背負っていて。
「あるんだよ、バレンタインだと……プレゼント開けたらわら人形入っていたり、喰ったら異物混入してたとか……」
目立つ彼らは、よく思われていない場合もある。バレンタインのテンションを下げるのがこういったマイナス方面の贈り物だった。
「俺も昨日喰ったチョコになんか入ってたみたいで……」
くっと声を詰まらせる正紀の姿に、翔も思わず息を呑み、彼の頭に眼が釘付けとなった。
「篠田、お前、その姿……」
「……っ言うな、日向!何も……言わないでくれ!」
目頭を押さえる彼の声に、顔を上げたのは翔に腕を引かれていた克己だった。克己もその視線を正紀の頭上に止め、思わず口を開いてしまう。
「花……?」
そう、正紀の茶色い頭からは一本の花が突き出していた。ピンク色の花弁はとても可愛らしく、地上に生えていたら愛でるべき植物なのだが……。
何故か、ノリノリで歌い、クネクネと踊っている。
「言うなッつったろー!!」
踊って歌える植物を頭に生やした元不良はうわぁんと泣き出してしまう。そんな寄生主の様子に花は歌うのを止め、心配気に揺らめいた。
『YO-YO!相棒!なーにそんなにクヨクヨしてんだYO!元気出せYO、女の一人や二人、どーってこと無ぇYO!俺が一曲歌ってやるから、元気だせYO、な?』
ぺしぺしと葉で正紀の頭を叩く花は、何だかとても男前だった。
『HEYHEY君はロンリーウルフ、不良と呼ばれた14歳―、正義は自分にあると信じ続けた14歳―、冷たいコンクリタワージャングルで君は一人空き缶を蹴り飛ばしたー』
のびのびと歌う花に、正紀はぴたりと泣くのを止め、恐る恐る顔を上げた。
「ちょ、ちょっとイイ曲……?」
……そうか?
何だか一歩違う世界へと入って行きそうな正紀はとりあえず放っておいて。
「で、次は篠田ですか?まったく、怪しげなものは口にするなと何度も……」
「佐木!」
ワケの解からない症状に悩まされる友人達に引っ張りだこだった遠也がうんざりした顔でこちらにやってくる。そして、表情を輝かせた正紀の頭の上で歌っている花を見て、彼を手招きした。
それに合わせて正紀がしゃがみ、遠也と同じ目線になったその時
「こんなの引っこ抜けばいいじゃないですか」
ブチッ。
力任せに歌い続けている花を毟り取った。
予想していなかった痛みに正紀はその場にしゃがみ込み、そんな彼を気にせず遠也は引っこ抜いても尚歌っている花を興味深い眼で眺めた。流石天才はどんな事があっても動揺しないが、容赦もしない。
「ん……?これ、ロボットですね、誰かが夜忍び込んで貴方の頭に付けたんじゃないですか?」
引き抜いた先と触った感じで遠也はそう解釈して、もう興味がなくなったのかその花を正紀に投げつけた。花はまだ歌い続けている。
正紀の症状は荒療治で治し、遠也は茫然と立っている克己へと視線を滑らせた。
「はい、次……は、何ですか日向、どうかしましたか。獣耳でも生えました?それとも笑いが止まらなくなりました?声が高くなりました?それとも……」
今まで見た来た症状を口にしたが、翔は手を横に振り、違うことを伝えた。
「違う、……というか、俺じゃない」
その答えに遠也は嫌な予感がし、彼に促されるままに視線を下へと動かす。そこでは、見覚えのある顔が遠也とほぼ同じ目線の位置にあり、その年齢には相応しくないくらい冷めた目を自分達に向けていた。
「日向、まさか……?」
「……多分、そのまさかです」
こうした効力が現れる薬の存在も、遠也は知っていた。
あの、女。
