その知り合いが気になる。

 日向翔はただただ唖然としていた。
 遠也に「放課後、A地区の道場へ行ってください」と言われたので、何か用かと行ってみれば、そこで待っていたのは遠也ではなく、
「久し振りだな、翔――」
 自分の武術の師であり、また義父でもある、穂高だった。
「ほ、だか……さん?」
 夢なんじゃないかと恐る恐る声をかけると、覚えのある笑顔で彼はあっさりと頷いた。
「ああ」
「ほんとに……?どうして、ここに」
 ふらふらと彼に近寄ると、伸ばされた手が肩に触れる。
「俺だって軍出だ。コネは色々と持ってるんだよ。でも、それが効力出るのには流石に時間がかかった」
「……っ穂高さん!」
 堪らず彼に抱きつくと、大きな身体が迎えてくれた。彼の匂いに触れるのは久々で、目の奥が熱くなるのが解かる。
「なんだ、軍に行った途端甘え始めたな、お前」
 前はこんな事しなかったのに。
 くすくすと笑う彼の胸にぐりぐりと額を押し付けると背に腕が回された。
「だって、もう会えないと思ってたし……」
「……そうだな」
 会えて良かった、と呟く彼にもう一度力いっぱい抱きつくと、頭を撫でられた。
 それにしても、普段着流しか道着しか着なかった彼にしては珍しい服装だった。スーツにネクタイという洋装を見るのは長い間共に暮らしていたが、初めてかもしれない。よくよく見たら、少し髪が短くなっている。
「穂高さん、この服どうしたんだ?」
 翔の知っている範囲で、こんな服を彼は所有していなかった。臙脂色のネクタイを弄びながら聞くと、
「まほろが用意してくれた」
 ああ、なるほど。
「変か?」
 眼が見えない彼は今自分がどんな姿をしているのか解からない。少し不安気に聞いてくるのが、何となく可愛いと思ってしまった。
「大丈夫。似合ってる。カッコいい」
「お前は、今……」
「俺は制服だよ。穂高さんも昔着てたんだろ、陸の」
「あれか」
 思い当たった制服に、穂高は少し不満気に呟いた。
「あの色はお前には似合わないな」
「あ。ひっでぇ」
 翔の顔を見たことが無い穂高には想像の域だっただろうが、あえてそこは突っ込まないでおいた。
「海の方が似合ったんじゃないか。セーラー」
「……穂高さん」
 でも、この人は眼が見えなくても何かを解かっている。
 散々言われた事を彼からも言われてしまうと。
「穂高さんがそういうなら、海に転属しようか?」
「しなくていい。見れないのが悔しいからな」
「穂高さんが悔しがるのちょっと見たいかも」
「……翔」
 大人をからかうもんじゃない。
 そう言いながら眉を顰めて見せると翔が笑ったのが気配でわかった。穂高は彼のそんな気配に触れて久々に安堵することが出来た。自分も昔ここに身を置いていたので、ここがどういう場所だかは充分すぎるほど理解している。時折鼻に触れる消毒薬の匂いは、翔がどこか怪我をしているということを示していた。
 きっと日々大変な目にあっているんだろうと思うと目頭が熱くなる。けれど、心配していたほど翔の雰囲気は荒んではいなかった。こんなところに来たら少し性格が荒んでしまうだろうに、むしろ前より明るくなった……いや、何か壁が一つ崩されたような、そんな感じだ。
「翔」
 不意に遠くから飛んで来た声に真っ先に反応したのは穂高の方だった。感じたことのない気配と聞いた事のない声に警戒し、それに相手も気付いたのか対抗するように気配が臨戦体制になる。なかなか、出来る相手だと思った時だ。
「あ。克己」
 翔の能天気な声で相手の警戒が僅かに弛み、こちらも緊張を解いた。彼の友人なのだろうと穂高も察し、子ども相手に容赦ない警戒心を抱いてしまった自分の行動を恥じた。
「翔、友達か?」
「あ、うん。手紙にも書いてるルームメイトの甲賀克己くんだよ」
 けれど、その名前を聞いて少し口元が引き攣るのが解かった。
 思い出せる翔からの手紙の文面――多くは自分が読むのではなく、まほろが読んでくれるのでまほろの声での脳内再生となるのだが、奴も変に感情を込めて読む上、軍内で重宝された七色の声を用いて翔の声真似までしてくれるので尚悪い。その声でよく聞くのが「格好良い、何でも出来る、とにかく凄い」という興奮気味の称賛ばかり。まるで、子どもがテレビアニメのヒーローに憧れるが如く、盲目的な絶賛だ。
 おかしい、普通なら彼の師である自分がそうした対象になるのではないかと勝手な軽い嫉妬心に手紙が来るたびに悩ませられるのだが――その相手が目の前にいるらしいのだ。
「克己、日向穂高さん。俺の―――」
「初めまして、日向穂高です。翔の義父だ。君の事は良く聞いている。ウチの翔が世話になっているようだね」
「いえ、こちらこそ」
 翔の肩を抱いて自己紹介をすると、相手も慇懃な挨拶を返してきた。その声から判断するに恐らくまだ彼の緊張は解けていない。
 まぁ、自分の名前は軍では有名らしいから、その有名人が目の前にいるとなるとそうした態度になるだろう。今初めて自分の名が有名で良かったと思った。
「遅くなりました……」
 その時聞こえてきた声は穂高にも聞き覚えがあるものだった。
「お久し振りです、日向さん。お元気そうで何よりです」
「佐木くんか?」
 翔の中学からの知り合いである佐木遠也とは穂高も面識があった。彼がこの学校にいると知ってどれほど安心したか。それほどの信頼を彼には持っている。
「やあ、佐木くん……君も元気そうで何よりだ」
「有難う御座います。……甲賀も来ていたんですか」
 その時、遠也は招いたはずのない人間がそこにいることに気付き、冷たい視線を送る。その温度に盲目の穂高は敏感に察し、ちょいちょいと佐木を手招いた。
「佐木くん佐木くん」
「はい、何ですか日向さん」
「……甲賀くんって、実際どうなんだ。安全牌か?」