思い出すのは科学室まで顔を出したあの女子だ。あの部屋にしかこの薬は置いていなかった。多分、あの時こっそり持ち出されてしまったのだろう。そして、それをチョコに入れ、克己に渡し、口に入れてしまった……そういうことだ。
「俺の名は知っているようだな。なら自己紹介は必要ないだろう。質問があれば答える」
一番冷静なのは本人だった。
あまりにも冷静すぎて、周りが一歩ひいてしまうくらいだ。とりあえず遠也の部屋で観察ということになり、正紀と遠也、大志と共に茫然としていたら、正紀の帰りが遅いのを心配したいずるも加わり、狭い部屋にいつもの面子が結局集まった。
自分より年上が集まっているというのに、克己本人は平然とした顔だ。
「では、今貴方は何歳ですか」
遠也が質問リストを作り、その順に沿って質問を始めるが、シャーペンを持ち、眼鏡を上げるその仕草は研究者そのものだ。彼としては、誰かに試したかった薬をこうして偶然試す事が出来て少し嬉しいのだろう。
「11だ」
「学校は通っていますか」
「ああ。小等部5年だ」
「俺達のことは、知っていますか?」
「知らん。朝起きたらそこの奴と同じ部屋にいた」
小さい克己は小さい指で翔を示し、遠也はその答えを用紙に書き込んでいく。やっぱりどことなく遠也の周りの空気がウキウキしている。……楽しいらしい。
「俺からも質問するが、まず、ここはどこだ」
不意に顔を上げた克己と目が合う。もしかして自分に返答を求めているのだろうか。確かに遠也は自分の研究にいっぱいいっぱいのようで、まともな回答を得るには他の人間に聞くしかないだろう。
翔はベッドに座る彼の近くに行き、足元に座った。
「ああ、軍養成学校だよ。知ってるか?」
「知っている。ああ、確かにそうだな……」
彼はきょろきょろと周りを見回し、納得する。
「お前たちは俺のクラスメイトで、この眼鏡の奴の薬の所為で年齢が下がった、ということなんだな」
「人聞きの悪い事を言わないで下さい。俺が飲ませたわけじゃありませんから」
用紙に観察結果をメモしつつも、遠也は普段どおりの態度で克己に接する。
「それにしても、こんな悪趣味な薬を作るなんて馬鹿の極みだな。記憶が後退しては、変装にも使えない」
そして、克己の切り返しもいつも通りだった。いや、普段より心なしか容赦ない。バキリ、と遠也の手の中のシャーペンが折れる音が部屋に響く。
「……御心配なく、一日で元に戻りますよ。ラットで実験したら、その時間で戻りましたからね」
「なら、お前の服を貸せ、眼鏡の。どうやらお前の身長と俺の身長が一番近いようだからな」
これでは外を出歩けない、とぶかぶかなシャツを彼は二三回引っ張って示した。遠也は今にも爆発しそうなくらい口元が引き攣っていたが、自分の薬の結果という負い目もあるのだろう、無言でシャツと綿パンを差し出し、克己もそれを無言で受け取った。
何だか、怖い。
「おい、そこの」
「へっ!?」
オロオロと友人二人のやりとりを見ていたら、突然克己がこっちを振り返る。それに驚いたら、呆れられてしまった。
「へ?じゃない。部屋に戻るぞ。こんなところで着替えられるか。それに、1日で戻るというのなら下手に出歩かない方が得策だ」
極めて怜悧な子どもには驚かされてばかりで、本当に彼が年下なのか疑ってしまうところだ。きっと、この年齢でも自分より頭が良いのだろう、と考えてしまい、ヘコんだ。
じゃあ、また後で、と友人達と別れて、翔は克己を連れて部屋へと戻った。
「……朝も思ったが、何なんだこの部屋は」