「……すみませんが、今のところそうとは言い切れない状況で」
「そういうことは本人がいないところ、もしくは小声で会話すべきじゃないか?」
 あまりにも堂々とした穂高と遠也の会話を克己は見咎め、翔は「あんぜんぱい?」と首を傾げた。
「だって、翔からの手紙にいつも甲賀くんのことばかり書いてあるから心配になるだろうが!」
 開き直った穂高はぐっと拳を握り締め、本音を正直に口にする。
 それに驚いたのは克己より翔の方だ。
「え?そんなに書いたっけ……?っていうか心配って何の?」
 首を傾げる翔の横で、克己の表情が微妙に変わったのを遠也は見逃さなかった。
「日向さん、余計なことは言っちゃだめです。甲賀を喜ばせるだけです」
「っておい……別に俺は喜んでは」
 いない、と言おうとした時に穂高に物凄い目で睨まれた。おかしい、聴いた話では彼は眼が見えないはずなのだが、何だかとても怖い。
 日向穂高を敵に回すのは正直避けたいことではあった。
 しょうがない、と克己はこっそりため息をついてから口を開いた。
「……確かに、憧れの日向穂高殿に会えたことは喜ぶべきことでしたが」
 !?
 克己の口から「憧れ」という単語が出たことに遠也は彼に胡散臭いというような視線を投げ、翔は純粋に驚いた。
「憧れ?君が、俺に?」
 そして穂高も驚愕したようで聞き返し、克己はゆっくりと頷いた。
「それは勿論。この世界で生きていこうと考えた人間であれば誰だって憧憬の念を抱きます。現将軍の二の腕を勤め上げ、我が国随一の剣の腕を持つとまで称賛された方ですから。俺も剣を握った事のある身ですので、出来る事なら御師事して頂きたいと熱望しています」
「……俺のこの両目が使い物にならないものだとしてもか?」
「関係ないでしょう、剣を極めた貴方からしてみれば視界など無くても充分に通用するはず。それどころか更に感覚が研ぎ澄まされたのではないですか。現時点でも、貴方を超える剣士を俺は知らない」
 ……よくもまぁ、そんな歯の浮いた褒め言葉を並べられるものだ。
 遠也は珍しく饒舌な克己の言葉にただ呆れた。そうやって相手を持ち上げて、色々な事を誤魔化す気に違いない。しかし、遠也の知る日向穂高はそんな仮の賛辞にだまされるほど愚鈍ではない。ここは一つ、彼の浅知恵に喝を入れて欲しいものだ。
「そうか……甲賀くん」
 ふっと薄く笑った穂高は次の瞬間
「君は話せば解かる子だな!」
 バシン、と克己の肩を力任せに叩いていた。
 その強さに思わず克己は呻きそうになったが、相手が満面の笑みでそうしてくるので、一難去ったことにほっとする。
「あ……そうだ、穂高さん!俺、今度出そうと思ってた手紙が部屋にあるんだ。ちょっと取ってくるから待っててくれ!」
 翔は止める間もなく外へと走り出し、
「俺は早良を呼んで来ます。あの馬鹿一体何をしてるんだか……」
 遠也もさっさと出て行ってしまった。
「よろしく頼むよ、ウチの子」
「え?あ、は……」
 しばしの沈黙の後、穂高が話しかけてきたが、肩に置かれていた彼の手に突然さっきまでとは全く比べ物にならない程の力を込められ、骨が軋む。
「いや、何、気にしないでくれ。ただ、俺が盲目だからといって侮って貰ったら困るな。むしろ、見えないからこそ、見えてくるものというものもあるんだよ、甲賀くん」
 どうやら誤魔化せてはいなかったらしい。
「別に別に別に羨ましいなんてこれっぽっちも思っちゃいないさ。翔と毎日同じ部屋で寝起きして毎日クラスで共に勉強して毎日風呂も共に入って毎日あの子の隣りにいられるなんて別に別に別に羨ましくなんかないんだぞ?」
 それならどうして今自分の肩を掴んでいる手に力が加えられていくのだろう……。
 そうは思ったが、口には出せなかった。さすがの克己も先輩である彼と一戦を交えるとなると勝てる気があまりしない。
「俺なんてあの子と会った時はもう目が見えなくなってたから、顔なんて実は見たことないのになぁ……」
「はぁ……」
「君から見てどうだ?翔の外見は」
「あぁ、何と言うかとても……」
 うっかり可愛いと言ってしまいそうになり克己は言葉を止める。いや、でも確かに一般的な形容詞を彼に当てはめるとしたらそれしかないのだ。贔屓目が入っているとしても、恐らく10人が10人そう言う容姿である。だが、剣術家の弟子に当てはめる単語としては間違っているかもしれない。
 でも
「可愛らしいと思いますが」
 あまり嘘を吐くのも得策ではないだろうと判断し、思っている事をさらりと口にした。
「体は多少細すぎるのが気になりますが、体術はクラスでも上位に入る腕前です。貴方の御指導の賜物です、変な声をかけられても自分で撃退出来ているようなので。しかし、あの無自覚振りはどうにかして欲しいところなのですが。そこも良いところと言えば良いところなんだが、自覚が無さ過ぎるのも考え物だ。あからさまに変なヤツに声をかけられてもフラフラと付いて行くし、注意しても男だから平気だとか言うし、変な所で無防備だ。おかげで眼が離せない。あんたは一体どういう育て方をした!」
「……ごめんなさい……」
 気が付けば敬語を忘れている克己の勢いに流されて謝っていた。昔、遠也にも似たような小言を受けた事がある身としては肩身が狭い。
「いやでも、そういうところが可愛いだろ?」
「まぁ、そうだ……」
 あ。
 うっかり口を滑らした克己に、ニコッと穂高は笑みを返す。何だかとても怖い笑顔だった。
「甲賀くん」
「……はい?」
「さっき、俺に師事して欲しいと言ったな」
「……はい」
「剣を持ちなさい。少し、見てあげよう」
 すらりと抜かれた木刀からは真剣ではないはずなのに、その切っ先から殺気が立ち上っているように見えた。
 ……木刀で殺されるかもしれない、なんて嫌な予感。