部屋に帰ってくるなり、小さな克己の顔が不機嫌になる。大量のチョコレートとそれを食べ散らかした跡で、部屋の中は惨状だ。
「あ、いや……普段はこんなんじゃないんですけど」
「……まぁ、良い。どうせ一日の我慢だ」
ちらりと彼は部屋を一瞥し、疲れたようなため息を吐く。何だかとても心苦しい。
「お前、今日は授業じゃないのか。平日だろう」
克己は腕組みをして翔を厳しい目で見てくる。子どもになっても克己は克己だ。普段より少し高い声で、どこか批難するような言葉に翔は慌てて首を振った。
「平日だけど、今日は先週の合同演習で土日が潰れたから、振り替え休日なんだ」
「合同、演習……?」
「海……海上士官科の人達との合同の演習だ。克己は相手側の教官に褒められたんだぞ」
波乱ばかりだった合同演習で、何が一番印象に残っているといわれればその事だ。たった一人で敵側だった海の生徒を10人くらい相手にして、負ける事のなかった彼を相手側の教官は賞賛し、こちらの教官はどこか誇らしげに胸を張っていた。
克己はその話を服を着替えながら適当に相槌を打ちながら聞く。
「俺も克己に何度も助けられて」
「助けられた?俺に?」
けれど、翔の言葉に初めて聞き返してきた。とても驚いたというような彼の表情に、翔は疑問に思いつつも頷いた。
「ああ。別に演習に限ったことじゃないけど。俺、なんか良く馬鹿やるから、その度克己が」
「……お前は、何だ」
警戒するような黒い瞳に見上げられ、そういえば、まだ自分がこの克己に自己紹介していないことを思い出す。記憶が11歳当時のものだということは、自分は彼と出会っていない。すなわち、彼は自分を知らないのだ。
「あ、悪ぃ。俺は、翔。日向翔。克己のルームメイトで、クラスメイト……ってこれは言わなくても気付いてるか」
「……では、日向」
「あ、翔で良い。克己もそう呼んでるし」
「……なんだと?」
あれ?
極めて友好的に接している……というか、普段克己に接している通りにやっているのに、11歳の克己は眉を寄せ、自分を睨みつける。
「あ、の……俺、何か」
悪いことしたかな?
そう聞こうとするより早く、克己の方が口を開いた。
「お前は、何なんだ」
「へ?」
問われた質問の意味が漠然としすぎていて、首を傾げるしかない。人間です、男です、日向翔です、等々の答えが頭に浮かぶが、彼がそうした答えを望んでいるとは思えない。
「お前は、俺の何だ?」
そうして続けられた問いでようやく少しだけ理解する。が……まだ彼がどんな答えを望んでいるのかまでは解からない。
「えーと、克己?」
「俺は、今まで血縁者以外に名前を呼ぶことを許したことはないし、他人の名を呼んだ事も無い。それどころか、誰かを助けようなんて……一度も考えたことがない」
早口で言う克己の様子から、よほど動揺していることが見て取れる。困惑を隠しもせずに、答えを求めて黒い透明な瞳を向けてくるのに、翔はハッとした。
これは、「親友だ」と答えても良い場面だろうか。
いや、でも克己本人から「親友だ」と言われたわけでもないし、勝手にそう説明するのも悪い気がする。でも、親友だと主張したいなぁ……と思う心をどうにか抑えつけ、眉間に皺を寄せると克己が何故か眼を大きくした。
「克己……それは、自分で考えてくれ。俺の独断じゃ言えないから。でも、俺にとって、克己は大切な人だってことは、言っておく」
「……何?それは、」
「あぁ!ってかもうこんな時間じゃん!克己、急ぐぞ、朝食に間にあわねぇ!」
「お、おい……まだ、話は」
「後で聞く!とにかく、朝は食べないことには一日始まんないだろーが!」
時計を確認したらもう普段朝食を食べに行く時間より30分ほど遅れていた。だから、いつもより小さい克己の手を取って部屋から飛び出す。
腕を引かれる彼が、不思議そうな顔をしていることなんて気付くことなく。
食堂は見事に混んでいる時間帯だった。いつもはそれを見越して速く来ていたのだが、まぁ仕方が無い。
「先に席座ってていいぞ。俺、克己の分も持ってくるから」
そう翔は言ってカウンターの方に行ってしまう。まぁ、彼の言うとおりに席をとっておくか、と二人分の席が開いているところに座り、頬杖をついて待っていた。人の流れを眺めていると、こちらに気付いた生徒が物珍しい目で自分を見ている。まぁ、こんな子どもがいることが珍しいのだろう、と冷静に判断して、無視しておいたが。
「おい、ガキ。どこどきな」
私服の男達が自分を囲んだ時は、流石に顔を上げる羽目になる。
「断る。席なら他にも空いているだろう、そこへ行け」
「随分な口の効きようじゃないか。お前、まだ子供だからこの世界の上下関係がどれほど怖いか知らないな?」
「充分知っているから、消えろ」
色々と煩わしくなり、男が持っているトレイの上にあったグラスを取り、中の水をかけてやった。
「克己!」
慌てたような翔の声にそっちへと視線をやった瞬間、首元が苦しくなる。男に掴み上げられたのだ。
「てめぇ、良い度胸してるな!」
「あの、待って!」
騒がしいと思えばその中心に克己と知らない生徒がいて、翔は慌てて二人の間に割って入る。多分他クラスの生徒だ。上の学年の生徒じゃないことは幸いだったが、向こうは自分の顔を知っていたらしく、少し驚いたような顔になった。
「……お前、E組の日向?」
「あ……の、ごめん、ごめんな?この子、知り合いで、見てなかった俺の責任だ。クリーニング代払うし、殴りたかったら俺が代わりに!」
とにかく頭を下げる翔に、相手は少し気まずい表情になる。まさか、こんな女顔を持つ相手を殴るほど鬼ではないし、ただの水をかけられた程度でクリーニングまでするつもりはなかった。
それより、噂で耳にしていたあの日向翔を目の前にして、少々緊張をしてしまっていた相手の動揺を、頭を下げていた翔は気付かなかったが、彼の背にいた克己の方は眉を顰めていた。
「い、いーよ、別に。ただの水だし、子ども相手にマジになった俺の方が大人げなかった」
心なしか男の顔が紅くなっているのに気付かず、翔はぱぁっと表情を輝かせた。
「本当か?ありがと!あ、これ使ってくれ。返してくれなくて良いから」
ポケットからタオルハンカチを取り出し、それを男に渡す翔を後ろにいた克己はただ厳しい目で見ていた。
「ホントごめんな」
翔は再度そう相手に頭を下げて、怒りをおさめてくれた彼を見送ってからため息を吐いた。それをそ知らぬ振りで顔を背けていた克己はちらりと見てから、また視線を逸らす。
「……克己、駄目だろ」
「何が」
「何で無駄な喧嘩売るんだ」
「ほっとけ。どうせ殴り合いになっても勝てた」
「克己!」
「そりゃ、あんまり良い選択じゃねぇなー?甲賀」
のんびりした声に翔が顔を上げると、いずると正紀がそこにいた。「や」と正紀は手を上げて、克己の小さな頭に手を置き、乱暴にぐしゃぐしゃと撫でる。
「お前は導火線が短いなー?ガキな証拠だ。16歳の甲賀なら絶対しねぇもん」
「ま、甲賀相手なら誰も喧嘩売ってこないだろうけどね」
いずるの言葉は最もで、正紀もうんうんと頷き、ひたすら克己の頭を力任せに撫でる。