「日向、どうしたんです?」
 道場の扉の前で立ち竦んでる翔の背を見つけ、遠也は声をかけた。中には彼にとって最も親しい二人がいるのに、どうしてそんなところで足を止めているのだ。
 彼は、あ。とこちらを振り返り、視線でその理由を教えてきた。
「穂高さんが克己に剣の稽古つけてるんだ」
 道場の中を覗いてみると、ああ確かに穂高が木刀を握り、同じく木刀を手に取っている克己と一戦交えている。激しい打ち合いの音は稽古と済まされる程度ではないような気がするが。
 双方ともかなり集中しているようで、確かに中に入っていけるような空気ではない。武術を齧っていた翔なら尚更だろう。真剣な稽古に水を差すこと程、双方に失礼な事は無い。
「良いなぁ」
「え?」
 翔が拗ねたような眼でその一戦を見ているから、理由が解からず遠也は少し眼を大きくした。
「だって、俺穂高さんに、あんな風に剣の稽古つけてもらったこと無いし……克己、ずるい」
 多少の使い方は習ったが、あんな風に試合をしてもらった事は一度もない。元々剣の使い手であった穂高の本分はそれなのに、自分が習ったのは拳。
「それに、克己だって普段俺相手にあんな真剣な顔で試合してくれないし……」
 自分よりレベルが高い相手と戦う克己は確かに押されている面が多かったが、表情はどこか楽しげだ。自分相手の時は、そんな顔をした事が一度もない。
 むぅ、とちょっと悔しげな顔をする翔はやはり、彼らが何故こんな事になっているのか解かっていない。
「……日向、まだかかりそうなので夕食でも先に食べに行きましょうか」
「そだな。邪魔しちゃ悪いし……ちぇー。穂高さんも克己じゃなくて俺に稽古つけてくれれば良いのに」
「まぁまぁ、後できっと相手してくれますよ」
「だと良いんだけど」
「あ。まほろさんからバレンタインチョコだそうですよ。俺も貰いました」
「え、マジで?わざわざこれ渡しにきたのか、穂高さん……」
 遠也から渡されたラッピング済みの平たい箱を興味深げに眺めてから、翔は苦笑した。
 ありがとう、と後で言わないと。

 二人は遠也が翔を掻っ攫っていったことに気付かず、そのまま夜9時までぶっ通しで戦い続ける羽目になることを、この時予想出来るほどの余裕は無かった。
終。

穂高さんラブラブED。
と見せかけて遠也ED(笑)


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