「手をどけろ」
その手も、克己に冷静に叩き落とされてしまったが。
叩かれた自分の手を見てから、正紀は人の悪い笑みを浮かべた。
「……まぁー、いいけど?でもな、甲賀。馬鹿な喧嘩を売って買って、後悔するのはお前だぞ?」
「何?」
正紀は意味ありげな視線で翔を見た。今回は翔が収めてくれたからこの程度で済んだが、翔が収めようとしても収められない相手だったらまた状況が変わってくる。
どんな相手でも、翔が仲裁しようと入ってくるのは確実。そこで、怪我をするのは他でもない翔だ。
「喧嘩すんなら、日向の見えないところでやるんだな。甲賀克己は、そのことを充分理解していたぞ」
ぽんぽん、と小さな克己の肩を叩いて、正紀といずるは帰っていった。
「あれ?日向、その子誰?」
どうにかあちこちから視線を貰いつつも食べ終わり、さっさと部屋に帰ろうとしたところで、木戸と廊下で顔を合わせた。にこにこと人の良い笑顔が、今日は何だか気まずい。
「あ、おはよ。木戸……えーと、克己……の弟の昌臣くん。学校見学に来てるんだ!」
我ながら良いフォローだ。
木戸の方もあっさりと納得してくれたらしい。「へぇー」と克己を見て、にこりと人のいい笑みを彼にも向けていた。
「そうだ、日向。今度の日曜暇か?」
「ん?ああ、暇と言えば暇かな」
「お。マジでー。小野達と映画行くんだけど、日向達もどうかと思って。篠田とかにも声かけといてくれないか?」
「良いけど、男だけでゾロゾロと映画行くのかよ」
「8人以上連れて行けば一人千円で観れるんだぞ」
「え、ほんと?行く行く」
「やった。楽しみにしてるぜ、日向」
翔の頭へと伸びそうになった木戸の手に、克己は翔の襟足を掴み、引っ張った。
「へ……?」
突然の事にどうする事も出来ず、どことなく不機嫌な克己の目と視線があう。
「帰るぞ」
行きの時とは反対に、今度は克己の方が翔の腕を掴み、引っ張っていく。
「ご、ごめ……木戸、またな!」
「お、おう」
翔の頭に乗せ損ねた手を見て、木戸はただ戸惑うことしか出来なかった。
「なんだよ、どうし……うぉあ!」
体は小さいくせに力は馬鹿強い。
部屋に戻ってきて、どことなく機嫌が悪い克己は無言で翔をベッドの方へと突き飛ばした。こんなこと、克己にされたことは一度もない。何か彼を怒らせたのだろうか、と不安を抱えつつも身を起こした時、彼は自分の上に乗ってきた。
「何だよ、克己……どうした?」
「……俺に弟がいることも、知っているのか」
先ほど、木戸という男に言っていた言葉に、克己は本日何度目かの驚きを覚えることになった。自分のプライベートな部分も知っている彼は大きな眼を瞬かせ「あぁ」と声を上げる。何てことないと言うように。
「まぁ、一応……克己、面倒見のいいお兄さんだったんだろ?」
「……どうして喧嘩の仲裁などした。俺の力は、クラスメイトなら知っているだろう」
「知ってるけど、無駄に振りかざすもんでも無いだろ。相手に怪我させるし、克己だって無傷で済まないかもしれない。今は、ちっこくなってるわけだし」
「お前は、俺を守るつもりだったのか」
「一応。俺だって、克己ほどじゃないけどそれなりに強いんだからな!」
「……なるほど、わかった」
す、と克己の眼は細くなり、翔の顔をしばらく上から眺めていた。
興味深げに小さな指が翔の頬を撫で、数回輪郭を撫でてから、止まる。
「気に入った。お前、俺の嫁になれ」
そんな子どもの声と共に。
「……は、い?」
え、今俺なんて言われた?
引き攣った声を出すと、克己の眉が上がる。
「聞こえなかったか。嫁になれと言ったんだ、俺の」
おいおいおいおいおい……。
あまりの衝撃に思わず上に人が乗っかっていたが腹筋を使って身を起こした。
「待て待て。俺は、男だぞ?」
「当たり前だろう。この胸は間違いなく男だ」
ベロッと無遠慮にTシャツの裾を捲くられ、ひんやりとした空気が肌に触れる。解かっているならそれで良いのだが……いや、良くない。
「だって、こ、子どもとか生めねぇし!」
「俺は次男だ。一族の血は兄が引き継ぐ。子どもなど必要無い」
「いやいやいや、そういう問題じゃねーっ!だって、俺は、」
「……それとも、他に結婚を考えた相手がいるのか」
「いるわけねーだろ!この歳で!!」
ああああ、何だか頭が痛くなってきたぞ。
目の前の克己は今の返事に満足気に笑う。待て、いないというだけでOKしたというわけじゃない。
「お前一人養うことなんて、俺には造作もない事だ。どうだ、悪い話では無いと思うが?」
確かに。
何でも出来る克己であれば、どんな世界でもトップに立つ事が出来るだろう。そんな彼の隣りに常にいれば、何の苦労もせずにすむかもしれない。が
「……あのな、克己……結婚ってのは、基本的に好き合った男女がやるもんだ。俺とお前じゃ全然ちげぇんだよ」
「何が違う?」
「まず、俺も男、お前も男」
「大した問題じゃない」
「……それに、好き合ってるってわけじゃ」
「お前は俺が好きじゃないのか。俺が、嫌いか?」
急に眉を下げ哀しげな顔になった克己には流石に慌てた。初めて見たから、というのもあるが、子どもの幼い顔でそんな風にされてしまうと、より悲壮感が漂う。
「や、す、好きだけどっ!でもそれちょーっと違う意味かなっ?なんてっ!克己も、きっとそうだよ」
彼は幼いから、友情と恋情を勘違いしているだけだと。そう解釈した自分は正しいはずだ。
けれど、幼い彼は幼い眉間に不釣合いな程皺を寄せ、俯いてしまう。
「お前は、いつも俺の名を呼ぶんだな」
「え……」
そういえば、と思い出したのは普段の事。克己を名前で呼ぶのは自分しかいない。彼と一番親しいのが自分だからだ、と思っていたが。
顔を上げた克己の黒い瞳に、不覚にも心臓が高鳴ってしまった。
「名前なんて、呼ばれるだけ耳障りだった。どうせ兄や弟と区分するだけのものだ。多くの人間は俺の名字にしか興味が無いようだったしな」
「名字?え、克己、お前……」
「有っても無くても似たようなものだと、ずっと思っていたが……お前に呼ばれるのは心地良い……」
すり、と胸に擦寄ってきた小さい子どもを、引き剥がすことも出来ず、初めて聞いた話にただ茫然とするしかない。
少し、そうほんの少しだけ気付いてはいた。いくらなんでも、ここまで何でも出来るというのは一種異常だ。彼の背後には何かあると思っていたが……。
「克己、辛いのか、その……」
「辛くは無いが、疲れる」
「そ、か」
なんか、少し可愛いかも。
こんな風に克己に愚痴を零されるのは初めてだ。黒髪を撫でてやるのも。いつもは自分の方がやられる側なのだが、今日は普段のお返しとなればいい。
「だから、俺の嫁になれ」
「……あのな、何でそうなるんだ」
「一生、俺の名前を呼んで欲しい」
「……それ、親友、じゃ駄目なのか」
「駄目だ。というか、どうせそこから始まっても結局は嫁になると思う」
「何でだよ」
むぅ、と膨れてみせると克己はくすりと大人びた笑みを浮かべ、翔の左手を取り、その甲に頬を摺り寄せた。
「俺が、翔のことが好きだから」
翔は思わず、声のない悲鳴を上げていた。
おかしいだろ、色々。いや、確実におかしい。何で、こんなに心臓が早鐘のように高鳴っているのか。絶対におかしい。
「だから、それ違っ」
「違わない」
「だ、って俺と克己は友達なんだ!克己だって、俺の事友達だって、それだけだ!今は、君は小さいから、ワケがわかんなくなってるだけで!」
ワケが解からなくなっているのは自分の方だ。その自覚はある。でも、正しい事を言っている自覚もある。
「違う、翔」
だから、その声で、否定をするな。
「例え歳が違っていても、俺の事を一番理解出来るのは俺自身だ。“俺”は今まで誰かを守ったり助けたりなんて一度もしたことがなかったんだ」
「だから、それは……克己が優しいからだろ」
翔の言葉に彼は眉を上げ、口角も上げる。
「俺は、俺が優しいと思ったことなど一度もないが?」
「……優しいよ、克己は」
「翔の前だけなんじゃ、ないのかそれは。とにかく、俺を優しいなんて言う奇特な人間はお前だけだ」
「そんな、ことは」
「16の俺は、随分とお前を大切にしているようだな」
ふ、と笑う彼の顔はどこか悲しげで、その理由はさっきの話の中にあるのだろうか。
「大切すぎて友人から脱せないといったところだろう。全く、我ながら情けない」
身を伸ばした克己の唇が軽く頬に触れ、その柔らかい感触に硬直してしまう。
「うぉあああ!?」
「何だ、頬くらいでその反応か。これじゃあ、確かに迂闊に手は出せないな」
顔を紅くして頬を押さえる翔の反応を楽しげに見てから、手でガードされていない反対側にも唇を寄せる。
「ば……っ!おま、11歳が何すんだ!」
慌てて両方の頬を手でガードする翔の反応が面白くてたまらないらしく、子どもは意地の悪い笑みを浮かべた。
「これくらい、外国では挨拶だ。親愛の証だろう?」
「わ、解かってる!これくらい……っ」
11歳に馬鹿にされてはたまらない、と強がってみせたが、相手はすべてお見通しだ。
「それにしては、心音が随分と速いな」
胸に手を置いていた彼には動揺を見抜かれてしまっていて、翔は更に顔を紅くする。そんな反応に子どもは嬉しげに笑い、手を怪しい手付きで滑らせた。
布一枚隔てていても解かるその動きに思わず身を竦ませてしまう。
「感じるのか?」
「ばっ……ちょっとくすぐったかっただけだ!つぅか、そゆこと言うな聞くな!11歳のくせにー!」
「悪いな、まだ数回の経験しかない上に、男相手はまだ無い」
「って経験あるんかい!」
「……翔は、無いのか?」
「哀れむような目で見るな!それが普通なの!」
「いや、嬉しい。俺以外の人間に抱かれるな、女も抱くな、俺が満足させてやるから」
「な、何言ってんだーっ!」
「まぁ、16の俺が大分大事にしているようだから、最後まではやらないが……多少開発の手伝いをしてやるのも一興か」
「だから、克己!」
文句を言ってやろうとした口を何かが塞ぐ。ひんやりとした甘い固体は昨日のチョコレートだ。
「バレンタインか……まぁ、とりあえず俺からの愛だ、受け取れ」
無理矢理口に押し込まれたソレは体温で解け、口内に甘さが広がる。昨日散々食べたのであまり美味しいとは感じなかったが。
「俺から、って……これは克己が女の子から貰ったもんだぞ」
他人から貰ったものを贈られても面白くない。ふぃっと顔を背けると、笑う声が聞こえた。
「妬いてるのか?」
楽しそうに、嬉しそうに笑う彼は子どもなのに、何故こんな余裕で大人びているのか。さっき抱きついてきた時は少し子どもらしくて可愛かったのに。
「なわけあるかっ!」
「翔は可愛いな」
「年下に言われたく無い!」
しかも11歳の子どもだ。教育法区分で言えば、児童である彼に。リアルでランドセルを背負っている彼に。想像すると少し笑えるが、そんな余裕は無かった。
「一応同い年だろう……まぁ、良い。翔、手を貸せ」
そう言って了承を得る前にこちらの左手を取り、まじまじと自分よりいくらか大きめの手を眺めた。
「……翔は拳法か何かをしているのか」
「え、何だ、解かるのか?」
「ああ。傷も多少あるようだな……綺麗な手が、勿体ない」
そう呟き、彼は止める間もなく両手で掴んでいたその手の薬指を口の中へとおさめた。急に指先に感じる温かい粘膜の感触。茫然とそれを見ていると、克己の眼がこちらを見上げ、細くなったと思ったその時
「いってぇぇぇぇ!!」
指の付け根を思いっきり噛まれ、左腕に激痛が走った。
「お、前っ!何すんだ!」
患部は口に咬まれているから押さえる事が出来ないので、肘辺りを右手で押さえ、必死に痛みに堪えた。それを彼は眼で見るだけで、口を離そうとしない。まるで一度喰らい付いたら離れないという鼈のようだ。
「克己!」
普段の彼とは全然違う。昨日まで一緒にいた彼は、自分には絶対こんなことはしてこないはずだ。本当に、彼は幼い頃の克己なのか。そんな、不安が過ぎる。
こちらの不安なんて全く気付いていないのか、痛みで涙目になった翔の顔を眺めながら、彼は小さな舌を動かし、自分で作った傷を舐めた。ゆっくり過ぎるその動きと初めて触れる他人の熱い粘膜の感触に翔は混乱する。
「……すまない。痛かったか」
ようやく指から口を離した子どもは、少ししゅんとした様子で俯いた。
傷はほんの少し血が滲んでいる程度で、大したことはないが、彼の小さな歯型はくっきりとついてしまっている。
「とりあえず、予約だけさせて欲しい」
「予約?」
「左手の、薬指」
そう言われてようやく今の彼の行動の意味を察せて、あ、と間抜けな声を上げる。
確かに痛かったが、そういう意味だと真正面から言われると気恥ずかしい思いだけが残る。
「心臓に一番近い場所、なんだろう?」
「何でそんな事知ってんだよ、11歳」
「常識だろうが、16歳。まぁ、男が結婚出来る歳まであと2年はある。それまで良く考えてくれ」
「だーかーら、16の克己が俺の事どう思ってるかなんて!」
考えるもなにも、今こうして情熱的なことしか言わない子どもは所詮子どもだ。5年経ったら考えが変わって当たり前。16歳の克己が自分を友人以上に考えている事など、有り得ないのに。
だが、子どもは自信あり気に笑った。
「言っておくが、お前は顔も動作も性格も全部“俺”好みだ」
え。
衝撃的な言葉を残してから、子どもは「眠い」と一言言い、そのまま寝に入ってしまった。今、翔の腰にしがみ付き寝息を立てている彼はとても年相応なのだが、そんな寝顔を平安な心で眺める余裕などなく、翔は自分の指に残された幼い歯形を眺めていた。
「……俺に、どうしろと」
どうせ、16歳に戻ったら今日のことなんて忘れてしまうだろうに、こんなにこっちの気持ちをかき乱して、無責任すぎる。
もし、16歳に戻った彼にこれはお前が噛み付いたんだ、と言ったらあの友人はどんな顔をするのだろう。慌てるか、謝るか、それとも……。
口の中に残るチョコレートの味が、さっきまでのことを思い出させる。
ああ、どうしよう。
心臓に、噛み付かれてしまった。
克己が元に戻った時、一体どんな顔をして会えばいいのだろう。
……そういえば、遠也に怪しげなチョコ食べるなって言われてなかったっけ……?
不思議な気配に意識が浮上した。
頭を起こそうとしたら、わずかに頭痛を感じる。前日に酒を飲みすぎたときと感覚が似ていたが、酒は飲んでいない。むしろ食べすぎたのはチョコレートだ。自分が貰って、翔が怒ったチョコレート。
もう少し違う方向で怒ってもらえないかと期待したが、やっぱり無理だったというオチ付きで、二人でひたすらチョコレートを食べた昨夜は地獄以外の何者でもなかった。いつかは、甘いバレンタインデーという時間を過ごしてみたいが……いつになることやら。
手探りで頭上にある目覚まし時計を探し、時間を見れば普段通りの時刻。だが、端に表示されている日にちは、予想とは違った。
「16、日……?」
15日じゃ、ないのか。
時計が壊れたのだと解釈して、克己は目覚ましを元の位置に戻し、そこでようやく腹部にある重さに気付いた。
ん?と克己が眼を下げると見覚えのある大きな眼が瞬いた。ああ、翔か……ともう一度眼を閉じかけたが、慌てて身を起こすと、上に乗っかっていた彼がびくりと小さな身体を揺らす。
そう、小さすぎる身体を。
「……翔……か?」
克己の膝の上に乗っていたのは、6歳くらいの小さな子どもだった。着ている服は大きすぎて、肩からずり落ちてしまっている。
子どもは不安気に瞳を揺らし、頷く。そして、舌足らずな口調で、恐る恐る聞いて来た。
「……おにー、さん……だれ?」
思わず、あの天才の名前を叫んでしまった。
終。
子克己は若いゆえに我侭で積極的です。
克己が積極的になかなかならないから……チビに口説いて貰いました。
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